天使が舌を入れてくる

文字数 7,970文字

*****

 私は景気よく老いが進んだ木造の屋敷に住んでいるのだが、螺旋階段を下りていくとだ、一番下の段に黒スーツの人物が座っていた。艶やかな茶色い長髪、華奢。なにより驚くべきことは背に天使のそれのような翼を背負っていることだ。おまけに頭の上には金色の輪っかまで浮かんでいる。便宜上、やはり「天使」と呼ぼう、天使はこちらを向くなり「おはよー」と高い声で挨拶した。中性的な風貌。ぱっと見では性別などわからない。

 私は天使の隣に失礼した。座ったのである。天使はいい匂いがする。天使だからだろうか。

 断りを入れてから、天使の翼に、天使の輪に触れた。翼は滑らかな質感だった。輪は蚊取り線香の表面温度のようだった。

「天使さん?」
「はい、天使さんです」
「きみは男なのかい?」
「こんな美女を捕まえておいてなにを、ぷんすこ」
「両性具有かと期待した」
「残念でしたぁ」

 給仕長の女性が前を通り過ぎようとしたところで立ち止まった。どうしたって天使殿が目に留まるだろう。私が「私の客人だよ」と言うと小さく頭を下げて立ち去ったものの、不審に思われていることは間違いない。

「天使さん?」
「はい、天使さんです」
「昼飯時だ。なにか食べたいものはあるかい?」
「ラーメンが食べたいのです。二郎系が食べたいのです」
「胃袋は逞しいようだ」
「頭の輪っかと翼は見えないようにできるから」
「さすがは天使。万能と言える」
「好きになっちゃいそうでしょ?」
「それはない」
「ぶぅ」

 給仕を呼んで、すぐにタクシーを手配してもらった。


*****

 天使は現代社会に妙に精通しているらしく、黒烏龍茶を飲みながら、「これでカロリー摂取量はゼロになるんだよね?」などと笑う。もし仮にそうだとするなら世の中には太っちょなど存在しないことに気づかないのだろうか――などと冗談に真顔でツッコミを入れたりはしないが。

 夜。
 東京タワーの真下で寝転びながら。

「わあぁ、すごいなぁ。ほんとうに真下から上まで見渡せるんだねぇ」天使は嬉しそうである。「ねぇ、上までのぼろうよ、のぼろうよぅ」
「嫌だ」
「えー、どうしてぇ? 詳しいところを知りたいよぅ」
「高いところは怖いんだ」
「そんなに背が高いのに?」

 なんとなく、天使の言いたいことはわかるような気がする。が、それとこれとは話がべつであるようにも思われる。

「ねぇねぇ、カズヤくーん、カズヤくーん」

 名を呼ばれたので、私は天使に顔を向けた。立ち上がった天使が右手を伸ばしてくる。その手を借り、私は身体を起こした。

「やっぱり東京タワー、のぼろうよ、のぼろうよぉ」
「のぼるの、高いんだが?」
「えっ、うそ、お金取るの?」
「そりゃあ取るさ」
「いくらくらい?」
「ラーメンにチャーハンもつけられる」
「えーっ、ほんとにぃっ?」
「帰るか?」
「うん、そうする……」

 天使は東京タワーに深い失望の念を抱いたようだ。


*****

 家に帰ると、夕食はフカヒレスープと麻婆豆腐だった。

 「おぉぉ、うまいですぞ、うまいですぞ」

 なんだ、そのへんなしゃべりかたは。

 「フカヒレ、これなら毎日でも食べられますぞ」

 だからなんだ、その不可解な語尾は。

 「カズヤくん、歯ブラシが欲しいぞよ。柄の部分は赤がよいぞよ」

 歯ブラシくらいなら何本でもくれてやりはするが。

 洗面所で鏡に向かい、二人並んで歯を磨いた。
 天使は私よりも頭一つ以上背が低い。

 口をゆすいで私の部屋に入ると、天使はベッドに腰掛けた。
 私は年季の入った椅子に座り、腕も脚も組んだ。

「フォーリン・エンジェル」

 私がそんなふうに言うと、「おぉ、それ。カッコいいよねぇ」と天使は嬉しげな声をあげた。

「きみはほんとうに天国から落ちてきたのか?」
「落ちてきたんだとしたら、高確率で死んでます、物理的に、高度的に」
「やっぱり天国は高いところにあるのかい?」
「うん。それはもう」
「だったら、きみはどうやって落ちてきたの?」
「内緒。あははははははっ」

 まったく、意味がわからない。

「家には帰りたい? それとも帰りたくない?」
「帰ってやってもいいかな」

 だったらどうしてこのつまらん世界にご降臨なすったのかという話になるわけだが、いま、それは問うまい。問うたところでしかたあるまい。

「帰りたいと思ったとして、帰れるのか?」
「一般的な交通手段はバスかな」
「天国行きの?」
「うん。品川の高輪口から出てる」

 初耳である。

 天使がブレザーを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、シャツ姿になった。下着はたしかに女性もののピンクだ。私はさっと目を伏せ、「ベッドを使うといい」と告げた。「言われなくともっ」と無駄に元気のいい声で言うと、天使はベッドに勢い良く飛び込んだ。

「ねぇねぇ、カズヤくーん、一緒に寝ようよぅ」
「ウチは無宗教なんだ」
「この際、そういうのは抜きにして。あっ、それとも恋人がいるの?」
「そういうのがいたためしは、生きてきた中で一度もない」
「だったらいいじゃーん」
「寝なさい、天使殿」
「カズヤくんのご職業は?」
「神父だ」
「うっわ、なにがほんとでどこまでが嘘なの?」
「寝なさい」
「はーい」


*****

 朝、早起きして、私は庭の落ち葉を(ほうき)で掃いて集めていた。ルーチンワークみたいなものなのだが、そのたび、給仕のニンゲンに気を遣われてしまう。彼女らの言い分はわかる。落ち葉を集めるだけでもそれは給仕らの仕事の一つを奪ってしまうことになるからだ。私が箒を渡すと、給仕の若い女性はホッとしたような表情を浮かべる。「給仕長に言って叱ってもらうんですからっ」と冗談交じりに言って、ころころと笑う。じつにかわいらしい女性だ。抱きたいとまでは思わないが次のホワイトデーにはハンカチでも贈ろうと思う、たとえバレンタインデーにチョコをもらえなくても。

 天使が庭に出てきた。目をこすりながら、とても眠そうである。ついそこで蹴躓いて前のめりに倒れてしまった。給仕の女性が慌てたものの、私がそれより早く動いて、手を引いて天使を立たせてやった。天使は「ぼくは身体のバランスを著しく失い倒れてしまったのです」などと大仰なことを言ったのである。いちいち不可解なのである、この御仁は。

「カズヤくーん、カズヤくーん、シャワーを浴びたいのです」
「風呂を沸かすように言おう。ゆっくり浸かってくるといい」
「きゃっほー、わーい!」

 この天使、飼いならすのは簡単な気がする。


*****

 私の部屋。
 天使はベッドの端に腰掛け、私は机に向かっている。

「ねぇねぇカズヤくーん、仕事は? 行かなくていいの?」
「私の仕事は忙しくないんだ」

 天使が肩越しに私の手元を覗き込んできた。

「あっ、わかった。カズヤくんは学校の先生なんだね?」
「そういうことだ」
「赤ペンを入れてるんだね?」
「あまり入れるところはない」
「へぇ、生徒はみんな優秀なんだ」
「そういうことだ」

 一区切りつけたところで、私は椅子の向きを変えた。天使はすでにベッドの端に戻っている。

「もうそろそろ帰ったらどうだ? 高輪口から一息なんだろう?」
「それはそうだけど。カズヤくんはぼくのこと、嫌いになった?」
「そうは言ってない。元から好きだというわけでもないしな。とにかく、天使には天使の暮らしがあるだろうということだ」
「意地悪っ!」
「だから、そうではないと言っている」

 ベッドに寝そべると、布団をかぶって丸くなった、天使。

「もう一度言う。ご両親が心配するだろう?」

 天使がこちらを向いた。

「ほぉら、みーんなそうなんだ、ぼくを子ども扱いするんだ!」
「いや、そんなつもりは――」
「でもね? カズヤくん、ねぇ、聞いてよ、カズヤくん……」

 いきなりめそめそし始めた天使である。

「そんなふうにね? 子ども扱いするのにさ、ぼくは結婚しなくちゃなそうなのだ」
「ほぅ、それはめでたい」
「めでたくない!」天使がばっと身体を起こした。「嫌だ、ぼくは! 嫌だ嫌だ嫌だ! 子どもは好きだけれどセックスは好きなヒト限定なのだ!」

 一理あるだろう。どうあれニンゲン――天使も多かれ少なかれそうだと思うのだが、恋に焦がれて落ちていくくらいがちょうどよいのではないだろうか。世の中を支配するのが愛だかなんだかは知らないが、それはそれで悪くないのではないだろうか。

「二つ、質問がある。AとBだ。どちらから聞きたい?」
「んー、じゃあAから」
「どうしてスーツ姿なんだ?」
「勤め先が市役所だから」

 ふーむ。
 天国にも市町村をはじめとする自治体のようなものがあるのか。

「Bは?」
「どうしてウチにいたのかという点だ」
「天使は瞬間移動が使えるんだ」

 だったら、バスなど要らんではないか。

「あ、ちゃんと補足しておくね。一度訪れた場所にしか瞬間移動はできないんだ。でさ、カズヤくんにはおじいちゃんがいたよね?」

 それはそうだ。
 祖父がいなければ私もいない。

「カズヤくんのおじいちゃんとぼくのおじいちゃんが仲良しだったんだ。でね? おじいちゃんに連れられて、何度かここに来たことがあったんだよ」
「私はその場面に出くわしたことがない」
「ぼくもカズヤくんを見たことなんてなかったよ。カズヤくん、図書館にばかり行ってたから」
「きみの年齢は?」
「二十二歳」

 私は少し驚いた。

「ほんとうに?」
「あー、子どもっぽいって話でしょー」天使は口をとがらせた。「でも、言ったじゃーん。市役所勤めだって」

 まあ、それもそうか。

「と・に・か・く、嫌だ」腕も脚も組んだ天使。「帰ったら結婚させられちゃうんだもん。そんなの嫌だもん」
「だからといって、ずっとウチにいられても困る」

 すると天使は一気に不安げな顔をして。

「えっ、えっ、そうなの? ぼく、ここにいちゃだめなの?」

 なんたる身勝手な問いかけか。

「そも、どうしてきみはここにずっといられると思ったんだ?」
「だって、ぼくとカズヤくんは仲良しじゃんか」
「会ったこともないのにか?」
「そこはほら、もっとこう、融通と気を利かせてよぅ。なんだったらぼく、カズヤくんと結婚してもいいし。だからここに置いてよぅ。だからまずはパジャマを買ってよぅ。かわいい洋服をあつらえてよぅ。ハンドバッグはバレンシアガがいいんだよぅ」

 ほんとうに好き勝手に言ってくれる。

「ニンゲンと天使は結婚できるのか?」
「うん。両者の同意さえあれば」
「きみの茶色い髪はきれいだ」
「うんうん」
「スタイルもいいと思う」
「でしょでしょ?」
「しかし、私の気持ちが浮つくことはない」
「えー、どうしてぇ?」
「心がどうかしているんだろう」


*****

 来る日も来る日も天使は縁側に座り、外に投げ出した脚をぷらぷら振って、つまらなそうな顔をしている。昨今の世間の傾向から言うと、食事の際、「いただきます」と「ごちそうさまでした」をきちんと言えるだけでも礼儀正しいと評価できるのかもしれない。

 私はある日、縁側、その隣に座った。天使は白い頬をぷくっと膨らませ、不満げな顔をする。曇天を見上げる。その雲の先に、天国がきっとあるのだろう。

「帰る気になったか?」
「嫌だ、嫌です、嫌だから。キタコレ、嫌の三段活用」天使はそっぽを向いた。「カズヤくんがダメだって言っても、ぼくは一生ここに居付いてやるのだ」
「合法的にご退去いただくこともできるんだが?」
「うっわ、そこまでするの?」
「常に目は開けておくべきだ。でないと大事なものを捨ててしまうことになりかねない」
「それって、ぼくの婚約者はいいヒトかもしれないってこと?」
「そも、きみはどうして婚約者のことを嫌いになったんだ?」
「……どうしてだろう」

 私は肩をすくめた。

「ほら。特段の理由なんてないんだろう? 向こうは親しくしたい。きみは親しくしたくない、だがそこに理屈はない。きみは子供じみたことを抜かしている子どもでしかない」

 すると天使は「そうだけど、それはそのとおりだけど……」と言い、俯き、唇を噛んだ。

「一度、戻ってみればどうだ? 親御さんも心配されていることだろう」
「たぶんだけど」
「なんだ?」
「いま、ぼくが抱えているつらさって、カズヤくんが考えているよりももっと大きなものだと思う」
「だが、それが帰らない理由にはならないな」

 両手で頭を抱えて苦しげに「うーっ」と唸った天使である。なにかにすがりたい、あるいはすがろうとしているのは明らかだが、だからまあ、それがどうしたという話でもある。。

「いいもん、いいもん、帰ってやるもん! もう二度とここには来てやらないんだもん!」

 なんとも子どもっぽい口調でそう述べ、裸足で庭に出た天使は宙に浮いた。こちらを向いて、「ばーか、ばーか、あっかんべーっ」と憎らしげに言うと、大きな翼をばっさばっさと動かして、あっという間に遠くへ遠くへと飛び去った。なんだ。瞬間移動を使わずとも、高輪口発のバスに乗らずとも、きちんと帰れるのではないか。


*****

 歌詞の芸術性に比べて文学はなんて陳腐で貧弱なのだろうと嘆き、自室の机に向かって懊悩をくり返していた折のことである。ケータイが鳴った。通話の要求。知らない番号だ。応じてみた。――あの日の天使だった。

『あっ、つながった! カズヤくんカズヤくん!』

 なんだかとても急いているようだ。
 走っているのだろうか。

「どうして私の番号を知っているんだ?」
『そんなのあとあと。高輪口に迎えに来て!』

 そうする義務も義理もないんだが?

『とにかく約束だからね? 一時間もあればつくから』

 天国はわりと近いらしい。


*****

 高輪口のバス停だということはわかったが、それ以外の情報はない。とりあえず空を見渡せる場所で待っていた。するとだ、空を滑るようにして、まるでフツウのバスが向かってくるではないか。完璧に大事(おおごと)だ。なのに周囲の誰を観ても気づいた様子がない。霊感みたいなものだろうか。見える者にしか見えないという……。まあいい。乗り場はどこだろうと思ってみていると、いい加減かつ雑なもので、三十メートルほど上空でバスの前部のドアが開いた。降車する連中には揃って翼が生えていて、涼しい顔をしてあちこちに飛んでいく。連中もまた、光学迷彩のようなテクノロジーを完備しているのだろうか。

 「あっ」

 口をついて、そんな言葉が漏れた。あの日の天使が姿を現したからだ。頭上には金色の輪っか。白い大きな翼で羽ばたき、私を見つけたらしい、満面の笑みを浮かべて下りてきた。輪っかが消える。翼も。天使は私に「また会えたぁ」と強く抱きついてきた。


*****

 とりあえず家に連れ帰り、もっと言うと――天使の要望もあり、私の自室に導いた。ベッドの端に腰掛けた天使は今日も黒いパンツスーツ姿だ。仕事を抜け出してきたのかもしれない。「紅茶よりポカリがいい」と言うので、望み通りの物を出してやった。ごくごく飲んでぷはぁっと息を吐く。

「疑問を言いだすときりがない。だから、重要でないことには目をつむろう。きみは結婚するんじゃなかったのか? そして、二度とここには来ないんじゃなかったのか?」
「逃げてきた!」
「だろうな」
「わっ、驚かないの?」
「いまとなっては、な」

 天使はつぶやくように「いやぁ、まいりましたよ……」と言い、力なく肩を落とした。

「ぼくはやっぱり、結婚には向いていないみたいなんだ」
「してもいないのによく言う」
「カズヤくんはキツいなぁ」天使が浮かべたのは苦笑だろう。「でもさ、いい加減、気づいていいってもんじゃない?」
「鈍感な男というのは、どうしたっている」
「相手のことばかりじゃないよ。ウチのお父さんとかお母さんとかがわかってくれてもいいじゃんって話だよ」
「それは家庭による」
「ウチはダメだってこと?」
「そういうことだろう」

 いきなりだ。天使が両手を前に伸ばして、「うーん、うーん」と唸りながら、なにかを掴もうとし始めた。

「きみはなにが欲しいんだ?」
「幸せ、かなぁ」
「なるほど。至極、一般的だ」
「たぶん、好きなヒトがいるって言えば、わかってもらえると思うんだ」
「そうかね」
「そうだよ!」

 天使氏、唐突に私に右手の人差し指を向け、「カズヤくん、ぼくと結婚しよう!」と言ったのだった。


*****

 私はてっきり、言ってみれば敵地に乗り込むものだと考えていた。高輪口発のバスに乗車するものだと思っていた。そこまで考えたところで一つの疑問が浮かんだ。瞬間移動という反則技が使えるにもかかわらず、天使はどうしてバスでやってきたんだ? そのへん、ぶつけてみた。

「瞬間移動、取り上げられちゃったみたいなんだ」
「取り上げられた?」
「うん、お父さんに。そういう世界なんだ」

 なんだ、それは。
 もはやなんでもアリだな。

「それでもカズヤくんをバスに乗せることくらいはできるから」
「かえって危険を伴わないか?」
「なにが? 天国に行くってことが?」
「ああ。仮に私が殺されてしまうとややこしいことになりかねない」
「は、はわ、はわわわわ、殺すなんて、そんなことはしないよぅ」
「万一の可能性だ」
「む、むぅ。だったらどうすれば……」
「両親に電話をしなさい」
「電話?」

 私は大きくうなずいた。

「きみと結婚する。その行動について、私はやぶさかではない」
「えっ! ほんと!?
「きみは私が嫌いかな?」
「そ、そんなわけないじゃん! そもそもプロポーズしたのはこっちだし」
「給料三か月分か?」
「指輪?」
「ああ。購入しよう」
「ありがとう。ありがとう……」

 その大きな黒い瞳から、天使はぽろぽろと涙をこぼした。


*****

 天使パパの質問は簡単なものだった。「ニンゲンごときが」みたいな上から目線みたいなものも圧力も感じなかった。「一生、幸せにできるか?」と訊かれたので、「します」とだけ答えた。そう。天使パパとの質疑応答はそれだけで済んだのだ。天使ママがやっかいだった。いきなりもいきなり、「この場で誓いのキスをしなさい」などと吹っかけてきたのだ。甘く見ていた。それともなにかを見抜かれた? 見透かされた? とにかく、事実として、私には女性と口づけをかわした経験がない。なんともないと言えばなんともないのだが、怖いと言えば怖い。しかし、私の内面など露知らず、天使はよしきたと言わんばかりの勢いで椅子から立ち上がった。

 しかたがないから立ち上がった。
 両肩を握った。
 ぐっと引きつけた。
 さっと唇を奪った。
 私としては精一杯がんばった。

 天使ママは「いいでしょう」と微笑してくれた。

 しかしそのいっぽうで、当の天使はひどく不満げな顔をしていた。


*****

 自室のベッドは天使に使わせているので、私は和室に布団を敷いて眠るようにしている。畳の匂いも感触も悪いものではないなと感心しているところだ。

 ふすまを開けて、誰か入ってきた。ぐすぐすと鼻を鳴らす音。そのうち、小さく「うえぇ、ぅぇぇ」などと泣き声を漏らしだした。ややあってから、布団に入ってきた。背にぴたりと身体を密着させてくる――寝巻を着ていないのがわかった。吸いついてくるのは素肌だということだ。

「カズヤくーん、カズヤくーん」
「なんだ? 結婚するとは言ったぞ」
「このままじゃぼくたちきっとセックスレスだよぅ。そんなのやだよぅ」

 まったく、恥じらいもなしになにを――。

 ――と、天使が私のことを無理やり仰向けにした。
 仰向けにして、私の上に馬乗りになった。
 天使は「えへへぇ」と歯を見せて笑う。

 きめの細かい真白の肌が暗闇にあって眩しい。
 思わず目を細めてしまうくらいだった。

「カズヤくーん、わがまま聞いてくれてありがとうねぇ」
「乗りかかったなんとやらだ」

 そっと腰に――くびれの部分に右手を添える。
 よほどくすぐったかったのか、天使は身をよじる。

 ベロチュー。
 心をまさぐられた気がした。
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