第1話

文字数 5,035文字

 灰色の緞帳(どんちょう)がゆっくり下りてくる。それは、雪原に倒れたまま閉じようとしている菜美(なみ)のまぶただ。氷の粒をまとったまつ毛が虹色にぼやける。奇妙に明るい空を黒い雪雲が走り、風の悲鳴が激しい。なのに、菜美は不思議なくらい怖くなかった。
(眠い…。)
猛吹雪にすべての感覚が溶けて消えそうな中、一瞬だけ花の香りが鼻腔を通過した気がして、菜美ははっとした。
(気のせいだよね、花なんて咲いてるはずないもの…。)
 吹雪が一瞬途切れ、黄金色の空を背景に白く輝く山脈が姿を現した。あまりに美しく荘厳な風景に見とれ、菜美は自分が独り倒れている現実を忘れそうだった。
睡魔にたえきれず閉じたまぶたに、曽祖父・俊造(しゅんぞう)の顔が浮かぶ。自分の郷里の山々を愛していた俊造は、幼い曾孫へこの山の話を何十回も聞かせた。20年経った今、物語は断片的に甦る。
―ヒーじいちゃ、ふぶきでたおれたおはなしして!
―よし、いいぞ。世界で一番きれいな樹氷は、白い雪の怪獣でな…じいちゃはそこを歩いてたら迷子になり、倒れちまった…。
(じいちゃ…あの話、最後はどうなったんだっけ…?)
 突如、菜美は全身を恐怖につかまれて目を見開いた。太陽が雲堤に遮られようとしている。不気味に沈んでいく雪原を見ていると震えが歯茎に伝わり、父母の心配そうな青い顔が浮かんで消えた。
(あたし、ここで終わるの?嫌だ!誰か…!助けて!)
菜美は必死に半身を起こそうとしたが、体を起こすことはおろか、両目は容赦なく閉じようとする。すると、細長い絵巻物のような視界に、人影が低い姿勢で横切るのを見た。
「だれか、おねがい、助けて!」
叫んだつもりなのに、雪つぶてで閉じ込められ、声はのどから出て行けない。必死に何度も叫んでいるうちにすべての力を使い果たしてしまった。
 菜美はついに目を閉じた。うなる吹雪の中に、高い叫び声が響いた。
マイゴダ マイゴダ! ツレテイコウ!
その言葉は千切れながら耳へ飛び込んだが、菜美の薄れていく意識には、風のうなり声にしか聞こえなかった。吹き寄せる雪が、オレンジ色のウィンタージャケットへみるみる積もり、すっぽり覆い隠すまで数分もかからなかった。

―ウォン…オン!オン!
獣が吠える声。最初に蘇ったのは聴覚だった。細く眼を開くと、視界はまぶしい白さで埋まっている。手前も奥も、左右も測れない白い光に、菜美は震える手を伸ばした。
(まさかここは…あの世?)
背筋に冷たい刃が当たった気分になり、菜美は首を捻じ曲げた。強烈な太陽光線が両目に飛び込んでくる。
(青空!あたし、助かったんだ…。)
背後からぼそぼそと声が聞こえる。
「…マイゴ連れてきて火なんか炊いてたら、またばあちゃんに笑われるな。」
四方が雪壁にかこまれ、真上の青空がまぶしく輝く。菜美は体の向きをそっと変え、細い背を見せて焚き火をする声の主を眺めた。そばで寝そべる獣がチラッと菜美を見る。
 湿った材がシュルシュル音を立て、白煙とともに燃え始めると、菜美は冷えた手足が少しずつ温まってくるのを感じた。
 声をかけようとした時、その人物が振り向いた。少年に見える白い顔には、ぼさぼさの頭髪がかかり、薪をつかんでいる腕も青白く痩せ細っている。
「いつから起きてた!驚いた!」
少年は高い声を張り上げ、前髪に隠れそうな灰色の瞳を大きく見開いた。菜美はあわてて言いつくろった。
「ごめんなさい…あの世に来たかと思ってぼおっとしちゃって。あなたが助けてくれたんですね?本当に、ありがとうございます。」
少年はその言葉を半分も聞き終わらないうちに、早口でなにやら文句を言いながら山盛りの薪を抱えた。そして、それを菜美に向かって突き出した。
「起きたのなら自分で火の番してくれよ、ぼくは熱いの苦手なんだぞ。」
「え?はい…。」
菜美は焚き火を任されたことなど初めてなので、恐る恐る薪を投げ入れてみた。すると、勢い良かった炎が急激に乏しくなってしまった。少年が困ったように足踏みした。
「ああ!ぼくが熱いの我慢して火を起こしたのに、そんな下手くそじゃ消えちゃうだろ!テリク、吹いてやってよ。」
あわてた菜美の横に、薄茶色の大きな獣がすっとやってきた。とがった鼻先から耳までバックリ開いた口から、赤い舌をのぞかせて火へ息を吹きかける。
 ボオオオ!火が再び勢いよく燃え上がり、菜美が差し込んだ木切れへ燃え移った。
「ありがとう…。」
菜美は獣へ頭を下げた。慎重に木切れを立てかけると、今度は炎がしっかり立ち上がる。指先にじわじわ感覚が戻ってきて、菜美は火に当たっている幸せをかみしめた。命の恩人である少年は、テリクという名の獣を抱き寄せ、雪の壁の上から菜美を珍しそうに見下ろしている。
「お前、マイゴだろ?なんでここいらに来た?」
「25歳にもなって迷子って恥ずかしいけど。スノウモンスター…樹氷を見たくて。ずっと昔、この山の樹氷が世界一美しいって、ひいおじいさんから聞いたのが忘れられなかったの。でも…たどり着く前に、吹雪にあっちゃって。」
少年は、ふうんと言って立ち上がると、ぐるっと周囲を見渡した。
「モンスタとかジュヒョって、あのトドマツたちのことか?」
「え!そこから見えるの?」
菜美はふらふらと立ち上がり、垂直な雪の壁にとりついた。少年が腕を差出してくれたが、自分よりか細い子どもの腕にすがるわけにいかない。それもつかの間、菜美の身体は軽々と壁の上へ引き上げられていた。少年につかまれた手首は背筋が震えるほど冷たく、菜美は、心臓に冷風が吹きつけられたように感じた。
(この子…一体どうしてこんな冷たいの?やっぱりここはあの世なんじゃ…。)
けれど、そんな不安が一瞬にして消えてしまう景色が菜美を待っていたのだ。
「うわあ…なんてきれいなの!」
そこは、見渡す限り広大な樹氷原(じゅひょうげん)の真ん中だった。紺碧の空を背景に、雪を纏った樹氷が平原を埋め尽くす。菜美のすぐ目の前では、純白に膨れ上がった巨大なスノウモンスターたちがそびえ立っていた。
(これが、じいちゃが言ってた世界一美しい樹氷なんだ…。)
菜美がぼんやりしたまま樹氷群に見とれていると、少年が平原を指しながら話す。
「ここいらはマイゴが多いからマヨゴダイラってよぶんだ。あっちはお前が倒れてたヤチバッケっていう崖っぷち。テリクが見つけたんだよな。」
何度も眺めて頭に入っている地形図を思い返し、菜美はぞっとした。樹氷原の西側は、切急斜面で切れ落ちる絶壁のはずだ。ふと、その崖付近がぼんやり白く煙り始めたのを菜美は見つけた。
少年も目をこらし、少し厳しい表情で振り返った。
「ああ、ばあちゃんがもうひとあばれするんだな。マイゴ、今のうちに帰らないと地吹雪で戻れなくなるぞ。」
そりゃ大変!と菜美も顔を引き締めた。一度助かったのに、またあの恐ろしい思いをしたくない。下山する東の方角は澄みきった空にくっきり陵線が見えるので、菜美はほっとした。
「本当にありがとう。テリクっていうんだっけ?あたしを見つけてくれてありがとうね。お礼に何かあげたいけど…リュックもなくしちゃったんだったわ。」
少年がじれったいように早口で急かした。
「そんなにゆっくりしゃべってたら、ばあちゃん帰ってくるぞ。それに、ありがとうなんて言うな!ぼくらがマイゴを助けたりすると、ばあちゃんには落ちこぼれって笑われるんだから。」
「そうなの?落ちこぼれ…なの?」
「ふん!ぼくだって本気出したら、マイゴなんかあっという間にコッチへとれるんだ。な、テリク!お前だってばあちゃんが連れてる奴らより速足なんだよな!そうだ、このマイゴにぼくらのすごいとこ見せてやろうよ。」
少年がそう言うと、テリクが菜美の前に細い身体を伏せ、緑色の瞳で見上げた。
「背中に乗せてやるって言ってるんだ。」
菜美は、両手を振って遠慮した。
「あたしけっこう重いんだからダメ!歩いていくから心配しないで。」
「何言ってんだ、テリクはお前なんか100人乗せてもへっちゃらさ。早くしろよ!」
 少年に背を押され、菜美は戸惑いながら獣の細い腰にまたがった。そして言われるまま、薄茶色の柔らかな胸に腕を回した。少年が跳躍したのを合図に、テリクは立ち上がり、雪煙を巻き上げて走り始める。
「ちょ、ちょっとまって!速すぎ!」 
菜美は悲鳴をあげ、獣にしっかりしがみついた。やっと目を開くと、飛ぶように後ろへすっ飛んでいくスノウモンスターに見え隠れし、少年がニヤニヤ笑って疾走している。
「あ、虹!」
彼らが走り抜けると粉雪が宙へ舞い、色鮮やかな虹が生まれた。丸く輪を描く虹は雪原を染めては消え、再び違う雪原へと現れる。
 菜美は顔を横にしたまま、時々呼吸するのすら忘れ、その幻想的な光景に目を奪われていた。怖さも寒さも、何も感じなかった。
 樹氷原を駈け抜け、純白な平原の外れまでたどり着くと、少年はストンッと立ち止まり、テリクもふんわり駈足を止めた。ようやく身体を起こした菜美の髪が一本残らずぼうぼうに逆立っていたので、少年がげらげら笑った。菜美が雪まみれの頬をぬぐうと、クリーム色の花びらが掌にくっついた。
「この花びらの香り!嵐で倒れた時も、同じいい香りがしたんだった。」。
「ああ、もうスイセンヅキに入ったんだ。」
「水仙の花びらなの?」
菜美はジャケットの胸ポケットへそれを大切にしまった。カメラもスマートフォンも無くしてしまった菜美には、彼らと出会ったこの空間の証はただ一枚の花びらしかない。
 少年は、キャタピラで圧雪された雪道を指差した。
「そこを行けば、目をつむって歩いたって町に着くよ。」
 少年は菜美に背を向けると、テリクと共に早足で遠ざかりながら言葉を投げてよこした。
「今度マイゴになったら、コッチにとっちゃうぞ!もう火もたかないぞ!」
菜美も負けずに叫んだ。
「もう絶対迷子にはならない!でも…あなたたちにはまた会いたいな!」
その言葉が届いたのか、少年と獣がそろって菜美を振り返り見た。
 それを最後に、菜美の記憶は再びぷつりと断たれた。
 
 夢の中。菜美は重い足を引き抜いてはまた雪に埋まり、ひたすら歩き続けていた。樹氷が立ち並ぶ雪原に、古びた蓑と菅笠を身に着けた俊造が先を歩いているのが見えたので、菜美の足は軽くなっていく。俊造の目の前へたどり着いた時、菜美は5歳の幼子に還っていた。
―ヒーじいちゃ!ふぶきでたおれたおはなしして!さいごはどうなるの?
俊造が皺だらけの顔で笑いながら、菜美へ両腕を伸ばした。
―なんだ、じいちゃが何十ぺんも話したのに、憶えてないのかい?世界一美しい雪の怪獣がいる山には、世界一優しい雪童子(ゆきわらす)雪狼(ゆきおいの)が住んでいてな、迷子になって倒れちまったじいちゃは、命を助けてもらったんだ…。

(あれ、また真っ白の雪の中?それとも…今度こそあの世?)
見開いた目に映るぼやけた白い壁。菜美が黙ってそれを見つめていると、頭上から甲高い声が降ってきた。白衣の女性が自分の手首を握っている。
「患者さん目覚めました!先生とお母様をすぐお呼びして!」
足音がせわしく響き、菜美はいろいろな顔に覗き込まれては同じ言葉をかけられた。
「運が良かったですよ。あの地吹雪の中、偶然スキー場まで歩いてこれたなんて。」
菜美は、山中で不思議な少年達に救われた話をしたが、リュックを背負ったままスキーコースのそばに倒れていたという事実と、菜美本人が語る話には食い違いが多かった。結局、誰もが笑顔でこう返した。
「それは素敵な夢を見ましたね!」
(夢…?じゃないと思うんだけど、夢なのか…。)

退院の日。菜美は閉めきっていた病室の窓を開けてみた。ひんやりした空気を深く吸い込むと胸の中心がキンとひきしまった。
「お母さん、心配かけちゃってごめんね。」
菜美が旅行に出かけた一週間前よりずいぶんやつれた母親が、ほっとした笑顔で窓を閉める。菜美は壁にかけていたオレンジ色のジャケットに袖を通した。
 正面玄関を出ると、辺りに甘い香りが強く漂っていた。
(あれ?この香りって…。)
見送ってくれた看護師長が、あらもう咲いてる!と花壇を眺めた。
「まだまだ寒いけど、水仙の花が春を連れてきてくれるのよね。」
(スイセンヅキ…!)
菜美はジャケットの胸ポケットを探った。ひしゃげて茶色く変色した花びらは、かすかに同じ香りを放っている。
「ほら!やっぱり夢じゃなかった!」
 菜美は、木立の向こうの雪山へ小さく手を振った。山腹で地吹雪が起きているのか、稜線はぼやぼや白く煙っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み