残光

文字数 1,915文字

 私は親不孝な子だ。未成年の頃からタバコは吸う、酒は飲む、警察の厄介になったこともある。高校を卒業すると同時に上京し、一人暮らしを盾に生活は荒れに荒れた。世間を舐め、大人をバカにし、将来なんてどこ吹く風。そんなガキが年を重ねたところで、責任能力が芽生えることはなく、当然、無責任な大人になってしまった。
 気がつけば三十代。親はとうの前に定年を迎えていた。これではダメだと奮起したこともあったが、長年のだらしない生活がたたり、まともに仕事ができず職を転々としていた。
 身から出た錆――。それは徐々に身体を侵食し、心までも犯してしまった。
 私は精神的な病気を患ってしまった。うつ病。それを機に家から出なくなった。生活費は親の仕送りで賄っていた。情けないとは思っている。しかし、病が心を蝕んで身体の自由を奪っていく。そして一年が過ぎていった。
 借金こそ背負ってはいないが、親に対する負債額は相当なものだろう。
「元気だよ。病院にも通ってる。今度、バイトしようと考えててさ……」
 定期的に電話をかけ、体調や日々の移ろいを報告するのだが、なに、それも一種の償いのつもりだ。ただの偽善である。明るい装いで喋るのは、意外と神経を削る。それを親が見抜けないつもりなのか、いや、そうではない。親は思うにそんな私のことを分かっているのだ。だからこそ、私は装い、繕い、元気なフリをしなくてはいけない。
 親より、子が優れている。私は思春期の時、そんなことを考えていた。生物が子孫を残す理由は、より環境に適した遺伝子に組み替えるためなのだ。つまり進化だ。人間も生物である以上、必ず進化していく。親より子が優れているのは、自然の摂理なのだ。
 しかし、私は、果たしてどうなのか――。
 年末、私は実家に帰省した。結局バイトすらできず、しかし時間だけは着々と去っていく。平等に流れる時間に憤りを感じるが、言うまでもなく悪いのは惰性的な私なのだ。
 両親はそんな私を優しく出迎えてくれた。同時に、心が痛むのを感じた。優しさは、時に耐えがたい屈辱を孕んでいる。私は罪人のような気持ちで家に上がり込んだ。
 その夜、父と二人で温泉に行った。そこは約百三十年の歴史ある温泉で、街並みも風情があり、私は久方ぶりに心が落ち着いた。
 冷たい体に染み入る温泉は、じんわりと四肢に伝わり、頭がぼんやりとしてきて全身の力が抜けていく。お湯は熱めで匂いはなく、味は僅かに潮が感じられる。成分が濃いのだろう。ゆっくりと浸かるのには不向きだが、湯船に入り、上がって休憩する。これを繰り返していると、日頃の悩みや疲れなどはもうでもよくなっていく。
 私は過去の自分をぼんやりと思い出していた。荒れに荒れた私の人生は、どのぐらい親に迷惑をかけたのだろうか。そんなことを考えていると、隣で父が湯船に収まっていた。
 その光景がどうにもノスタルジーな雰囲気をかもしており、父の細くなった体は、確実に老いていることを物語っていた。
 天窓から月の光が湯船に落ち、父の皺だらけの顔が影に入る。定年になっても私のせいで働かざるを得なくなった父の心境は、一体どのようなものなのだろうか。
 私は親不孝な子なのだ。自立できず、甘え、蜜を吸い尽くす害虫のように生きている。もう、迷惑はかけたくない。果たして本心なのか、もう私にはそれすら分からなかった。
 湯船から上がり、鏡の前でうなだれる。温泉には不釣り合いな濁った瞳。私は逃げるように視線を外し、鏡の水滴を見つめていた。ふいに、鏡越しに父の背中が見えた。いつの間にあんなに小さくなったのだろう。痩せこけ、背骨が浮かんでいる。父はそんな体で私を支えている。一体、どれほどの負担をその背中に背負っているのだろう。私は恥ずかしく惨めな気持ちになり、目を伏せるように湯船に戻った。
 親より、子が優れている。なに、それは単に親より長く生きていく子の戯言ではないか。私は親より長生きする。そのことが、人生の途方もない絶望を見せられているようで、私はこのまま湯に溺れてしまいたくなった。
 外に出ると雨が降っていた。その音が私の心を穿つように聞こえる。父は隣で雨に濡れていた。私も同じく雨に打たれた。火照った体の熱を雨水が奪う。私はいい加減に、覚悟を決めなければいけなかった。
 街灯が青白く光っている。その光を受けて今にも消えいりそうな自分の影を見て、私は涙がとめどもなくこぼれそうになった。
「無理しなくていい。人生は何とかなる」
 父の力強い言葉は、暴力に近く、また、雨のように優しく、私の心を激しく揺さぶった。
 月の残光が脳裏に浮かぶ。私は父より先に一歩を踏み出し、そのまま歩き出した。
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