サラリーマンと御曹司

文字数 1,994文字

「何か良い事あったんすか?」
 安居酒屋のカウンタで舘内(たてうち)は楽しそうにメニューを眺めている。
「何でそう思う?」
「いつも割り勘なのに、今日は奢りって」
 舘内は職場の後輩だ。であれば奢って当然かもしれないが、やつの実家は江戸時代は藩主様御用達で昭和では宮内庁御用達という名門の和菓子屋らしい。社会勉強のために我が社に入ったという令和の御曹司なのだ。
「おお、何でも好きなもん頼んでいいぞ」
 この店で一番高いものでも高が知れている。
「で、どんな良い事があったんです?」
「実はな」
 そこに日本酒が届いたので会話が途切れた。あらためて話を続きをと思ったところで、今度は後ろのテーブル席の会話が耳に入った。盗み見ると同じくサラリーマンと(おぼ)しき2人組だ。会話といよりも片方の男が一方的に喋っている。
「奨学金なんか借りて馬っ鹿じゃねえの。ありゃ奨学金じゃなくてローンだぞ、学生ローン。借金じゃねえか。可哀想に大学卒業と同時に借金まみれ。何だっけ、日本学生支援機構? サラ金と変わらないって。延滞したら大変だぞ。厳しい取り立てされて、裁判所から呼び出されたりするらしいぞ。そういやお前、彼女いたろ。彼女は知ってんのかよ。借金抱えたまんま結婚なんかできねえぞ。えっ、彼女も奨学金借りてんの? 信じらんね。二人揃って借金かよ。俺ならそんな女、願い下げだわ」
 くそ。せっかく久しぶりに旨い酒を飲もうと思ってたのに、よりにもよって——。
 勢いよく飲み干した日本酒が食道に流れずに頭に回った。
 せっかくの良い気分を台無しにしやがって——。
 お猪口(ちょこ)をカウンタに叩きつけるようにして立ち上がろうとしたとき、舘内は既に後ろの席にいて「お兄さん、もう少し小さな声で話しましょうか」なんて言っていた。
「こんな安い店で上品に飲めってのかよ」
 物腰柔らかな御曹司とは対照的に相手は喧嘩腰だ。
「お兄さんのために言ってるんだよ。恥かかないように」
「何だと?」
 まずい。これ以上ヒートアップするなら止めに入らなければ——。
 こっちは普通に醒めてしまった。
 だが、続けて御曹司が冷静に語ったのは意外過ぎる内容だった。
「貸与型の奨学金は借金だけどローンとは違うの。ローンは返済能力のある人しか貸してもらえない。奨学金は返済能力関係なく貸してくれるの。SNSとかでも奨学金と呼ばずにローンって呼べとか息巻いている人いるけど、呼び方変えても本質は変わらないでしょ」
「現に多くの人が返済に苦しんで延滞しているじゃないか」
「延滞は一部の人だけ。ほとんどの人はちゃんと返済してるよ」
「日本だけだぞ、奨学金という名のローンで学生を借金漬けにしている国は」
「アメリカだってまさに学生ローンの問題は深刻なんだ。破産しても免責されなかったり、日本より悲惨な例は世界にいくらでもある。SNSの戯言(たわごと)を真に受けちゃだめだよ」
「一部の人って言っても延滞すりゃサラ金並みの厳しい取り立てに合うって言うじゃないか」
「それも奨学金を叩きたい人たちの印象操作だよ。返済を猶予したり減額したりする制度もあるし所得連動型の返済方式だってある。長期延滞者に対して裁判所を使って督促するのは、民間と違って公的な資金だから全ての延滞者を同等に扱うためだには仕方ないんじゃないかな」
「お前、機構の回し(もん)かよ」
「違う。俺も奨学金を借りてた一人だよ。奨学金が借金だってことは分かってなきゃいけない。でも必要以上に恐れる必要はない。それなのにローンだサラ金だと()(ざま)に批判して、そのせいで優秀な学生が進学を躊躇するようになったそれこそ問題だ。四年間遊ぶだけの馬鹿はどうかと思うけど、ちゃんと能力も意欲もある学生なら必要に応じて奨学金を借りて進学すればいい。大学の学費が高いことはまた別の問題だと思うよ」
「奨学金なんて呼ぶから借金だって分からずに後で苦労する学生がいるんじゃないのかよ」
 そう言いつつも相手の男の勢いはかなり削がれてしまっている。
「ローンって呼ばなきゃ借金だって分からないほど低レベルなやつ、進学する意味ある?」
 俺の出番はなかった。
「あー喋り過ぎて喉乾いちゃいましたよ」
 席に戻ってきた舘内は残っていたビールを飲み干し、店員にお代わりを頼んだ。
「お前、奨学金借りてるなんて嘘だろ?」
「本当ですよ。うちの親、成人したら自分で生きろとか、急にケチ臭いこと言い始めて」
「そうなのか。実は俺も借りててよ、今日完済したんだよ」
「あ、それで奢りですか」
「そういうことだ。あいつのせいでせっかくの完済記念の酒が不味くなるところだったぜ」
「へえ。それにしても完済まで長くかかったんですね。俺、卒業してすぐにお年玉貯金解約して全額返済しましたよ。忘れてたんですよ、貯金あるの」
「……。そ、そうか。まあ飲め、遠慮するな」
 やはり御曹司なんか誘うんじゃなかった。家に帰ってから嫁さんとゆっくり飲み直しだ。




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