雨の日に美女を乗せたら殺人犯でした。

文字数 11,104文字


 それは私が借りているアパートの一室で起こった。

 私がナイフを振り回すと、彼はそのまま仰向けに倒れていく。瞬間、世界がスローモーションのように映る。

 しばらくしてどさりという音がした。しばらくの間もぞもぞと動いた彼は次第にぴくりとも動かなくなってしまう。

 私は唖然としながらナイフを床に落とすと、怖くなって思わずそのまま逃げ出してしまった。

 近くのコンビニまで走った私はとりあえず我に返って家まで戻ることにした。もしかしたら殺してしまったと思ったのは間違いかもしれない。達人じゃないんだから女の私がちょっとナイフを振り回したぐらいで大の男が死ぬとは思えない。

 アパートに戻った私は敷地内の土の地面についた足跡をふと見つめた。雨が降っているせいかしばらくの間足跡が残っているようだった。

 彼と私の足跡が一往復分くっきりと残っていた。
 
 旅行先から帰ってきてすでに1時間近く経っているはずなので、その間ほかの住民は全く出入りしていないことになる。まあこの雨だ。それが普通だろう。

 自室に戻ってきた私は扉を開けると、まず息を飲んだ。自室の鍵が開いていたことではない。慌てていたあまり鍵を閉めた記憶はないからだ。むしろのあの慌てぶりで鍵だけは冷静に閉めているというのはシュールである。

 彼が玄関先で未だに仰向けに倒れ込んでいたからだ。コンビニに行って帰ってきてから20分は経過しているはずだ。その間、彼は同じ姿勢でここに倒れ込んでいたことになる。

 加えて彼の腹部からおびただしい量の血液がこぼれおちていた。あれが全て彼の血液だとすればおそらく彼はもう生きてはいまい。

 口はだらしなく開け放たれており、瞳孔も開いている。この点からもとても生きているようには見えない。

 悲鳴をあげそうになった口を咄嗟に抑えた私はおそるおそる彼の手首を取って脈を図ってみる。微動だにしなかった。

 動転した私は先程慌ててここを出ていったリプレイのように自室を足早に去った。ただし今度はなるべく音を立てないようにだった。


 その日は朝からざあざあ降りであった。盆雨という言葉がある。水の入った容器をひっくり返したかのような雨のことだ。最近ではテレビでバケツをひっくり返したかのような雨という表現を聞くようになったが、そのことである。

 この雨は正にそんな感じであった。雨がタクシーの屋根を叩く音が俺の聴覚を占有する。

 その奇妙な客が乗ってきたのは午後2時ごろだったように思う。

 全身黒ずくめの陰鬱とした女だったが、同時に顔立ちを見ればその辺を歩いている女たちと比べれば頭一つ抜けているような美人でもあった。

 手荷物の類は右手に提げている小さなカバンだけだった。この雨だというのに傘さえ差していない。そのせいで女はずぶ濡れ状態であった。シートが濡れるのは次の客が迷惑するので勘弁してほしいところだ。

 俺はタオルを手渡して衣服や髪の雨水をふき取るように促した。ついでにシートも拭いてくれれば助かるのだが。

 女がタオルを受け取る瞬間、カバンのなかがちらりと見えた。推理小説作家『古山なゆた』の昨日発売されたばかりの新刊であった。

 俺は思わずどきりとした。俺もまた古山なゆたの小説のファンだからである。この本も昨日発売日に購入して、徹夜で読破してしまった。と言っても上巻だけで、仕事終わりに下巻を読むのが今から楽しみなのだが。

「私ね、雨女なの」

 女は黒曜石のような輝きを見せる髪の水をタオルに吸わせながら突然そんなことを言った。

「へえ」と俺は気のない返事をした。そんなことよりは古山なゆたについての話を切り出してもいいかのほうが気がかりであった。客の荷物の中身を盗み見してそれについて言及するというのものなあ。

「皆で出かけるときは私のせいでいつも雨だわ。この前も旅行先ずっと雨続きで彼氏と喧嘩になったわ」

「どうでしょう。私はあまりそういうことは信じられない性質でして」と俺。悪い癖が出始めている。

「マーフィの法則というやつをご存知ですか。世の中のできごとというのは悪い結果ばかり印象に残るので、悪い結果というのは実際の確立以上に頻繁に起こっているように感じるというものです。
 パンが必ずバターを縫った面を下にして床に落ちるというアレです。もっともあれはバターを塗った面のほうが重いのでそちらを下にして落ちる可能性が高いという説もあるそうですが。お客さんが雨女だっていうのもきっとそれじゃないかなあ」

「でも本当に雨ばかりなのよ。もちろん、統計を取ったわけじゃないけど」

「でもお客さんが言う皆のなかの誰が雨女なのかは特定できないんじゃないですか? それに雨女なる者が存在するとしていかにして天候を左右しているということになるんですか?
 雨女雨男を一箇所に集めればそれまで全然雨の兆候がなかったところでも雨が降ったり、雨女雨男をその地域一体から退去させればそれまで雨が降り続いていたのを止められるとでも?」

「そうね。確かにそれは非現実的だと私も思うわ。だから雨女雨男が実在するとすれば超能力でいうESPのようなものだと思うの。
 ほらよく動物には天候を予測する能力があるものもいるって言うでしょう? 雨が降る前日に燕が低く飛ぶとか、雨が降る直前蛙が鳴き出すとか。
 そういうのって少なからず人間にもあるんじゃないかしら。もちろん優れた人と優れていない人がいて、優れた人は無意識化にそういう能力を使っているのよ。
 そして雨女雨男というのはそういう能力に極端に優れていない人なんじゃないかしら。つまり逆超能力者。
 だから旅行やイベントの計画を立てるときにほかの人なら無意識化に雨の日を外すところ、雨女雨男と呼ばれる人はそれを避けられずに雨の日を選んでしまう。どう? ありえないかしら」

「面白い仮説だとは思いますがね。でもそんなこと言ったらイベントの日程をあなた1人で決めているわけじゃないでしょう?
 この前行ったっていう旅行の話で言えば彼氏さんだって一緒に決めてるはずなんだからやはりあなたが雨女というだけじゃ説明にはなりませんよ。
 それに雨が降るというのも案外悪いことばかりではありませんよ」

 瞬間、女はびくりと体を震わせた。何か気になるようなことを言っただろうか。雨の日は客が多くなるので助かるというつもりで言ったのだが。

「あの、まさか気付いていらっしゃるんですか?」

 ? ひょっとして自分が古山なゆたのファンだということについてか。盗み見たようなものだからこっちから指摘するのは心苦しかったのだが、向こうから言い出したのであれば問題はあるまい。

「ええ、もちろん気付いていますよ」と俺。

 瞬間、女は素早くカバンから血に濡れたナイフを引き抜くと、それを俺の首に押し当てた。

 俺の口からはえ? などと驚きを示す声が漏れる。


 肝を冷やした。

 まさかこんなところでタクシー運転手に気付かれるとは『雨が降るというのも案外悪いことばかりではありませんよ』とは紛れもなく、『返り血が洗い流せてよかったですね』という意だろう。


 冷や汗が止まらなかった。そりゃそうだろう。ただのタクシー運転手がナイフを首に押し当てられた状態で冷静でいられるはずがない。

「あの……俺はなんでこんなことになってるんでしょうか?」

「しらじらしいわね。とっくに気付いていたんでしょう。私が殺人犯だってこと」

 この女は何を言っているんだ? 殺人犯だって。少なくとも俺はそんなことに全く気付いてはいない。

「いいか。落ち着いて聞いてくれ。俺はあんたが殺人犯だなんてことには全く気付いていない。なんなら今だってあんたが殺人犯だなんて信じていない。何かのドッキリだと思っている。
 あれか? 最近流行りのyoutuberか? いくら面白い動画を取るためであってもやっていいことと悪いことが」

「今更何シラを切っているのよ。あんだけ挑発しておいて」

「何の話だよ。大体その血の付いたナイフ。それで殺したとでも言うのか、そんな果物ナイフで人が殺せるとはとても思えないが」

 女の手にしているのは刃渡り10cmほどのナイフ。その切れ味もさほど優れているようには見えなかった。

「まさか、本当に何も知らないの」

「だからそう言っているだろう」と俺は言いながら嘆息する。

 女は突如うずくまって泣き出した。

「私ったらいつもこう。早とちりして、墓穴を……」

 この様子、少なくともこの女自身が自分のことを殺人犯だと思っているのは本当のことらしい。

 女は素早く跳ね起きると再び俺の首筋に果物ナイフを押し当てた。油断した。今のうちに取り押さえればよかったかもしれない、こんなナイフでも首筋を切られれば致命傷になるかもしれない。

「よく考えたらもう気付かれちゃったんだから結局は同じことよね」

「……だから言ってるだろう。俺は君が殺人犯だなんてことは信じていない」

「信じられないわ。あなたが信じている可能性が少しでもある以上、私にとってここであなたを解放するという選択肢はない」

「罪が重くなるだけだぞ」

「人を1人殺しているのよ。今更ちょっと脅すぐらいなんでもないことよ。海が見たいわ。海まで出しなさい」

 俺は無言でハンドルを切った。



 俺は20分ほど車を走らせると一番近い海岸へとやってきた。雨はすでに止んでいた。

 何をするでもなく女は海を眺めている。俺はなぜか近くのコンビニにウイスキーと氷、紙コップ、割り箸、ガムテープを買いに行かされていた。

 逃げればよかったのだが、なんとなくこいつをこのまま放っておいてはいけない気がした。社会公益的な観点から。

 そこからは酒盛りに付き合わされた。店で一番高級なウイスキーを買ってくるように言われたので、せっかくだし俺も飲ませてもらった。といってもコンビニで一番高級な、だ。高が知れてると言えば高が知れている。

 それでも普段飲む酒よりは大分上等であった。

 女は平素は書店で働いているという。

 そこからは俺と会う前に女がどういう行動を取ったか詳細な話を聞いた。

「これからどうする気だ」と俺。

「言わなくてもわかるでしょう」

「わからないよ」

「平凡な家庭で育って、平凡な仕事をしてきた私には人を殺したことを詫びる方法は1つしか思いつかないわ」

「入水は苦しいと聞くぞ」

「ええ。そうでしょうね。だからガムテープで事前に手足を縛っておくの。安心してあなたの手を煩わせることはないわ」

「待て。せめて。入水はやめておけ。水死体はあまり見た目がよくないと言うぞ」

「そうらしいわね。でも贖罪なのだから苦しかったり、辛かったりするほうがいいじゃない」

「自殺することなんて何のお詫びにもならない。死んだ彼も彼の遺族も浮かばれない。
 君がすべきことはまず君の恋人の死についてしかるべき場所でその原因を明らかにすることだ」

「そうかしら。私はそれこそ死んだ人間にとってはどうでもいいと思うわ。
 そんなものは生者の側がシステムの是非を評価するために一方的に死者の感情を自分たちの都合のいいように解釈しているだけよ」

「自分の都合のいい風に死者の気持ちを解釈しているのは、今の君も同じだろ」

「――そうね。じゃあ本音を言うわ。彼を失った傷心状態の私は今すぐ後を追いたいの」

「もし君がここで死んだら俺は自殺ほう助になるかもしれない。これは6か月以上7年以下の懲役もしくは禁錮刑が与えられる可能性がある。俺はそんなことはごめんだぞ」

「じゃああなたはここまで私を乗せるように言われたことにすればいいわ。あとは私が入水しようが何しようが構わないでしょ」

「ガムテープはどうする!? 買ったのは俺だ」

「何に使うつもりなのか知らなかったと言えばいいわ。もしどうしてもというなら私がこのあと自分でビニールテープを買いに行くわ。問題ないでしょう」

 やはりこんな上っ面の言葉では説得できないようだ。

 俺は近くに停めたタクシーまで戻るとグローブボックスのなかから古山なゆたの新刊を取り出す。そして女の目の前に掲げる。

「よく聞いてくれ。俺は初めて会ったときから君のことを魅力的な容姿の女性だと思っていた。加えて君のカバンの中に古山なゆたの新刊が入っているのを見たときは運命さえ感じた。
 君は気付いていないかもしれないが、俺もまた彼のファンだ。
 だから俺は君に死んでほしくない。同じ趣味同士、交際を前提にぜひ友人関係から始めないか」

 女はうっすらと目を閉じると、微笑する。

「――ごめんなさい。そういう風にストレートに口説かれると正直嬉しいわ。でも今はそんなこと考えられないから」

「一つ確認させてくれ。君が今自死しようとしている理由は贖罪と彼の後を追いたいという気持ちなんだな」

「そうね」

「ならそれを支えるものが崩れれば君は自死より先にやるべきことが生じるはずだ」

「何が言いたいのかわからないわ」

「俺が今から君による他殺以外のあり方で君の恋人の死を相当数の蓋然性で説明したと君が思ったなら大人しく警察に行き捜査に協力してくれ」

「悪いけどそれは無理だわ。現場に戻って警察にでも捕まったらどうしたらいいの。常識的に考えて警察に捕まればそう簡単には自死を選ぶことはできなくなるわ」

「頑固すぎるな、君は。ならとりあえず現場に行かずにここで推理しよう。とりあえずそれで君の他殺以外の可能性を検討する」

「そんなもの無理よ」

「やってみなければわからない」


「まずそんなナイフで人が本当に殺せるのかが疑問だ」

 まずは凶器からの検討だ。

「実際に果物ナイフで人が死んだ事例を私は聞いたことがあるわよ。それに10年以上前だけど、小学生同士のいさかいで、カッターナイフで相手を殺したという事件さえ記憶にあるわ」

「それは俺も覚えている。だがあれはカッターナイフで首を切り付けたことによるものだ。今回のように腹部を突き刺してのものではない」

「でも床に落ちていたナイフにはこうして血が付いていたし、真実彼は絶命していたわ」

「――俺に一つ考えがある。君がナイフを振り回した時、彼氏さんは避けようとしてバランスを崩したか、お客さんの体重の乗った刺突を食らって真後に倒れ込んだ。
 君はそれで彼氏さんを殺したんだと思い込んでしまい近くのコンビニまで往復する。この間20分。この20分の間に第三者が彼を殺害したわけだ。凶器はキッチンにある包丁などより殺傷能力の高いものが選ばれた可能性がある。
 もしその第三者が以前から彼を殺そうと思っていたのであれば絶好のチャンスだっただろう。君の慌てようを見れば、ここで彼氏さんを殺せば勘違いした君が勝手に罪を被ってくれることは容易に想定できる」

「そんな推理小説みたいなこと本当に起こると思っているの? 推理小説の読み過ぎよ」と女。君も読んでいるだろうが。

「いずれにせよ。その可能性は十分にあるんじゃないか? となればことは一刻を争う。こうしている間にも犯人は証拠を隠匿しているかもしれない」

「まず納得できないことがあるわ。あなたが言うところの私の恋人を憎く思っていた誰かさんとやらはなんでこんなにもタイミングよく彼を殺害することができたの?」

「……いきなり難しい質問だな。……そうだな。例えば同じアパートの住人だったとか」

「なんで彼が私の隣人に恨まれなきゃいけないのよ」

「……同棲してるわけじゃないのか?」

「ええ、そうよ」

「じゃあ君のストーカーとか? 君は美人だ。書店で働く君を見て一目ぼれした男の1人や2人いてもおかしくないぞ。その男が盗聴器を仕掛けてたんだ」

「確かにそれはそうね」おい。もう少し謙虚であれ。「でもそのストーカーはなんで彼を殺害する必要があるの」

「そんなの彼が君をめぐる恋敵だからに決まってるだろ」

「でもなんで犯人は私に罪を着せようとするのよ」

「まあ君に罪を着せようとしているというのは俺の仮説だ。犯人としてはただ殺害することが目的で、たまたまそれがこういう結果になったのかもしれない。犯人だって君が殺したんじゃない、私が殺したんですと名乗り出るわけにもいかないだろ」

「うーん、私はやっぱりそんなことが殺害の理由になるかどうかということについては懐疑的だわ。だって彼を殺しても私がその人のものになるわけじゃないじゃない。
 何より盗聴器なんかでそんなに詳細になかの様子がわかるかしら」

「じゃあ君は不倫相手だったんじゃないか」

 次の瞬間、女は俺の腹部にケンカキックをお見舞いした。俺はその場でもんどりを打って倒れ込んだ。こういう直情的なところがそもそもの原因なんじゃないか。

「今のはあなたが悪いわ」

「確かに……そうだな」

 確かに俺が悪いが、何も蹴らなくても。しかし俺は相手を無暗に刺激しないことを選択した。

「いいか。これはあくまでたとえ話だ。実際同棲してないのであれば、相手がほかに家庭やそうまでいわなくてもステディな関係の相手を持つことはあくまで、できる、できないで言えばできたはずだ。
 そして夫、あるいは彼氏の浮気を疑った妻、ないしは彼女は何をしたのか。俺にはそれが合理的な選択だとは思わないが、今回のケースの場合、その女は男の持つ君の部屋の合鍵の合鍵をこっそり作って君の部屋に侵入することにしたんだ。
 君たちが出かけている間にこっそり部屋に忍び込んで何をするつもりだったかはわからない。
 君たちの浮気の証拠を持ちかえるつもりだったのか、あるいは隠しカメラでも仕掛けるつもりだったのか、あるいは君たちの情事の現場で飛び出してくるつもりだったのかもしれない。
 いずれにせよ彼女が君のいる部屋にいる間に君たちが帰ってきてしまったのだ。そして不幸にも、彼女にとっては幸運だが、君たちは喧嘩をはじめ、彼を殺したと思いこんだ君は走り去った。
 それを彼女はどこかからこっそり見ていたんだ。まあこれは先のストーカーでも成立するけどな。あまり気分のいい話ではないだろうが」

「それを言うなら盗聴器を仕掛けられていたかもしれないって時点で気分は悪いけどね」

「そりゃそうだ。女は男にかけよった。この時点では女に殺意はなく純粋に心配しての物だったのかもしれない。
 しかし女は男の顔を見た瞬間、不貞の男に対してめらめらと憎悪が沸いてきたんだ。男と女が結婚していたのであれば、男の生命保険なんかも殺害の動機になったかもしれない。
 そしてキッチンの包丁でブスリ。問題は君が振り回した果物ナイフと凶器が違うことだが、大した問題ではない。錯乱してその場から逃げ去る様な女だ。記憶違いを起こしてるのかもしれない。
 そもそも果物ナイフでは刺したけど包丁では刺してないわなんて供述を誰が信じる。
 これはあくまで喩え話で君が納得いかないのであればたまたま隣人の恋人が積年の恨みを抱いていた人物であったというエピソードを持つ人間を仮定してもいい。
 いずれにせよ、俺が言いたいのは君が言うところのタイミングが良すぎる第三者はありえたという話だよ」

「わかった。それについては納得したわ」全体に付いてはまだ納得していないと言わんばかりであった。

「君の他殺を反証する材料はまだあるぞ。君は返り血をほとんど浴びた様子がないじゃないか。雨に濡れたにしても不自然だ。男はおびただしい量の血を流していたんだろう」

「それは。……刃物が栓の役割をしていたんじゃないかしら。そして私が見た彼の姿は何らかの衝撃でその刃物が抜けたあとだったんじゃ」

 やれやれ手強いな。

「それにまだあなたには足跡のこと詳しく言ってなかったね。アパートはね四方を1メートル以上の塀に囲まれてて出入りするとすれば門から出入りするほかないの。ここは土の地面だからこの雨なら必ず足跡が残るわ。
 現に私がコンビニから帰ってきたとき私と彼の足跡がそれぞれ一往復分残っていたものの。それ以外には一切足跡はついていない。つまり出入りした人間はいないのよ」

「そうとは限らない。犯人は同じアパートの人間かもしれない」

「……確かにそうね。でもやっぱり私は同じアパートの人が犯人だというのは信じられないわ。だってたまたま私の恋人が隣人の恨んでいる人間だったなんてありえるかしら?
 恨んでいる人間の恋人の部屋に引っ越して機を伺っていたっていうのはダメよ。私が彼と交際し始めてから一年半住民の入れ変わりは起きていないわ。
 それに部屋の外からじゃ私たちの部屋のなかで何が起こっていたのかを伺いしることはできないじゃない。
 喧嘩をして私が出ていったぐらいならともかく私が彼を殺害したと錯乱しているかどうかなんてわからないはずだわ」

「じゃあ君の部屋に潜んでいた何者かは今朝雨が降り始める前から君の部屋に潜伏していたんだ。あるいは足跡が消えてしまうぐらい前からだ。そして君がコンビニに行って帰ってきたとき、まだ部屋のなかに潜伏していたんだよ」

「ありえないわ。普通その状況現場から早く立ち去るのが鉄則よ。
 本来いないはずの人物がそこにいればそれだけで説明が必要だし、流石に私が自分が彼を殺したと思いこんでいたとはいえ、そこで見ず知らずの人間が自分の部屋にいればひょっとしてこの人が殺したんじゃと思うわ。
 10分ならともかく20分も。ただ包丁を突き立てるだけでその犯人は何をしていたというの?」

「くっ……」

 確かにその通りだった。本当に彼女が殺したのか? そうは思いたくないが。

「……待てよ。おかしいぞ。なんで足跡が1往復ずつあるんだ。君の足跡があるのはわかる。旅行先から家に帰ってきたときとコンビニへと向かったときのものだ。
 しかし君の恋人の足跡が1往復あるのはおかしい。彼の足跡は旅行先から帰ってきたときの半往復分でなければいけないはずだ」

「――――!?」

「君たちは旅行先からかえってからずっと一緒にいたのか?」

「そう思うわ。お互いトイレやらシャワーやらで10分ぐらいなら目を離したかも」

「いや無意味な質問だった。彼が君が目を離している間に出かけたのであるとすれば彼の足跡は一往復半でなければいけないはずなんだ」

「確かにそうね。でもじゃあこれはどう考えたらいいの? 足跡は大きさや形から考えて間違いなく彼の物だったように思うけど」

「正確には彼の靴だった、だろ。仮に誰かが彼の靴を履いて土の上を移動したことによってできたものだとしても素人目には見わけがつかないはずだ。
 どうだこれで不可能的状況はやぶったぞ。そればかりか君の彼氏の靴を勝手に履いた謎の人物がいることがわかった。この人物が殺人犯でない可能性はどれぐらいあると思う?」

「……靴はどうするの? そのトリックを使用した場合靴をどうするの? 現場から彼の靴が一足消失することになるわ。これは犯人にとって場合によっては自分まで辿り着かれかねない証拠になるんじゃない?」

「知らん。そんなものはトリックでなんやかんやしたんだろ。そんなもの古今東西のミステリを紐解けば何かしら出てくるわ。重要なのは君の彼氏の靴を勝手に履いたやつがいるということだ」

「何よそれ! そんなんで読者が納得すると思ってるの!」

「俺は推理小説作家じゃない! そこまで言うならこれならどうだ。犯人はあとで現場を訪れて身元確認を求められるような深い関係の人物だったのだ。そのときにカバンのなかに隠し持っていた靴を素早く靴棚のなかにでも放り込むんだ」

「マジシャンじゃないんだから警察の目を欺いてそんな早業できるわけないじゃない」

「……じゃあこれならどうだ。ヒモを用意するそれを靴に引っ掛けて二重にして何でもいい地面より高い位置にあるわっか上のものに通すんだ。ここは便宜的にドアチェーンを引っ掛けるアレにしておこう。
 門の外まで来た犯人は男の靴から自分の靴に履き替えると二つになっている方を引っ張るんだ。そうすれば靴はひとりでに玄関のほうに向かって行くはずだ。
 そして最後は片側のヒモだけを引っ張ればヒモは回収でき、証拠はなくなる。まあ何か引きずったあとぐらいは地面に残るだろうがな」

「ちょっと待ってよ。その間ドアはどうするの。ドアが開いてないと靴は玄関のなかに入らないわよ」

「……ぐぬぬ。じゃあそれはドアのところにつっかえ棒か何かを挟むんだ。これにもヒモを付けてあとで回収できるようにしておく。そしてそれを引っ張れば門のところまで持ってこれる。
 ドアストッパーのわっかでは靴は玄関の扉付近までしか運べないだろうが、ドアが閉まる勢いで部屋のなかに巻き込んでくれる。仮に上手くいかなかったとしても慌てていた君が彼氏の蹴を飛ばしたということで特に問題はないだろう。
 もしこの仮説が正しいとすれば一刻も早く足跡について調査する必要がある。今の科学捜査ではその足跡を残した人物の体格までわかるそうだからな。君の恋人を殺害した犯人を捕まえる最後のチャンスかもしれない。
 これでも納得できないというなら反往復分の彼の足跡。それが付けられた状況を君が説明しろ」

 女はゆっくりと立ち上がる。どうやら俺の勝ちのようだ。


 後日談を語ろう。

 警察の捜査の結果、犯人は捕まった。もちろん、あのとき俺と論を戦わせた彼女ではない。

 しかし結局俺の推理はフーダニットしか当たっておらず。ハウダニットという側面からはからっきしであった。

 フーダニットも当たってはいない。ニアミス程度だ。殺された彼にもう一人の女がいたことは読み通りだったが、彼はその女とも婚姻はしておらず、つまりは不倫ではなく浮気であったわけだ。

 ハウダニット。これは途方もないほど外れていた。俺と彼女が推論の論拠にしていた片道分多い男の足跡。これはなんと同じアパートに住む別人のものだったのだ。

 たまたま彼女の隣人には彼と同じ足の大きさで、同じような靴を履いている人物がいたのである。

 では真犯人である彼のもう一人の恋人はどのように逃走したのか。なんと彼女は高名なパルクーラーであり、アパートの屋上から隣接する建物への屋上へと渡ってしまっていたのだ。
 
 そのまま彼女は屋根伝いに逃げて行ったのである。あとは大体俺の推論したとおりのものだった。

 どうやら安楽椅子探偵を気取るには俺はまだまだ未熟だったらしい。

 ちなみにあのときの彼女とはまだどうもなっていない。何度かデート――俺が勝手にそう思っているだけかもしれないが――を重ねているのだが、まるでそういう雰囲気にならない。

 そんな風に物思いに耽りながら俺は駅前の広場に行く。そこには文庫本を右手に傘を左手に腕時計で時間を気にする”彼女”がいた。
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