第1話

文字数 1,997文字

 嫌なことを前にすると急に何かに夢中になる癖がある。例えば試験前の大掃除、きつい合宿前のアニメの一気見。
 そんな俺は今、クーラーで底冷えした部屋でずっとゲームのガチャを回している。これだけ課金し時間と金が虚無に溶けたから、もう後には引けない。
 結局今週は一度も出社せず、もう金曜だ。
 今回の嫌なことは上司。世に言うお局は毎日飽きもせずヒステリックに俺を怒鳴る。数字と結果が全ての営業職で、成果が出せない俺が悪いのだが。
「またか」
 コインが尽きた。上司のねばっこい声と厚化粧に刻まれたシワを振り切るように高速でクリックした結果だ。再び課金するか迷った瞬間、スマホが震えた。思考が途切れ、大きく息を吐く。アイコスとスマホを持ちベランダに出ると、蝉の騒音、熱風と灼熱の太陽光が俺をくるみ、一瞬で汗が吹き出す。生命と熱気に圧倒されて目を瞬くと、炎天下、鉢を運ぶ何人もの小学生が大騒ぎして歩いていた。
 スマホには両親、それに兄から通知がきていた。随分前から無視をきめこんでいるのに、しつこいことこの上ない。盛大なため息は跡形もなく夏の空気にむわりと飲み込まれる。
 十数年前、看護師の俺の母は医師の父と連れ子同士で再婚し、俺には突然兄ができた。優秀な兄は今年から専門医の資格もとったらしい。
 頭のできも容姿も俺より上なのに、兄は昔から俺に優しかった。兄には本当は弟がいたらしいから俺はその代わりなんだろう。俺の誕生日にはいつも俺の好物のメロンのスイーツを用意し、頼めばいつだって複雑なプラモを仕上げてくれた。今も、兄は俺に優しい、当然両親も。
 だからもう、無理なのだ。
 出勤しようとしただけで動悸止まらなくなり、自分の無能さの原因を求めネットで調べ漁った。アダルトチルドレン、HSP、大人の発達障害、二次障害等。出てくる言葉を知るほど、それは俺と母の過去に大きな烙印に思え、呼吸が浅くなった。
 確かに子どもの頃の俺は常にどことなく寂しかった。でもそれは母が俺のために懸命だったから。ネットの言葉を認めることは、母と必死だった俺を、否定することだった。
 昔からひとりでやれていたのに、急に誰かに甘えろと言われても無理なのだ。だから俺はもう切り離されたい。兄と両親で完結した家族の方がいい。
 メロンソーダ飲みてえと無意味にSNSに投稿して今日が俺の誕生日だと気づく。フォロワーからの祝言だらけだ。その中に見慣れないプラモのアイコンがあった。
 誰だ?
 誕生日おめでとう、メロンのケーキでも食べろよというコメントに首を傾げる。メロンが好きだと俺は呟いたことはないし、第一ゲームに関係ないアイコンは珍しい。
 そのとき玄関のチャイムが鳴った。さっき頼んだピザ、と俺は慌てて玄関へと走り、ドアを開ける。
「誕生日おめでとう!」
 呆然とする俺の前に笑顔の兄がいた。
「は」
「お前んち久しぶり。うわさっむ、きたね」
 好き放題言いながら、兄はまっすぐ部屋に入り、机上に箱を置いた。
「ほらケーキ」
「いや、ケーキじゃなくて! なんで平日の真昼間に仕事してないんだよ」
「俺は当直明け。ブーメンランだぞお前」
 呆れ声の兄の言葉に俺は口をつぐむ。箱からメロンのショートケーキが現れ、鈍い俺でも気づいた。
「あのプラモの」
「お前もうちょい気をつけろよーすぐお前ってわかる呟きばっかだぞ」
「……ネットストーカーかよ」
 ずるりとしゃがみこんだ俺の頭上から「違うぞ、お前の唯一の兄ちゃんだ」と声が響き、俺はとっさに「違う、弟は俺じゃないだろ」と吐き出した。
 声が消えた室内で窓は閉まっているのに蝉の鳴く声が響く。恥と後悔と情けなさで固まる俺に、兄が再び口を開いた。
「お前も、俺の弟だ。弟は、俺が見てなかったから死んだんだ。ま、正確には母親が男と会ってる間のことだったんだけど。俺は弟と同じ家にいたのに、異変に気づけなかった。で、親父は問答無用で離婚して、その後母さんと結婚したんだけどさ。俺、また弟ができるってお前見てわかったとき、次こそ守ろうって決めたんだよ。家族はさ、欠けたらだめだから。ほら食おうぜ」
 目に力を入れ顔をあげた先には男二人には大きすぎるホールのメロンショートと、メロンソーダがあった。
 なんでメロンソーダ、と思ってすぐに、飲みたいと呟いたのは自分だと気づき、兄の下手くそなハッピーバースデーの鼻歌で、兄のあのアイコンが何かということも思い出した。あのプラモは俺の誕生日に兄が初めて俺にくれて、作ってくれたプラモ。幼かった俺は何かと兄に甘えた。頼れる兄ができて、嬉しかったから。
 なんだ、昔やってたか、俺。かっこつけてただけか。
 泣くのを堪えたら余計に過去に戻ったようだった。昔できていたことなら今の俺ができたっていいことだ。兄がケーキを切り分けてくれるのを子どものようにちらりと見て、相変わらず大好きなメロンソーダを一気飲みした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み