第1話

文字数 2,761文字

それはいつだったかの真夜中、午前一時。床には着いたもののその時の僕はいつになく寝付きが悪かった。普段なら床についてから記憶が落ちる迄10分もかかっていないのではないかと思う。しかし今夜は布団の中でじっとしていても姿勢を変えてみても、後頭部の辺りに細く固い一本の意識の芯が存在しているのがありありと分かる。その芯は取り替えたばかりの蛍光灯のように新品の煌煌とした白い光を放ち、暗闇の中で眠ろうとする僕の姿を背中の方から照らし続ける。その光は僕の背中を刺し、瞼の隙間をくぐり抜け、僕の眼球に刺激を与え続ける。あの光を落とす為の電源のスイッチはどこにあるのだろう。『ON』に押し上げられた黒いプラスチック製の電源スイッチ。それを『OFF』に押し下げない限り眠る事は出来ない。

僕は閉じていた瞼を開け、布団の横に置いた目覚まし時計に目をやった。針は1時23分を示していた。床についてから20分以上は経っている。そして20分かけてもスイッチはまだ見つからない。僕は眠ろうとする事を諦め、目を開けたままふと天井を見やった。電気を点けていない部屋の暗闇は、僕が認識していたよりもずっと深い奥行きを持っていた。それは深すぎるあまり、僕に奇妙な錯覚をもたらす。本当は奥行きなど全く無く、それは濡れた薄い木綿のシーツとなって僕の肌に寸分の隙間無く纏わりついているのではないか。深過ぎる深さは時として、僕達の深さを計る自然の勘を鈍らせてしまう。僕はふと、戯れに右手を布団から引き出し、体に対して垂直に闇の中に向かって立ててみた。この真っ直ぐに伸びた右腕を大きな一本の定規に見立て、暗闇の深さを測る事は出来ないか。不眠を持て余した僕はそんな小さな遊びを思いついた。しかし腕は付け根の辺りから既に闇の中に浸かりきっており、僕のすぐ5cm目の前にある筈なのに、その輪郭さえ掴む事は出来なかった。まるで腕は付け根から完全にもぎ取られ、誰も知らない閉鎖された空間の中に捨て置かれてしまったかのようだ。僕は腕が今ここにある事を確かめようと、手を開き、握り、また開くという運動を繰り返した。
 しかし暗闇というものは『無』であるが為に、却って僕の想像力を掻き立てる余地を持っていた。もしかして闇の中には僕の気づかない様々な物が浮かんでいて、僕はこの手の開閉運動を通してうっかりそれらを掴んでしまうのではないか。それは魂のような形をし目も鼻も無く鋭い牙だけを有した化け物であり、3年前に亡くなった筈のは歯形の祖母の骨張った黄色い手首であり、僕の右腕のすぐ傍らで脈打ち続けている筈の僕の心臓である。
 そこ迄想像した瞬間、僕はさっと右腕を降ろし、腕だけでなく頭迄すっぽりと自分を布団の中に潜り込ませた。その、柔らかい布と綿に包まれた小さな空間は先刻よりもずっと息苦しく、僕自身の息づかいがいささか耳障りではあった。それでも僕は布団の中に閉じこもり、背を丸めて足を折り曲げ、腕を胸に付け、見えない誰かの気配を感じ取ろうとするかのように微動だにしなかった。しかし僕の目の前に広がる暗闇は、先刻のものと同じ深さを保ち続け、その密度は更に高さを増している。

 午前7時。目覚まし時計の針が合わさり、軽い響きの電子音が鳴り始めた。程なくして僕の意識はその音に揺さぶられ、少しずつ、ソロソロと歩み寄るかのように朝の光の中へと抜け出ていった。僕は右腕を布団から出し、目覚まし時計の後ろにあるスイッチをOFFに押し下げた。ふと、手をそのまま止め、僕はまだ醒めきっていない朧げな視界の中で、目覚まし時計を掴んだままの腕をじっと眺めた。それは静脈が浮き出た、日焼けで少し色の黒い、甲に子供の頃に犬に噛まれた傷が残った、見慣れた僕自身の右手である。僕は目覚まし時計を手から離して甲を裏返し、その掌を観察してみた。気のせいか、掌はその甲よりも特徴というものに乏しい気がする。(手相の知識があったなら、もっと特徴を掴めていたかもしれない)
 それでもその掌の形に違和感を感じる事は無いし、その表面の皮膚は窓から差す、まだ少し弱い太陽の光の中で、赤みを帯びた健康そうな肌色を放っていた。その手は何かに飲まれてしまう事無く、そして糸くず一つ掴んではいない。全くの空のままの掌である。僕は体を起こし、そっと首を右に傾けてみた。寝付きが悪かったにしては体の中に眠気はあまり残ってはいない。いつもは寝起きの怠さで崩れそうになる体に鞭を打ち、ナメクジが這うように布団の中から抜け出している。しかし今朝はちゃんと二本の足を使って身支度を済ませる事が出来そうだ。それでも起き抜けの体はやはり、昼間のそれよりもずっと重みを増している。とりあえず、お湯と石鹸で顔にこびりついた汚れを根こそぎ落としてしまいたい。いつもの青いラインの入った歯ブラシで歯を白くなるまで磨きあげたい。僕は布団から出て、裸足の裏に床の冷たさを感じ乍ら洗面所へと向かった。

 それからしばらくしての、とある真夜中。僕は女の子とホテルのベッドの中にいた。事を終え、火照りと動悸と心の高ぶりが静まる迄、僕らは裸のままで固く抱き合っていた。鼻と口が彼女の髪の中に埋もれる。さっき洗ったばかりの彼女の髪は湿り気で少し柔らかくなっており、オレンジ系のシャンプーの香りを漂わせている。その香料は僕の嗅覚を刺激し、僕は見えない香料の霧をスウと吸い込んでみる。僕の背中に回された彼女の手の指先は僕の背中の筋肉を強く掴み、マニキュアの為に伸ばされた爪が僕の皮膚に軽く食い込む。少し痛くはあるけれど、僕はその事に付いては触れず、無言のまま彼女の細い体を包み続けた。それからしばらくして、少しだけ気持ちが収まった僕達は静かに体を離し、軽く唇をつけ合ったり互いの肌を撫で合ったりし乍らもうしばらくの間交わりの余韻を味わった。
 電気を落としたその暗く深い空間では、彼女の頬も首筋も肩も胸も視覚で捉える事は叶わない。その暗闇はあのいつかの夜の僕の部屋と同じように密であり乍らも深過ぎる奥行きを保ち続ける。僕は闇の中で更に目を閉じ、他に比する物の無いキャパシティーを持つ深淵で、彼女の少し肉は削げているけれどそれでもふっくらと柔らかい頬に指を這わせ乍ら、彼女が今どのような表情をしているのかを推測してみる。彼女の唇から漏れるのは規則正しくはあるけれど、普段よりは少しだけ高さを増す音の息使いだけだ。他にヒントは無い。
 僕は後頭部の中心で、彼女が今している表情を描いてみる。それは先刻の交わりを思い起こし、涙に似た水を瞳に湛えた恍惚の表情である。それは本当は僕に対して興味も愛情も無くしており嫌悪と怠惰の入り交じった諦めの表情である。

それとも、それは。
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