誕生日

文字数 1,997文字

 十七時、勤怠システムに退勤時間を入力する。会社を出たその足でスーパーに駆け込み、ストックがなくなりそうな肉や野菜を籠に放り込んだ。他に必要なものを思い出しながら店内をぐるりと回る。
 いつもなら籠に入れることがない無塩バター、生クリーム、チョコレート、甘い匂いを漂わせている高価な苺をそっと追加して、レジへと向かう。
 まだ誰も帰っていない静かな家に着くと、ストック用の肉や野菜を片付けていく。下味をつけるもの、茹でて冷ますもの、ただ小分けにするもの。昔はストックという概念もなく、どれだけの野菜を無駄にしてしまったか。今では考えるよりも先に体が動いていて、片付けている間に明日の仕事のことや、今晩のおかずのことを考えている。
 その考える時間さえ、少し前まではなかった。一つ片付けるまでに何度も何度も手を止めた。小さな温もりから滴る冷たい雫を背中に感じながら急いで片付けて、なんとか晩ご飯だけ作り終える毎日。晩ご飯さえ作れない日もあって、散らかっていく部屋や、毛玉まみれになった二週間着たままのスウェット、伸びただけでまとまりのない髪、手入れもしていない肌。頑張っても頑張っても何一つ結果が見えなくて、どんどん家の中も自分も汚くなってくる。泣く暇も眠る暇もなくて、壊れてしまいそうだった。
 それでも、背中から聞こえる何の汚れも知らない笑い声に心が少し軽くなった。
 背中から温もりが消えても、暫くは何度も手を止めた。私を呼ぶ声の時もあれば、泣き声の時もあって、一緒になって笑うこともあれば、心臓が止まりそうなほど驚くこともあって、心配したと上手に伝えられず声を上げたこともあった。たぶん、心臓は一瞬止まった。
 まだまだ手がかかると思い、心配が尽きない毎日を過ごしていると、今度は放っておいてくれと言われるようになった。今までと同じように細心の注意を払っていたら、うるさいなぁと言い放つようになった。まるで、ライオンのいる檻に放り込まれたウサギの様に常に神経を尖らせていて、なにがそんなに気に食わないのかいつも不機嫌だった。そんな姿に、全く腹が立たなかったかと言えば嘘になってしまうが、それでも時にぶつかり、傷つけ合いながら、毎日を一緒に過ごしてきた。
 格闘を繰り返すような日々は何かのスイッチが切れたように急に落ち着いた。定期的に気怠げな雰囲気を醸し出すことはあるが、ヒリヒリとした言葉遣いはなくなり、穏やかな会話が当たり前になった。
 一人で料理をしていると、これまで毎日を駆け抜けてきていたことに気づいて、肩の力が抜けていく。その度、自分の肩に力が入りっぱなしだったことを自覚するのだ。
 玄関の鍵が開く音がする。二、三年の間、聞こえることがなかった「ただいま」が、最近はまたキッチンやリビングまで聞こえるようになった。
「おかえりなさい」
 部屋に入ってきて、もう一度「ただいま」と言ってくれる。
「母さん、明日は友達とでかけてくるから」
「え?」
 どんなに不機嫌な毎日が続いていても、用意したご飯を食べなくても、毎年、この日は家に居た。だから明日も一日、家にいるものだと思っていた。
「父さんも母さんも、明日は休みでしょ」
「うん、毎年そうだし」
「父さんと母さん、休みが被るの四ヶ月ぶりでしょ。たまには二人で買い物とかご飯とかしてきなよ」
 被る、っていうか、合わせてくれてるんだと思うけど……と、唇がうまく開かなくなったような小さな声で囁いている。
 キッチンの端に置いているチョコレートを見て思う。もう、こういうものを待ち侘びる歳じゃなくなるのか。私自身もそうして大人になってきたはずなのに、すっかり忘れてしまっていて、去年までのことが当たり前に今年も、来年も、再来年も続いていくのだと思っていた。
「そっか、あまり遅くならないように、楽しんでね」
「大丈夫。母さんは父さんとの時間、楽しんで」
 照れくさそうに笑って部屋を出ていく。その顔にはまだ幼さが残るというのに、夫婦の時間、というものまで考えられるくらい大人になっているのか。
 いつも独り占めしたがっていたチョコレートケーキは作る必要がない。寂しい、と思ったのは何年ぶりだろう。
 感傷に浸りそうになった瞬間、小さな音を立てて扉が開いた。
「帰ったらケーキは食べたいんだけど、いい?」
 顔だけ覗かせてほんの少し申し訳なさそうな、だけど期待しているような子どもらしい顔。
「張り切って作るね」
 積もり始めていた寂しさがゆっくりと溶けていく。
「やったぁ。ねぇ、母さん」
 嬉しそうな顔が、また照れくさそうに緩んでいく。
「ちょっと早いけど、産んでくれて、十六年育ててくれて、ありがとう」
 恥ずかしくなったのか、私が口を開く間もなく扉を閉めて去っていく。
 目尻で部屋の明かりが反射して、眩しい。
 明日、私があの子に言いたい。十六年、私をお母さんにしてくれて、ありがとう。
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