第1話
文字数 1,962文字
入道雲をベッドの上でしきりに眺めていた。ベッドわきの机にはインスタントカメラが無造作にある。まだ一度も使ったことがないカメラ。カメラマンの圭さんが私と弟の樹に「好きなものを見つけたら撮ってごらん」と贈ってくれたものだが、私はレンズを覗いたことすらない。
天使の王国のような入道雲をひたすら見つめていたら、天使がひょっこり顔を出してくれる気がした。天使を見つけた人だけが、きっと入道雲の後ろにある雲の宮殿に連れて行ってもらえる。そこではパパが暮らしていて……。
「ただいまあ!」
はっと覚醒した。七月の晴天の中、うっすら眠っていたらしい。じんわりと体が汗ばんでいる。
威勢よく帰宅を告げる声の勢いそのままに、樹が階段を駆け上がってくる。
「お姉ちゃんほら見て!」
ノックもなしに私の部屋に入ってきた樹は、写真の束を突き出した。
圭さんと一緒にどこかへいったと思ったら、こんな写真を撮りに行ってたのか。名前の知らない赤い実、光っている川の水面、笑顔の圭さん、虫かごの中のアゲハ蝶。
「すごいでしょ、これ、僕が見つけたユートピア!」
「……ユートピアって意味知ってて言ってんの?」
「リソーキョーて意味でしょ! 圭さんが教えてくれた。圭さんにほめられちゃった、見つけるのが上手だって」
嬉しそうな樹を私はついギロリと見下ろした。樹はママの恋人、圭さんと仲が良い。パパが死んだとき、樹はまだ二歳だったから、パパのことを覚えていないのも無理はない。ずっとパパがほしかった樹にとって、圭さんは念願の人なんだろうが、私はそうじゃない。パパが死んだとき私は七歳で、パパのことは全部覚えてる。
早く部屋から出ていってほしいし、写真もしまってほしい。圭さんと一緒に見つけた樹のユートピアなんて、私は一切の興味を持っちゃいけない。なのに、鈍感な樹は私の気持ちに一ミリも気づかず、写真を披露し続ける。圭さんと樹のツーショットや、川で転んで苦笑いしてる圭さん。
こいつの理想郷はこれなのか。圭さんがいるところが樹の理想郷。
パパが死んで、パパがいないこの世界が、理想郷?
どこが?
ふいに込みあげた疑問に全身の血が一気に沸騰して、何枚も何枚も続く写真の束を、私は樹の手からはたき落とした。
「馬鹿じゃないの! ユートピアなんてあるわけないじゃん。知らないの? ユートピアの語源ってこの世に存在しない場所って意味なんだよ!」
私の怒鳴り声と、圭さんがひょっこり部屋に顔をだすのが同時だった。樹と圭さんの驚いた顔が私を見つめ、私は、二人の後ろにある本棚に飾ったパパの写真を見ていた。正確には、パパの写真から、あの記憶を。
泣き続ける母と、何もわからず指しゃぶりをする樹と、高いところにあるパパの顔写真。白い箱に入ったパパは冷蔵庫から出されたばかりのお肉のように冷えていた。ママの嗚咽と肩の震えが私の肌を細かく撫でて、震えを止めたくて、ママの手を強く握った。パパがいないから、私が二人を笑顔にしなくちゃと心を込めて。
「中学生にもなると、ユートピアの語源も知ってるんだな。すごいな玲は」
圭さんの落ち着いた声がして、パパの写真から圭さんへ視線を移した。圭さんは穏やかな表情で床に散らばった写真を拾っていた。
「ちゃんと見たか? 樹のユートピアがいっぱいあって、よく撮れてるんだけどなあ」
圭さんが写真をベッドの上に置いたちょうどその時、ママの声が玄関から響いた。買い物から帰宅したらしい。荷物運びのために圭さんが呼ばれ、部屋には私と樹だけが残る。
「……お姉ちゃんさ、カメラもらったとき、圭さんが言ったこと覚えてる?」
ぼんやりと樹の顔に焦点を合わす。二歳だった樹は今八歳で、全然違う顔のように見えるし、全く同じ顔をしているようにも見える。
「圭さんは、好きなものを撮って、て言ってた。僕、レンズを通して見たら、たくさん好きなものを見つけた。今まで気づかなかったけど、いっぱいあったんだ、好きなもの」
目を見張る。樹の目の表面に涙が膨れ上がっている。こぼさないように、泣いている。
いつから、こんな器用な泣き方を。
樹は急に汗を拭うようにシャツの裾をまくりあげ、顔全体を乱暴に拭いた。
「僕うまく言えないけどさ。お姉ちゃんも見つけられるよ。好きなものって増えてくからさ」
「樹、玲、おやつよー!」
ママの声が響いた。樹が大声で返事をし、大きな音を鳴らして階段を降りていく。私は力なくベッドに腰掛け、樹の撮った写真をシーツの上に広げた。写真の中の楽しそうな樹は、知らない子のようにも見えた。
「鈍感は、私か」
呟いてパパの写真を見つめた。いつにもにまして、パパの笑顔は優しく見える。そっと手を伸ばして、机の上のカメラをに触れる。日に当たっていたカメラはほんのりと暖かかった。
天使の王国のような入道雲をひたすら見つめていたら、天使がひょっこり顔を出してくれる気がした。天使を見つけた人だけが、きっと入道雲の後ろにある雲の宮殿に連れて行ってもらえる。そこではパパが暮らしていて……。
「ただいまあ!」
はっと覚醒した。七月の晴天の中、うっすら眠っていたらしい。じんわりと体が汗ばんでいる。
威勢よく帰宅を告げる声の勢いそのままに、樹が階段を駆け上がってくる。
「お姉ちゃんほら見て!」
ノックもなしに私の部屋に入ってきた樹は、写真の束を突き出した。
圭さんと一緒にどこかへいったと思ったら、こんな写真を撮りに行ってたのか。名前の知らない赤い実、光っている川の水面、笑顔の圭さん、虫かごの中のアゲハ蝶。
「すごいでしょ、これ、僕が見つけたユートピア!」
「……ユートピアって意味知ってて言ってんの?」
「リソーキョーて意味でしょ! 圭さんが教えてくれた。圭さんにほめられちゃった、見つけるのが上手だって」
嬉しそうな樹を私はついギロリと見下ろした。樹はママの恋人、圭さんと仲が良い。パパが死んだとき、樹はまだ二歳だったから、パパのことを覚えていないのも無理はない。ずっとパパがほしかった樹にとって、圭さんは念願の人なんだろうが、私はそうじゃない。パパが死んだとき私は七歳で、パパのことは全部覚えてる。
早く部屋から出ていってほしいし、写真もしまってほしい。圭さんと一緒に見つけた樹のユートピアなんて、私は一切の興味を持っちゃいけない。なのに、鈍感な樹は私の気持ちに一ミリも気づかず、写真を披露し続ける。圭さんと樹のツーショットや、川で転んで苦笑いしてる圭さん。
こいつの理想郷はこれなのか。圭さんがいるところが樹の理想郷。
パパが死んで、パパがいないこの世界が、理想郷?
どこが?
ふいに込みあげた疑問に全身の血が一気に沸騰して、何枚も何枚も続く写真の束を、私は樹の手からはたき落とした。
「馬鹿じゃないの! ユートピアなんてあるわけないじゃん。知らないの? ユートピアの語源ってこの世に存在しない場所って意味なんだよ!」
私の怒鳴り声と、圭さんがひょっこり部屋に顔をだすのが同時だった。樹と圭さんの驚いた顔が私を見つめ、私は、二人の後ろにある本棚に飾ったパパの写真を見ていた。正確には、パパの写真から、あの記憶を。
泣き続ける母と、何もわからず指しゃぶりをする樹と、高いところにあるパパの顔写真。白い箱に入ったパパは冷蔵庫から出されたばかりのお肉のように冷えていた。ママの嗚咽と肩の震えが私の肌を細かく撫でて、震えを止めたくて、ママの手を強く握った。パパがいないから、私が二人を笑顔にしなくちゃと心を込めて。
「中学生にもなると、ユートピアの語源も知ってるんだな。すごいな玲は」
圭さんの落ち着いた声がして、パパの写真から圭さんへ視線を移した。圭さんは穏やかな表情で床に散らばった写真を拾っていた。
「ちゃんと見たか? 樹のユートピアがいっぱいあって、よく撮れてるんだけどなあ」
圭さんが写真をベッドの上に置いたちょうどその時、ママの声が玄関から響いた。買い物から帰宅したらしい。荷物運びのために圭さんが呼ばれ、部屋には私と樹だけが残る。
「……お姉ちゃんさ、カメラもらったとき、圭さんが言ったこと覚えてる?」
ぼんやりと樹の顔に焦点を合わす。二歳だった樹は今八歳で、全然違う顔のように見えるし、全く同じ顔をしているようにも見える。
「圭さんは、好きなものを撮って、て言ってた。僕、レンズを通して見たら、たくさん好きなものを見つけた。今まで気づかなかったけど、いっぱいあったんだ、好きなもの」
目を見張る。樹の目の表面に涙が膨れ上がっている。こぼさないように、泣いている。
いつから、こんな器用な泣き方を。
樹は急に汗を拭うようにシャツの裾をまくりあげ、顔全体を乱暴に拭いた。
「僕うまく言えないけどさ。お姉ちゃんも見つけられるよ。好きなものって増えてくからさ」
「樹、玲、おやつよー!」
ママの声が響いた。樹が大声で返事をし、大きな音を鳴らして階段を降りていく。私は力なくベッドに腰掛け、樹の撮った写真をシーツの上に広げた。写真の中の楽しそうな樹は、知らない子のようにも見えた。
「鈍感は、私か」
呟いてパパの写真を見つめた。いつにもにまして、パパの笑顔は優しく見える。そっと手を伸ばして、机の上のカメラをに触れる。日に当たっていたカメラはほんのりと暖かかった。