文字数 4,488文字

 日はまだ沈んでいる。数メートル先も見えず暗闇が広がっているが、確かに辺りは真っ白であった。体温が着実に下がり続けている。目を開いても吹雪しか見えないが、確かに風は正面からぶつかって来ていた。一定のリズムで右と左の足を、ゆっくりと、短い歩幅で動かし続ける。何層にも衣服を着重ねていても、襟元や袖口に出来たほんの少しの隙間を見つけては、冷たい手が入り込んで来る。隠しきれぬ耳や頬が何よりも赤く染まって、何よりも冷たく凍えていた。そうでなくとも、衣服の表面をなぞられただけで、そこから多くの熱が奪われて行った。口を覆う髭に着いた雪が溶けて凍り離れなくなる。肺が痛みを伴いながら内から寒さを訴え掛けてくる。全身の筋肉が固められ、単調な動き以外は全て否定されていた。自分の指の本数などとうに数えられなくなっていた。それでも男は足を前に出し続ける。足を出せば、雪が冷酷にまとわりつき、吹雪が全身を鋭利な針で刺して来るが、暖を取る方法はそれしかない。一番奥の心臓だけは、諦めさせてはならなかった。この真っ白な世界の中で、男は確かに暗闇の中に居た。
  
  
  
 豪雪の朝、一向に止む気配のない豪雪は、朝の訪れを一切感じさせなかった。壁や屋根や天井から木材の軋む音が鳴り、ガラス窓が金属の枠の中でガタガタと暴れていた。吹雪がびょうびょうと凄まじい勢いで家の周りを縦横無尽に駆けずり回っているが、ストーブの中で燃える炎はゆったりと揺れていた。
 勢い良くドアの開く音が聞こえると同時に、突風と寒さが部屋の中に入り込み、炎を巻き上げながら唸った。玄関に立った男は同じく勢い良くドアを閉めると、毛皮の帽子を脱ぎ捨てて廊下を渡ってキッチンへと入って行った。台上に置かれた口の開いたガラス瓶を手に取って、中に残っていた液体を一気に飲み干した。男は空の瓶を台上に戻し、手は瓶を握ったまま、じっと格子窓を見つめて、堅い髭を揺らしながら深く呼吸していた。男の歩いた後には雪が落ち、それがすぐに溶けて床に染みを作った。ガラス瓶と、キッチンタイルと、床の水滴が、艶やかな光沢を見せていた。
 それから数時間も経てば、後退していく豪雪の隙間を縫って、陽の光と静けさが広がるようになり、町には鮮やかさが取り戻された。
 この町の人々が目を覚ますと、彼らは毎年訪れるこの厚く敷き詰められた雪景色を見て何処か爽快感を覚えるのだった。積もり積もった雪は彼らに仕事を与えた。町に住む人々が皆これに応じて生活を整えるという事は、雪が彼らを浮世から離れさせてくれるという事だった。屋根に被さる雪を降ろし、道を覆う雪を掻き分けて、子供達が余り余った雪を丸めて重ねたり、ぶつけ合ったりしては、大人達がそれを注意して、ニュースから流れる悲惨な事故の情報についての談議に花を咲かせ、大きな板を取り出して滑りに行く準備をするのだ。この町の人々は皆普通だった。理解し心得ていた。何度も訪れるこの冬の、この雪を認める方法を、幾度過ごしてもまたやって来るこの、厳しく辛い季節の中で、それでもそれを気にすることなく生きて行く方法を。
 そんなこの町の区画からは少し外れた所に一軒、木造の家屋が建っていた。町の中では明るく輝いて見えていた雪の白も、この家の周りでは薄暗く灰色に淀んで陰鬱に見えるだけだった。
 一人の男が家の前で雪掻きをしていた。グローブを嵌めた手で赤いスコップを握り、毛羽立つ厚手のコートを羽織った大きな背中を丸め、路面に凍りこびり付いた雪をガリガリと削り取っていた。
 数羽のカラスが、まだ雪の残る屋根の上に留まって爪音を鳴らした。男が手を止めて顔を上げると、カラス達は素早く辺りを見渡した後、鳴き声を上げてすぐに飛び立って行った。
 男は右手側のグローブを外して白い息を漂わせ、額に滲んでいた汗を拭った。長く伸びた無精髭も髪も、繊維が痛み切ってうねり絡み合っていた。着ているニットもコートも、手入れが全くされておらず、糸のほつれが目立って、ごわごわと固く重い印象を与えた。男の表情もまた、石のように変化に乏しく、固く、重かった。
 道路の脇には雪が高く積まれていた。男は人一倍大きな身体をしていたが、それでもここら一帯に深く積る雪をスコップ一つで片付けるには余りにも広すぎるように見えた。しかし男は黙々と作業をこなし、決して疲れを見せることもなく、時計の針が正午を回る前までには仕事を終えていた。男は雪の掃けた道を歩いて、建て付けの悪いドアの前まで戻り、上枠に頭をぶつけないよう、猫背になりながら家の中へと入って行った。
  
 窓から染み込む白い日光と、テレビ画面から発せられるチカチカとした賑やかな光が少女の顔を照らしていた。テレビの中ではコメディドラマが流れていた。部屋の中にわざとらしい笑い声が響く。少女は表情一つ変えず、ソファに背もたれながらテレビ画面を見ていた。
 床の軋む音と共に男が部屋の入り口に現れた。男の右手にはトマトの写真が貼られた赤い缶詰が握られ、左手には空のグラスが握られていた。男は少女に尋ねた。「飲むか?」
 少女は顔の向きを変えずに答えた。「うん」
「そうか」男はそう言って少女の横に座ると、缶の中身の半分ほどをグラスに注ぎ、そのグラスを少女の前に差し出した。男は缶の中身を一気に飲み干して、テレビ画面に目を向けて尋ねた。「面白いのか?」
「別に」少女が答えた。
「……そうか」テレビ画面がコマーシャルに移った。ドラマの途中なのか番組が終わったのかは分からなかった。ただ一つ、最終回でないことだけは確かだった。男はコマーシャルが明けるのを待つことなく立ち上がり、空になった缶を持って、床を軋ませながら部屋から出て行った。
 少女は赤い液体で満たされたグラスを手に取ると、暫くの間それを見てから口を付けた。トマトジュース特有の甘酸っぱい味が広がり、舌先を刺激する酸味が鼻孔を抜けて行った。少女は何度がそれを口に運び、やがてそれを全て飲み切った。
 男は戻って来なかったが、特に気に留めることもなかった。コマーシャルが明けると番組の次回予告が流れた。電話の呼び鈴の響く音が廊下の奥から聞こえて来た。
  
  
  
 いつもは忙しなく走り回る子供達も、少しでも多くアクセルを踏み込もうとする車も、その日はゆっくりと進んでいた。足の裏で氷の割れる衝撃を感じながら、前に出す一歩を噛み締めていた。
 男が十字路に差し掛かり赤信号の手前で立ち止まった。この十字路は町の中心にあった。確かに皆、歩を進める速度は遅かったが、それでもいつもと変わらず多くの人通りがあった。男が斜め対岸にある百貨店を見ると、三人組の若い女性がショーケースに飾られた服飾を眺めながら談笑していた。男の後ろからスーツ姿のサラリーマンが現れて追い抜いて行った。信号の色が青に変わっていた。男は横断歩道を渡ると正面にある喫茶店に入店した。
 窓沿いに四人掛けのダイニングテーブルが四つ並べて置かれており、その一番奥の角の席に深紅のジャケットを着た人物が座っていた。彼は店の入り口から大柄の男がこちらにやって来るのを確認すると、広げていた新聞紙を畳みながら顔を上げて尋ねた。「何飲む?」
「コーヒー」男はそう言いながら机と椅子の狭い間に、身を捩って入って席に座った。
 深紅のジャケットの彼はそばに居たウェイトレスに目を合わせると「コーヒー一つとカステラ二つ」と言った。メモパッドとペンを持ったウェイトレスが眉を持ち上げる仕草を見せて店の奥に消えた。続けて彼は少し口角を上げながら男に向かって尋ねた。「最近はどうだ?」
 男は暫く黙って窓の外で行き来する人々を眺め、表情を変えずに口元だけ動かして答えた。「自分の年齢が、分からなくなった」唇の動きは髭の中に隠れていて見えなかった。
 靴底が床を鳴らす音が聞こえた。ウェイトレスがコーヒーカップ一つとカステラの乗った皿を二つ、テーブルの上に置いた。
「まだそんなに老けてはないと思うんだが……」男の目は変わらず座って窓の外を眺めていた。
「そう、まあ……」深紅のジャケットの彼はカステラを一口食べると、まだ少し口の中に残したまま「前からそんなんだったろ」と言った。
 男は大きな右手でコーヒーカップの小さな取手を持って、縁を堅い髭の中にある唇に当てて、音を立てながら熱いコーヒーを啜った。店の天井近くに設置されたテレビから笑い声が流れ店内に響いた。「時間ならいくらでもあるんだ」男が言った。
「羨ましいな。俺なんか時間がいくらあっても足んないよ」深紅のジャケットの彼もコーヒーカップを口に着けてカフェオレを飲んだ。すっかり冷め切っていた。「昨日、学生時代の友人達と会ったんだ」コーヒーカップとソーサーの当たる音が鳴った。「みんな、大変そうだったな……」彼は続けて話した。「息巻いてる奴がいたよ、一人。一花咲かすんだってさ」彼は窓越しの空を見上げた。「まぁ、具体的な事は何も言ってなかったけどな」
 男は黙ってそれを聞いていた。大きな手でフォークを持って、小さなカステラを更に小さく分けて食べていた。
「だがな」彼は男の目を見てはっきりと言った。「今、今まさに」右手に握られたフォークに強く力が込められていた。指の関節が白くなっていた。「笑い話が、必要なんだよ」フォークの先に着いていたスポンジの欠片が皿の上に落ちた。「なあ」握っていたフォークを皿の上に離すと、懇願するような表情で友人は言った。「分かるだろ?」
 男は静かに返した。「最近は、お前以外から笑い話を聞いてないな」
「はは、良くないって」彼は力を抜くように背もたれに寄りかかって、冷え切ったカフェオレを見つめながら言った。「必要なんだよ」
「そうか」男の表情は変わらなかった。
 窓に水滴が着いていた。空から降る細かく白い雪に気が付いた。既に日が沈み掛けていた。車道の両脇に等間隔で備え付けられた街灯が眩しく目立ち出していた。
 深紅のジャケットの彼が思い出したように「あぁ」と顔を上げた。「いつものやるよ」彼は隣に置いてあった紙袋を机上に上げた。
「助かる」男が紙袋を見て言った。
「いや、捨てる程余ってるんだ」そう言って彼は目の前の男が紙袋を自分の方に寄せて机の隅に移動させるのを確認した後、再び口を開いた。「住所教えてくれれば届けるのに」
「いや、いいんだ」男はコーヒーを啜って言った。「また頼む」
 窓ガラス一面が結露して曇っていた。何も見えなくなった向こう側から街灯の灯りだけが自分の位置を知らせていた。結露せず残っている箇所には雪が張り付いて、結晶の形まで確認できた。
「もう行くわ、この後予定あるんだ」彼がコートをはおりながら言った。彼は「これ」と財布からお札を出すと机の上に置き、「払っといて」と言った。
「ああ」
「じゃあな!」そう言うと彼は足早に入店口へと向かった。コートの裾を最後に、店を出てからの彼の姿は見られなくなった。机の上には少量の冷え切ったカフェオレが、脂を浮かしながら残されていた。
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