第1話

文字数 38,466文字

     序  章


   
「またミスしやがったな」

ここは人間が決して足を踏み入れることができない天上世界。
神の養成所ともいうべき場所なのだが、、、

「リセットするのを忘れてしまいました」
「地上に降ろすときは神の力を封印し、記憶を消去しておく決まりだろ、、、また人間界に混乱が起きるぞ」
「すみません、、、」
「ふぅ、いずれにしてもこうなってからでは手の打ちようがない。大事にならないように祈るしかないな。神の我々が祈るというのも変な話だが・・・」
「フフ、そうですね」
「笑い事ではない。仕方ないな、大王さまのところへ行くぞ」



















   人生の値段




私の名前は原田陽介、、、というらしい。交通事故で大怪我をし、数時間にも及ぶ手術の末ここに寝ているようだ。白い壁、白い明かりに囲まれたこの空間は、決して心地よいものではなかった。神の力を使えばこの程度の怪我はすぐに治せるが、、、状況を把握するため、しばらくはこのまま寝ておくとしよう。

「陽介、陽介・・・」
ベッドの横で五十歳くらいの女性が叫んでいる。たぶん母親なのだろう。割と小綺麗な服装をしているこの女性はずっと叫び続けていたのか服とは正反対にメイクは見るも無残なことになっていた。
魂が入れ替わったとしても原田陽介という人間はここに存在している。肉体と魂は別物なのだ。我々神が修行のため人間社会に降りるときには全身麻酔が絶好の機会なのである。この身体に宿っていたもとの魂は自分の記憶だけを連れて、入れ違いに養成所へ行くことになるのだが・・・。

そろそろ、この女性を安心させてあげるとしよう。

「陽介ぇ」
私が目を開けるとその女性は大きな涙を流しながら私に抱きついてきた。懐かしくも照れくさい久しぶりの感覚である。暖くてやさしい空気が私と彼女を包んでいた。

彼女の記憶をサーチすることによっていろいろなことがわかった。私は母一人子一人という生活の中、大学を卒業しこの春から会社勤めをするらしい。大学も普通、就職先も一流企業ではない。どうやら父親がいないこと以外は平凡という人生を歩んできたようだ。母親は私が産まれて間もなく離婚し女手一つで私を育てたようだ。神の私が言うのもなんだが女神のような人柄で誰からも愛されるまっすぐな人間だ。ただ、とかくこのようなタイプの人間は世渡りが上手ではない。ある時は人に騙され、ある時はお人好しがたたり余計な借金を背負ったりしたようだ。いずれにしても前任の魂のためにもこの女性は幸せにしてあげなければならない。少し時間をかけながらじっくりと・・・。


「退院、おめでとうございます」
ナースのひとりが私に満面の笑みで話しかけてきた。もともと怪我などは一瞬で治すことができたが、しばらく様子を見るため一週間の入院をさせてもらった。母親の女性が私の荷物をまとめている。
「お世話になりました」
私が深々とお辞儀をするとそのナースはまだ満面の笑みで私を見つめている。
「驚きの回復力ですね。つい一週間前に生死の境をさまよっていた人とは思えません」
そう言うと花を一輪手渡してくれた。この人にも良い魂が宿っているようだ。他人の幸せを心底喜んでいる。そうだ、この人にも少し幸せを差し上げよう。
「看護師さん、これよかったらお守り」
私はポケットから五円玉を差し出した。
「えっありがとう」
「何か困ったことがあったらそれを握りしめて願ってみて。でも一回しか使えないから本当に困ったときね」
「あんたは何バカなこと言ってるのよ」
母親がこっちも見ずに呟いた。
「ありがとう、大切にするね」
そう言ってまた素敵な笑顔で私のことを見つめていた。





「私は先に帰っているからね。無理しちゃだめよ」
そう言って母は先に病院を後にした。
私は久しぶりの地上の空気を満喫しようと歩いて帰ることにした。
「地上は寒いなぁ」
そんな独り言を呟きながら自宅へ向かった。
街路樹はまだ冬の装いで私を迎えてくれた。しずかな空気が一面を支配している。
「ねぇ、おじさん」
「おじさん?」
私が振り返ると高校生くらいの女の子が立っていた。
彼女はニヤニヤしながら私にこんなことを言ってきた。
「私を買わない?」
「え?」
「二万円でどう」
「キミいくつ?」
「高二、ピチピチだよ」
知らぬが仏とはこのことなのだろう。私が神とは知らずにこのようなことをもちかけてくるとは・・・。
「いいだろう、ついてきなさい」
私は近くのホテルに彼女を連れて行った。
ホテルの部屋に入るとさすがに落ち着かないらしく、
「さぁ、はじめる?」
と言って服を脱ごうとした。私は無論そういうつもりはなく彼女をソファに座らせた。
「なぜお金が必要なの?」
「なに、お説教?」
彼女はほおを膨らませた。
「いいから言ってごらん。場合によっては援助してあげるから」
どうやらどうしても欲しいものがあって、プレミアがついて十万円で売られているらしい。二万円ずつ五人と関係を持てば買えるという計算をしていたようだ。幸い私に声をかけたのが最初のようだった。
私は彼女に近付きおでこをあてようとした。
「え、はじめるの?」
「おでこをあてるだけだよ。じっとしてて」
「それっておじさんの趣味?」
「いいから」
私は彼女のおでこを通じて記憶をサーチした。あまり幸せな記憶はなく、貧しい家庭で父親と二人暮らしのようだった。記憶の奥底に鍵がかかっている扉を見つけた。人間は精神の防衛本能とでも言うべきか本当に嫌なことがあると記憶の扉に鍵をかけることがある。そして忌まわしい過去をないものにするのである。私は鍵を開けずにそのままその扉の向こうにある記憶に入り込んだ。


彼女は怪訝そうな顔をして私を見つめている。
「よし、ではキミの人生を十万円で買うとしよう」
「人生を?」
「そう、これからのキミの人生」
「よく意味がわからないけどお金くれるならいいや」
「では契約成立ということで」
私は彼女に十万円を手渡した。お金などはポケットをたたけばいくらでも出てくる。
「で、私は何をするの?」
彼女は不思議そうな顔で私の顔を覗き込んだ。
「それよりも早くその欲しいものを買いに行かなくていいのかい。プレミアものなんでしょ。私はこの部屋で待ってるから」
「いいの?」
「どうぞ」
「私の名前も言ってないのよ」
「だから?」
「私が帰ってこなかったら?」
「そのときはそのときさ」
彼女は不可思議な体験をして困惑していたが、欲しいものが買える喜びが勝ったのか急いで部屋を後にした。



しばらくして大きな紙袋を抱えて彼女が戻ってきた。
「買ってきた、見て見て!」
彼女は本当に嬉しそうにそのプレミアグッズを見せてくれた。ひと通りグッズを舐めまわし我に返ったのか彼女は私を見つめた。
「ところで人生を買うってどういうこと?」
「キミの人生は私が決めるってことさ」
「で?」
「ん?」
「おじさんにどんないいことがあるの?」
「それはキミが気にすることではないさ。これからは私の言う通りに生きてもらう」
「ふ~ん、よくわかんないけど約束だからね、で何をすればいいの?」
「そうだな、まずは東大に合格してもらう」
「えっ?」














   メシはまだか




「ただいま」
「晴子、帰ったの?」
「お父さんの具合どう?」
そう言って晴子はソファに荷物を置いて浴室に入っていった。
病院での勤務を終えるとシャワーを浴びてビールを一杯飲むのが習慣なのである。
服を脱ごうとした時、ポケットの五円玉に気がついた。そうだ原田くんがくれたお守り。
晴子は五円玉を洗面台に置くと無造作にシャワーを浴び始めた。



シャワーからあがると、晴子は長袖のTシャツに下着姿のままでドカッとソファに腰をおろした。
「ふぅ、今日も無事勤務を終えました」
そう呟くと缶ビールの口を開け一気に口に流し込んだ。
「ねぇお母さん、お父さんはどう?」
台所で夕飯の支度をしている女性に話しかけた。
「どうって言われてもね。相変わらずよ」
「そう、自分の名前まで言えないなんて、これじゃ何のために生きてるのかわかんないね」
「晴子!」
母親が怖い顔で晴子を睨みつけた。
「ごめんなさい、私だってお父さんには元気で長生きして欲しいって思ってるけど、苦労している割にお母さんが報われないって考えちゃって」
母親はそれ以上何も言わず夕食の支度を続けた。

ガタン!

部屋の奥の方で音がした。
母親が慌てて部屋に入っていくと
「お父さん、そんなことは私がしますから座っていてください」
という声が聞こえてきた。
どうやら父が石油ストーブの灯油を足そうとしたらしく缶をたおしてこぼしてしまったようだった。
「晴子、雑巾とって!」
母が私に言うと同時に
「お父さん、ダメ」
という声が聞こえてきたかと思うと部屋が急に明るくなった。
父がたばこを吸おうと火をつけたのだ。こぼれた灯油に火がつき今にも父親の体に燃え移りそうになっている。
「誰か助けて!」
晴子は心の中で叫んだ。その瞬間、あたりは時間が止まったように静かになり目の前にあの五円玉が転がっているのが見えた。
「あれ、洗面台に置いたはずなのに」そう晴子は思ったがその五円玉を急いで手に取り父親を助けて欲しいと願った。
「本当に助けていいのか?」
どこからか声がした。
「え?誰なの?原田くんなの?」
「私は人間が言うところの神です。本当に助けていいのですか」
「どういう意味ですか?」
「この方が亡くなったほうがあなた方は幸せではないのですか」
「そんなことは決してありません。死んで欲しいと願うなんて、、、」
「やはり清き魂をお持ちのようだ。しかし、このまま続ければ母親である彼女は疲弊していき寿命を縮めることになりますよ。残念ながらお父さんが元に戻ることはありません。それでも助けて欲しいのですか」
「はい、母が疲れないように私が看病します。もし必要と仰るならば私の命と引き換えでも構いません」
「そうですか、わかりました。あなたの願いを叶えましょう。あなたの清い魂に免じてお父さんにも少し手を差し伸べましょう」そう言ったかと思うと大きな風が吹き部屋は元の平穏な状態に戻った。晴子は自分たちの身に何が起こったのか理解できずリビングに座り込んでいる。
晴子が呆然と座っていると背後から懐かしい声が聞こえてきた。
「晴子、メシはまだか」
父親が声をかけてきたのだ。
「え、お父さん私がわかるの?」
「なんだぁ、オレをボケ老人のように言うな」
父親が晴子を睨みつけた。
晴子は涙が止まらなかった。
「変な子ねぇ、泣いてないでお皿とってちょうだい」母親が晴子に言った。
晴子は深呼吸をしていつもの笑顔に戻り返事をした。

「は~い、ただいま!」


















    ロスタイム




病院からの帰り道、ひとりの女性とすれ違った。その女性は三十代半ばといったところで買い物の帰りなのだろう、大きな買い物袋を抱えて家路を急いでいるようだった。
私はその女性からただならぬものを感じ、母親が心配しないように寄り道をして帰ることを携帯で伝えた。
「退院したばかりなんだからまっすぐ帰ってきなさい」と言われてしまったが。
母親に電話をした後、彼女を追いかけた。
彼女に追いついたところで、激しい衝突音がした。十字路で信号を見誤ったトラックが乗用車とぶつかり、その勢いで彼女の方へ突進していっている。彼女は異変に気付き避けようと身を反転させていたがトラックの勢いはそれをはるかに上回っていた。
私は時間を止めて彼女を助けた。彼女は何が起こったのか理解できず呆然としている。
「なんだ貴様は?」男が怖い顔をしながら私に近づいてきた。どうやら死神のようだ。
「神に向かって貴様とは随分だな」
「え、なんで?」死神は驚いているようだったが、
「こちらにも任務というものがあるのです。その者を連れて行かないと私が困ります」
「わかっていますよ、少しだけ時間をもらうだけですから」
私がそう言うと彼はしぶしぶ引き上げていった。

公園はまだコートを着ていないと震えが止まらない気温であるが、彼女の震えは寒さだけのせいではなかった。。
彼女は私の話を聞いた後、
「そうですか・・・私は死ぬんですか。でもあのまま車にはねられていたら、もう二度と子供の顔を見ることができませんでした。ありがとうございました」
そう言い残し彼女は公園を後にした。






「ただいま」
私は知らない人間の家に人間の息子として帰ってきた。
「遅い!」
母親は怖い顔をして私を出迎えてくれた。
「今日は一緒に寝るからね」
そう言って台所へ引き上げていった。
知らない家、知らない部屋、でもなぜか居心地はよかった。
母親と食事をとり風呂に入り一緒のふとんに入って眠った。
眠ったが、、、昼間の女性のことが気になりそっと家を出て彼女の家に向かうことにした。外は寒く久しぶりの人間界の空気が容赦なく私の体温を奪おうとしている。「生物というのは不便だな」私はそんな独り言をつぶやきながら歩いた。彼女の家の近くまできたところで私はそっと目を閉じ彼女の魂の声を聞いた。

「健太ごめんね、、、」
彼女は寝ている子供の横で泣いていた。
彼女は言葉にならない言葉を何度も呟きながら涙をこぼしている。
「明日、また公園に来なさい」
私は彼女の心に声をかけ自宅に戻った。


「やはり眠れませんでしたか」
私が彼女に声をかけると黙って頷くだけだった。
「生があれば死もある。それは理解できますね」
「はい」
「神がこんなことを言うのもなんですが、ここで出会ったのも縁です。あなたの心残りはなんですか」
「私が死ぬということよりも子供が母親を失うということのほうが・・・。健太は小学校でいじめにあっていて、やっとこれから立ち直ろうとしていたところなんです。神様、お願いです。私の命は仕方ありません。どうか健太のことをお願いいたします」
「私にどうしてほしいと?」
「私が死んだ後も健太が幸せに過ごせるように見守っていただけないでしょうか」
「お約束はできません。幸せというのは本人が感じることであって押し付けるものではありませんから。それに母親の死、そこからくる心細さ、空虚感はどうすることもできません」
「では、せめて、、、一緒に、、、」
「彼には彼の人生が待っていますよ。良いことも悪いことも。それをすべて取り上げてしまうのですか」
「すみません、とんでもないことを口にしてしまいました。お忘れください」
そう言うと彼女は下を向いたまま黙り込んだ。
「死神さん、聞いていましたか?」
「はい」
ベンチの背後から死神が顔を出した。
「どうでしょう、少し死ぬ日を延ばしてあげられないでしょうか」
「それは構いませんが・・・。」
「そうですねぇ、せめて子供が成人するまでです」
「そこまではさすがに難しいです。数日ならまだしも数年は無理です」
「でしょうね、そこで・・・。」
私は私の考えを死神と彼女に話した。


その日の夜、私は健太の夢の中ですべてを彼に伝えた。
もうすぐお母さんが天国に行ってしまうこと、お別れをしなければならないということを。
彼は「嘘だ!」と叫び受け入れようとはしなかった。当然の結果ではある。しかし、次第に冷静さを取り戻し私の話に耳を傾けるようになったが、終始下を向いて顔を上げることはなかった。
次の朝、母親が健太を起こしに行くと机に向かって何かをしているようだった。
母親は「ご飯食べなさい」と声をかけるのが精いっぱいだった。
食事が終わると母親の目をまっすぐに見つめ「ママ、今日は学校休んでいい?ママとどうしても行きたいところがあるんだ」と言った。

母親は健太の言うがまま、手を引っ張られついていった。
「ここは、、、」
そこは幼稚園の入園式のとき、満開の桜の木の下で写真を撮った記念の場所だった。まだ桜の木は冬の衣を身にまとい、春の訪れを静かに待っているようだった。その場所につくと健太はポケットから一枚の紙を取り出し読み始めた。

「ママへ ぼくを産んでくれてありがとう。ぼくはママが大好きです。天国に行ってもぼくのことを忘れないでください。ぼくは絶対に忘れないから。ママが天国に行って心配しないように、ぼくはいじめっ子なんかに絶対負けません。学校も休まずに行きます。だから安心してください。ぼくはママがいなくなっても頑張るから、だから、、、」
健太は全部読み終える前に涙で何も読めなくなった。
母親は健太を強く強く抱きしめた。
「ママも絶対に健太を忘れたりしないから、約束ね」


三日後、彼女の葬式が行われ私も参列した。神が葬儀に出るなどということは前代未聞のことなのだろうが。

サクラの花が舞い散る頃、ランドセルを背負った健太が母との思い出の場所にいた。
するとそこへ白いワンピースに大きな麦わら帽をかぶった一人の女性が現れ健太にこう話しかけた。
「手紙の続きを読んでくれる、、、?」
そう言うと大きく両手を広げ健太を強く抱きしめた。
「もう寂しい思いはさせないからね」
健太は一瞬ためらった。
しかし、すぐにわかったようだ。暖かな温もりが同じだと。
大きな麦わら帽が風に飛ばされ、天高く舞い上がっていった。




























    見られない恐怖



母親がどうしても術後の検診に行けとうるさいので仕方なく車で病院に向かっている。
車の運転は初めてだが、どうやらこのあたりは体が覚えているようだった。
ピッピーーー
後ろの車がクラクションを鳴らしながら近づいてきた。
車を止めると後ろの車から一人の男が降りてきた。
「おまえ今オレの前に割り込んだろ」と言うと私の車のドアを蹴り上げた。
「割り込んだ覚えはありませんよ」と答えると「いいから車から降りろ」と怒鳴りつけている。私は仕方がないので少し付き合うことにした。
「オレの前に割り込むなんていい度胸しているじゃねえか」
男は相変わらず怒鳴り散らしている。私は最後のチャンスを与えるため「それぐらいにしておかないと大変なことになりますよ」とだけ忠告した。
「上等だ、だいたい生意気なんだよおまえ」と今にも殴りかかってきそうな勢いだ。
私は深いため息をついた後「あなたみたいな人間は必要ないです」
そうその男に告げると彼のおでこに指をあてた。
男は「な、なんだよ。いい加減にしろ」と言いながら殴りかかってきた。
私は「それでは失礼」と一言を残し車でその場を後にした。
男はハトが豆鉄砲をくらったような顔で呆然と私を見送った。それもそのはずである。彼の拳は私をすり抜けて空振りしたのである。呆然としていた彼が車に戻り私を追いかけようとしたがそれも無理な話である。彼は何にも触れることができず何からも見られることのない透明人間になったのだから。

「オイ、オレはどうしちゃったんだ」
男はブツブツ言いながら途方に暮れていた。男は試してみることにした。通りを歩いている人の前にわざと顔を出したり大声で話しかけたりしてみた。誰一人として彼に気づく人はいない。手を叩いても、何をしても誰も気づかない。男は「ヤッター、透明人間だぁ」と叫んだ。
近くに見えるのは女子大の体育館。
男は女子更衣室に忍び込むと(忍ぶ必要はないのだが)女子大生が入ってくるのをひたすら待った。運良く女子大生が入ってきておもむろに着替え始める。男はしめしめと思いながら一部始終をじっくりと眺めた。これはラッキーだ。
「更衣室だろうが女風呂だろうが覗き放題じゃないか」
男はそう呟くと更衣室を後にしようとした。しかし、ドアのノブを触ることができない。入るときはたまたま開いていたが今は完全に閉ざされている。窓から出るにも窓は高すぎる。男は仕方なく更衣室でドアが開くのをひたすら待った。二時間くらいした頃だろうかドアが開いた。綺麗な女子大生が何人も入ってきたがそんなことはもうどうでもよかった。ドアが開いたすきになんとか外に出ることに成功した。
「これは大変なことになったぞ」
男はまたしても途方に暮れた。

私が検診を終わり先ほどの場所へ差し掛かった時、車の前に男が現れた。
「申し訳ありませんでした。二度としないので元に戻してください」男は私に懇願した。「私はちゃんとに忠告しましたよ、大変なことになると」
「あのときは調子に乗っていて・・・」
「先ほどあなたの額に触れた時、あなたのこれまでの行いをすべて見させてもらいました。今回のようなことをしたのは初めてではないですよね。他にも弱い人をいじめたり、自分の利益を優先させるために人を騙したり、残念ながら救う余地はありませんね」
私はそう男に告げるとそのまま男を置いて自宅へ走り去った。

日が暮れ、男は空腹感を覚えた。誰かに助けを求めても誰も自分に気づいてくれない。いい匂いがするレストランに行っても食べることができない。
「私はこのまま飢えて死ぬことになるのだろう」男は諦めなければならない状況であることを受け止めた。すると、不思議にこれまでの自分の行いが記憶とともに蘇ってきた。私を好きだと言ってくれた女性を騙し、キャバレーで働かせ金をまきあげた。人にいちゃもんをつけ金をまきあげたことは数知れない。人助けなどしたこともない。荒っぽい性格なので学生時代も友達がなく、それゆえ強がって見せるために更に同級生をいじめたりした。
「オレは本当にこのまま死ぬのだろうか・・・」そう呟き道に座り込んだ。


どれくらいの時間が経ったのだろう。どうやら座ったまま眠ってしまったらしい。
人影も少なくなり夜の寒さが身にしみた。


男が道端で途方に暮れていたとき、
「うっうううう」
男の前を歩いていた老人が突然心臓のあたりを押さえて倒れこんだ。今までの自分ならなんとも思わなかったかもしれない。しかし今は「どうせ死ぬならひとつくらいはいいことをしたい」そんな感情が込み上げてきた。
「誰かぁ、この人が大変なんです、救急車を」男は大声で叫んだ。
しかし、彼の言葉は誰にも届かない。
「お願いです。この人を助けてあげてください」いくら叫んでも誰も気づかない。男は心の底から自分の行いを悔やんだ。
「お願いです、お願いです、どうかどうかこの人を・・・」男は向かいの通りを歩いているカップルの前に飛び出し、なんとか気付いてもらおうとした。結果は同じである。
自分の愚かさ、無力さに肩を落とし老人の元へ戻ろうと道路を渡った時、青信号で走ってきた車にひかれた。運転手は何にぶつかったのかわからなかったが、とりあえず車から降りてあたりを見渡した。そして歩道で倒れている老人に気づき救急車を呼んだ。自分がひいた男には気付かず、、、。間も無くして救急車が到着し老人を乗せて走り去った。
男は笑顔だった。「よかった、本当によかった」
男の目には綺麗な涙がひとつ溢れていた。
「どうですか、少しは人の心の痛みがわかりましたか?」
私はその男に話しかけた。
「あ、あなたは・・・あの老人は大丈夫ですか?」
「はい、あなたのおかげで助かりましたよ」
「そうですか、それはよかった」
「私に命乞いはしないのですか?」
「残念ですが、私は命を救って頂く価値のない男です。最後に気づかせくれたことに感謝しています。人とは存在を否定されることが最も辛いと感じる生き物なのですね。私はこれまで人と関わることを避け、相手を尊重することを怠ってきました」
「わかりました、ではその罪をつぐなう機会をあたえましょう」
私はそう言い残しその場を去った。

「おい、誰か倒れているぞ。救急車を呼べ!」
周囲の人が男を心配し集まってきた。
遠くから近づいてくる救急車の音が、その男の心に響き渡った。






    悪  友



「おい、そこの神」
とつぜん私を呼び止める声がした。少し懐かしいような、耳障りのようなそんな声だった。
「もしかしてテンか?」
「おうともよ」
振り返ると見覚えのある顔がそこにあった。
「どういうつもりだ、勝手に人間を救ったり導いたりして、今のお前は神ではないんだぞ」
「文句があるなら天上の担当者に言え」
「それもそうだ」
「・・・・(相変わらずボケたやつだ)、何しに来た?」
「大王さまがおまえを監視して来いって言うから」
「オレの何を監視するつもりなんだ?」
「おまえが人間界に干渉しないようにだよ」
「オレは修行中なんだぞ。人間界に関わらないでどうする」
「それもそうだ」
「・・・・・」
「いや、違う。そうじゃなくて・・・時代の流れを変えるような大事をしでかさないようにだよ」
「ほう、で? もしそうなったら天使のお前がオレを止められるのか」
「・・・・・無理!」
「相変わらずだな」
「監視しろと言われたけど止めろとは言われてない」
「そりゃそうだ。ハハハハ。」
「笑い事じゃない、おまえのせいでオレまで人間界に飛ばされたんだぞ」
「だから文句があるなら・・・」
「わかったわかった、担当者に言えだろ」
「そういうことだ。黙って天上界に帰れ。おまえが心配しているようなことはしないよ」
「そういう訳にはいかない。大王さまの命令は絶対なんだ。おまえには前科もあるし」
「はいはい、わかりましたよ。着いて来たきゃ勝手にしなさい」
私は手で軽くあしらうふりをして歩き出した。
天使のテンとは気が合うのか合わないのかいつも一緒にいて言い争いをしていた。神である私を「おまえ」呼ばわりするのもこいつくらいのものだった。
「とりあえず家に帰ってメシを食う。一緒に来るなら猫に化けろ」
「なんで猫なんだよ」
「今の母親が猫好きなんだよ」
「そういうことね」
まったくやっかいなヤツが降りてきたもんだ。まぁ、知らないガチガチ頭の天使に監視されるよりはましだが。

「母さん、ただいま」
私は猫に化けたテンを連れて家に帰った。
母親が台所から飛び出してきた。
「あんた怪我はないの?」
「・・・?」
「さっきから救急車の音が何度かしてて、もしかしてって」
「ごめんごめん、もう事故るなんてヘマはしないから大丈夫だよ」
「そう、ならいいんだけど、あの音は心臓に悪くて・・・」
そういうとテンに気付かず台所に戻ってしまった。この母親は少し天然というか呑気というか、このようなところも人から好かれる要因になっているようだが。
「母さん、気づいてよ」
「あら可愛い!」
「心配かけたから母さんへのプレゼント。名前はテンって言うらしいんだ」
テンが私を睨んでいる。
「ありがとう。猫ちゃんこっちにおいで」
母さんは満面の笑みでテンを抱き上げた。
「その猫ね、人間と同じ食べ物しか食べないんだって」
「あらそうなの?」
「まぁ、贅沢な猫だから大変かもしれないけどよろしくね」
またテンが私を睨んでいた。

「なぁ神よ、あんまり大王さまを心配させるなよ」
喜んだ母親が風呂も一緒に入り、テンを抱きしめて寝ていたから、やっとのことで抜け出してきたところだった。
「ところで神って呼ぶのやめてくれないか」
「いいだろ、どうせオレとの会話は人間には聞こえないんだから」
「この世界では陽介という名前になってるからそれでよろしく」
「はいはい、わかりましたよ。陽介が何かするたびに寿命が縮まるって言ってたぞ」
「大王に寿命なんてないだろ」
「ものの例えだよ。わかってるのか」
「わかってるよ」
「これまでやってきたことは良いとして、あの女子高生のことはどうするつもりなんだよ」
「ああ、あの二万円の女子高生ね」
「笑い事じゃない。神が人間の人生を買ってどうするんだよ」
「まぁ、近いうちにゆっくり話すよ。人間っていうのは寝ないとだめなんだ。寝るぞ」
テンは深いため息をついて、母親の寝室に戻っていった。

「母さん、おはよう」
私が起きると母親はいつも台所にいた。
「ご飯出来てるわよ。ハイ、これテンちゃんの分」
テンの分もちゃんとに一人前のお皿に盛り付けてあった。
「今日ね、母さん検診だから少し留守にするけど」
「うんわかった、じゃぁオレもテンの散歩に行ってこようかな」
「あまり無理しないでね」
「最近そればっかりだな母さんは」
「あたりまえでしょ。本当に生きた心地しなかったんだから」
「はいはい、わかりました。無理はしません」
私は母親とテンと三人で食事をとった。外はまだ寒く冬の装いのままだったが部屋の中はとても穏やかな空気が漂っていた。
テンが私に話しかけてきた。母さんには聞こえない声で。
「おい、この人、、、ガンがあるぞ」
「だな」
「だなって!」
「とっといてくれよ、それぐらいならおまえでもできるだろ」
「できるけど、そんなことしていいのか?」
「この人がいないとオレの修行にも差し支えるだろ」
「まぁ、そうかもしれないけど・・・」
「神の判断に文句あるのか」
「だから今は・・・わかったよ」



















   時の流れを司るもの



母さんを見送ってしばらくテンとコタツでのんびりしていた。
母親がいないときはテンはもとの姿に戻っている。
「なあ、女子高生の件話せよ。どういうつもりだよ」
テンがみかんを食べながら話しかけてきた。
「彼女の人生を買った、それだけのことさ」
「だから、それは何が目的なんだよ」
「彼女の中の辛い過去の扉。それくらいは気づいているだろ」
「ああ、何があったのかも知っている。それがどうしたんだ。人間社会では珍しくないだろ」
「そうだ、珍しくないから問題なんだ」
「彼女をつかって何をする気だ」
「人間社会の洗濯さ」
「洗濯?」
「人間は驕っていると思わないか。言葉を進化させ集団生活を確立させ、さらに科学を手に入れた。その結果どうなった。弱かった人間という生物が力を合わせ自然と戦い生き残ってきた過程を完全に忘れていないか。人間は一人では何もできない、今でも弱き生物の一種であることを気づかせてやるのさ」
「やはりな、またそんな大それたことを考えている」
「別に時代を変えようと言っている訳ではないぞ」
「いいか、この際だからハッキリ言わせてもらうぞ」
「いつもハッキリ言ってるじゃないか、神の私に向かって」
「ちゃかさずに聞けよ。神にもいろいろな方がおられる。水や火を司る神や生物の命を司る神もおられる。しかし、この方々はある一定の領域にてこの世を統治する神だ。おまえは違う。おまえは時いや時の流れを司る神だ。ほかの神々とはレベルが違うんだ」
「おいおい、天使であるお前が神のランクづけか」
「そうじゃない、おまえがすることは百年先や千年先の未来に大きな影響を及ぼす危険があると言っているんだ。大王さまが心配しているのはその点なんだよ」
「もちろんわかっているさ。だから自ら修行に降りたんだ。自分が下す判断がどのような影響を及ぼすか知ることができるだろ」
「もし間違っていたら」
「愚問だな。間違いなんて存在するのか。何が起こっても受け入れるしかないのさ」
「そりゃそうだ。でもいたずらに世を動かすことは間違っている」
「何のことだよ」
「看護師がこの後、大変な思いをすることを知っているんだろ」
「ああ、知っているよ」
「健太と母親もいつかまた別れの時が来る」
「そりゃそうだ。だから?」
「なぜあのような形で人間に関わろうとしている? 責めているんじゃない。そんなことはこの広い世の中で大した意味を持たない。だからこそ何でそんな小事に関わるんだ」
「小事ねぇ。そのうちわかるさ。そろそろその女子高生との待ち合わせの時間だ」
私はテンとの話を一方的に切り上げた。正直、テンのことは嫌いではない。しかし、時の流れというものを言葉などでは説明できない。小さな波がいくつかの波とぶつかり増幅したり打ち消し合ったりして、その結果どのような波になるのかを言葉で説明出来るはずもない。言葉はそこまでの進化をしていないのだ。




「おじさ~ん」
この前とは違い大きな声で手を振っている。
「やぁ」
私も大きく手を振り返した。
春のはじまりを感じるやさしい日をあびて彼女は立っていた。
「待ったかい?」
「ううん、大丈夫」
そういうと彼女は私の顔を覗き込んで
「何か難しい顔してる。なんかあった?」
「いや、なんでもないよ。家を出る時ネコに噛みつかれてね」
また、テンが私を睨んでいる。
「えーネコ飼ってるの?可愛い?」
「ぜんぜん!」
テンの表情は見ないようにしよう。
「まぁ、ベンチにでも座ってこれからのことを話そう」
「うん、じゃぁあっちの噴水のところがいいな」
そう言うとひとりで勝手に走って行ってしまった。彼女の天真爛漫さはどこか母親に似ていた。
ほのかに水の香りがするベンチに二人と一匹で腰掛けた。彼女にテンは見えていないが。
「東大に行けって本気なの?」
「もちろん」
「でも私、百点なんて一回もとったことないよ」
「問題ないさ。キミが私の言う通りやってくれれば」
「そうなんだぁ。で何をすればいいの?」
「まずは自分で考えることだな」
「なにそれ。言うこと聞けって言ったばかりじゃん」
「そう、だからまずは自分でどうやったら東大に合格できるか考えること」
「えーーー、高校だって家から近いからって理由で選んだんだよ。わかんないよ」
「じゃぁ、わかる人に聞けばいいだけでしょ」
「そりゃそうだけど・・・」
彼女はいつもの頬を膨らませる作戦に出ている。
「そんな顔は私に通用しませんよ。私はキミの人生を買ったんだから」
「はいはい、わかりましたよ。調べればいいんでしょ、自分で」
「そうそう、そういうこと。あと、私のことをおじさんって呼ぶのやめてくれるかな。原田陽介っていう名前があるんだよね」
「それは却下」
「なんでだよ」
「人生は売ったけどおじさんをどう呼ぶかは私の自由じゃない?」
「確かに・・・」
テンがニヤニヤしながら私を見つめている。確かに彼女の時の流れは私が支配している。しかしながら、一瞬一瞬の出来事まで支配することにはなっていないのだ。
「じゃぁ、今日から陽介おじさんね」
「はいはいわかりました。それで結構です」
「私は白石あかねと申します」彼女はペコリとお辞儀して見せた。
「よろしく」
「ところで私、大学に行くお金も予備校に行くお金もないよ。どうするの?」
「お金のことは気にしなくていいよ。キミは合格するために何が必要なのかを考えればいい」
「ふ~ん、陽介おじさんって金持ちのボンボン?」
またテンがニヤニヤしながら私を見ている。
「まぁ、好きに考えてくれていいよ」
「やめた、人のこと詮索するの好きじゃないし。とりあえず合格する方法ね、了解!」
「また来週ここで会おう」
「わかった連絡先教えて。イタ電とかしないから」

さっきからテンが何も言わずニヤニヤしながら私についてきている。
「何か言いたいことがあるなら言えよ」
私からテンに話しかけた。
「別に言いたいことなんてないさ」
テンは相変わらずニヤニヤしている。
「おまえ何か勘違いしているんじゃないか」
「何を?」
「もういいよ」
神である私をここまで不愉快にできる奴も珍しい。貴重な存在とも言える。私は独り言を呟きながら公園を出た。


































    約  束



「テンちゃ~ん」
家に帰ると母親がテンを私から取り上げるように抱きしめた。
テンも満更ではないらしい、素直に母親のすることに従っている。
「あ、そうそう、絵美ちゃんから手紙がきてたわよ。そこね。」
そう目で促すとテンを連れて奥へ行ってしまった。
絵美という女性は私とは同級生らしい。というよりも幼馴染と言ったほうが正しいようだ。
母親の記憶を辿る限りは特別な関係ではないようだが思春期の青年がいちいち女性のことを母親に話すはずもないだろう。魂を入れ替えた場合の最も面倒なシチュエーションだ。
私は手紙をとって目を通した。どうやら高校時代の同級生が集まってクラス会をするようだ。
「ねぇ、なんの手紙?」
母親がテンののどを撫でながら顔を出した。
「ああ、クラス会だってさ。」
「あらそう、たまにはそういうのに顔を出してみたら?彼女できるかもよ」
母親から距離を置きたくなる人間の気持ちが少しわかったような気がした。

母親が眠りにつくとテンが私の部屋にやってきた。
「あの人の猫好きにもまいるよ」
嬉しいくせにと思いながら私は聞き流した。
「ところでクラス会に行くんだろ」
「ああ」
「何をする気だ?」
「監視役の仕事か?」
「ああそうさ。おまえの行動を知っておかないとな」
「はいはい」
そういいながら私はベッドへ転がった。
「まずクラス会の前に絵美という女性に会う。記憶をサーチしておかないと誰が誰だかわからないからな」
「それで?」
「なんだよその笑みは?」
「おいおい、どれだけ長い付き合いだと思ってるんだよ。そんなことのためにおまえが動かないことをオレはイヤってほど知ってるんだぞ。」
「はいはい」
お見通しってやつだな、私はベッドに置いてあったクッションを手に取り顔に当てた。
「すべて話す」
「サンプリングだな」
「ああ」
「この時代の人間が神の存在を目の当たりにした時、どのような反応をするのか試す」
「なるほど」
「反対しないのか?」
「オレを歳だけ重ねた頭の固い天使たちと一緒にするなよ。おまえは人間界を知るためにここにいる。サンプリングは必要なことだろ。」
「ああ、時代によって反応が全然違うからな。」
「サンプリングは反対しないが、今のお前は神じゃない。生身の人間の姿でいることは忘れるなよ」
「わかってるさ」




絵美という女性を呼び出した。母親の記憶ではよくこの喫茶店で会っていたらしい。少し古い情報のようだが。
「陽介」
手を振りながら絵美という女性が入ってきた。
「この喫茶店、すごく懐かしいね。」
彼女はそう言いながら私の前に座った。少し短めの白いスカートに大きめのカーディガン、アクセサリーは必要最小限に抑えて清楚な感じがする女性だった。
「ねぇ、何年ぶりかな?」
「キミに話があるんだ」
「おい、いきなりかよ」テンの声が聞こえた。

私はこの男性に起こったことを包み隠さず話した。無論、最初はまったく信じなかったが次第に口調も仕草も見た目以外はまったく違う存在になっていることを理解したようだった。
「陽介は死んだの?」
「キミたち人間の考え方ではそうなるな。ただ、心配しなくていい。魂というものは決してなくなったりしないものだ。彼の魂とはまた別の形で会える」
「そういうもんなんだ」
彼女はそう言って目の前にあったコップを口に当てた。
「で、今の陽介は神様なの」
「ああそうだ。我々神は修行のため人間の体を借りて時々この地上の様子を見に来る。本来であれば自分が神であることをリセットされ、人間として入れ替わるのだが手違いがあって私は神の記憶も能力も持ったままここにいる」
「敬語つかったほうがいいのかな?」
「それは困る。私は原田陽介なのだから」
「それで・・・私に何か・・・?」
「今の私ではクラス会に出席しても誰が誰だかわからない。先生でさえ区別ができない。少しキミの記憶を拝借したい」
「拝借?」
「私の手の上にキミの手を重ねるだけでいい」
「こう?」
彼女は黙って私の要求に従った。困惑していることに間違いないが冷静さを失ってはいなかった。
「ありがとう」
「もういいの?」
「ああ、すべてわかった」
「すべて?」
「そう、陽介という人間がキミにとって大切な人だったこともね」
「・・・・・。」
「キミには申し訳ないことをしたようだね」
「早く思いを伝えなかった私が悪いんです」
そう言って彼女は下を向き、そして小さな滴が彼女の手に落ちた。

幸い客は我々しかいなかったので周りの客から冷たい視線を浴びせられることは避けられた。店主を除いてだが。

「少し歩かないか?」
私は彼女の涙が落ち着くのを待って外へ連れ出した。商店街を通り、ゆっくり歩きながらただ時間が過ぎるのを待った。線路沿いの静かな小道に差し掛かったところで彼女が口を開いた。
「神ってどんな存在なの?」
「わからないから修行している」
「わからない? だってなんでもできるんでしょ」
「なんでもという訳ではないが、たぶんキミが想像しているようなことはできる」
「それなのになんでわからないの?」
「ではキミは人間てなんだという問いに答えられるか?」
「・・・・・」
「私たち神だってそうだ。全知全能ではあるが自分がなんのために存在しているかはわからない」
「そういうもんなんだぁ」
彼女はそう言うとその場に座り込んだ。
「私ね、幼稚園の先生になるのが夢で大学もそういう大学にいってたの。人間がなんなのか、なんのために存在しているかなんて考えたこともなかった。でも子供たちといると楽しいの。それだけじゃダメなのかな。自分を必要としてくれている人がいる。それを感じられる仕事をして、私を必要としてくれる男性と結婚して、子供を産んで。そして歳をとって死んでいく。私はそれでいいと思ってた。必要とされないって一番悲しいから」
彼女は独り言ともとれる小さな声で話を続けた。
「陽介はね、そんな私を必要って思ってくれてたの。成績もイマイチだったし運動もダメ。子供の頃いじめっ子にからかわれていたのをよく助けてあげたんだよ。でもそんなことじゃなくて、陽介は私といる時間そのものを必要としてくれてたの。もちろん私も・・・。もうその幸せな時間は来ないのね」
彼女はそう言うと少しうつむいた。
「ねぇ、神様の話を聞いてもいい?」
「構いませんよ」
私はこの女性からどのような質問が来ても答えてあげようと思った。
「神様ってたくさんいるの?」
「ああ、分業みたいな形になっている」
「分業?」
「生命を統治する神、物質を統治する神、ほかにもいろいろいる。私は時の流れを統治する神だ」
「時の流れをって、じゃぁタイムマシンみたいなこともできるの?」
「未来にはいけない、未来はキミたちが積み上げたものが結果として構成されたものだ。いくら神でもそこまでの力はない」
「なるほどね、じゃぁ過去ならいけるの?」
「いけるが関わることはできない。関われば今のこの時代がすべてリセットされる」
「リセット?」
「そう、すごろくの”振り出しに戻る”ってやつさ。すべてがなかったことになる」
「ふ~ん、そうなんだ。この世界って案外もろいんだね」
「ああ、そうだな。でもそれをしたら私は大罪人(神?)になってしまうが」
「神を罰する人がいるの?」
「大王さまがおられる」
「神の上に大王かぁ」
そう言うと彼女は窓の外の空へ目を向けた。
「神様って人の運命も決められるんだよね?」
「勝手に操作すると生命を統治する神に叱られるが、すべての神にある程度の力は備わっている。当然、私にもできるが」
「私から陽介をとりあげた罰にひとつお願いがあるの」
「・・・・わかった神の罪滅ぼしということだな。言ってごらん」



「オイ勘弁してくれよ」
テンがむくれている。
「本当に彼女の願いを叶えてやる気かよ」
「仕方ないだろ」
「神が仕方ないなんて言うなよ。なんとかしろよ」
「神が約束を破っていいのか?」
今度はテンがほおを膨らませる作戦に出ていた。

空はどこまでも青くすべてを吸い込んでしまうような雄大さで私たちを見つめていた。







 
    奇妙な絵



その男は絵を描くことに没頭していた。
この数日、まともな食事も睡眠もとっていない。
美大の学生でも画家でもないこの男は、なにかにとりつかれたように絵を描き続けた。
自分でもなぜなのかわからなかった。確かに子供の頃から絵を描くことは好きだったが趣味というレベルでもなく、歳をとるごとに描かなくなっていた。そんな自分がある日どうしても描きたいという衝動にかられ一気に画材を揃えた。何かを描きたくなった訳でもなく、なんでもいいから描きたくなったのだ。この数日ひたすら筆を走らせた。数日経った今でも何を描くのか決まっていない。そう、自分でも何を書いているのかわからなかった。ただ描きたいだけなのだ。

それから数日して絵は完成し、男は死んだように眠った。
ひとりの女性がキャンパスからその男を見つめていた。



「この人は誰なんだ。」独り言を呟いた。
どれほど眠っていたのか、ふと目覚めると絵の中の女性がこちらを見つめている。
全く記憶にない女性は三十歳前後といったところだった。大きな瞳に小さな唇。ツヤのある髪が肩まで伸びていた。
「タイプといえばタイプだけど・・・。」また独り言を呟いた。
しかし、自分にしては上出来だった。これまで描いた絵の中でも一番の出来だと言っていい。むしろ自分が描いたことが不思議に思える出来だ。売ったら売れるかな・・・ふと、そんなことを考えた。
「売っちゃダメよ」声がした。
あたりを見渡した。誰もいない。まさかと思い絵を覗き込んだ。
「ん?」
気のせいか表情が違うような。そんな気がした。
「何日も寝てなかったから少しおかしくなったかな。飯でも食いに行くか」
男はそう言って出かける支度を整え玄関に向かった。
「いってきます、なんてね」男は冗談で絵に話しかけ扉を閉めた。

「いってらっしゃい」
誰もいない部屋の中で女性の声が静かに響いた。


「テン、テンはいるかぁ」
私はテンを呼んだ。襖の向こうから猫になったテンがひょっこり顔を出した。
「絵なら完成したぞ」
「そうか、それならいい」
「まったく面倒な役を押し付けやがって、一週間も男を操ってたんだぞ」
「わかったわかった、今度おいしいものをご馳走してやるからむくれるなよ」
私はそう言って家を出た。


「だぁ~れだぁ」
そう聞こえると同時に目の前が真っ暗になった。
「白石あかね、だろ?」
「ぶぅ、、、」
そう言って白石あかねは手を離しむくれている。
「超、ノリ悪い」
「はいはい、それで、合格する方法は調べたのか」
あかねはまだむくれているが少し機嫌をなおし、
「ある程度はね」と言いながら少し自信がありますという顔をしていた。

「では、調べてきたことを聞こうか」
私と白石あかねは公園のベンチへ座り話し始めた。
「とりあえずいろんな人に聞いてみたんだけど・・・誰に聞いても「どうしたの?」って言うだけで教えてくれなかった。」
「それで?」
「自分で本屋さんに行っていろんな本読んでみた」
「それから」
「さっぱりわからなかった」
「だろうな」
「だろうなって、結構頑張ったんだよ」
そう言うとまた頬を膨らませている。
「いいから続けて」
「それからどうしていいかわからなくて、、、だったら合格した人に聞けばいいと思って東大まで行ってきた」
私は黙って彼女の話に耳を傾けた。
「門の前で学生らしい人が出てくるのを待って話しかけてみた。「どうしたら合格できますかって」そしたらいろいろ教えてくれたよ」
「なるほど、、、でなんだって?」
「今の自分の学力ではまったく自信がないって言ったら「いい先生を選ぶことが第一」だって。ほかにもいろいろ何とかっていう参考書がいいとか言ってたけど忘れた」
「メモとらなかったのか?」
「うん」
「うんじゃない、、、フゥまぁとりあえずそこまではいい結果のようだな。で?」
「先生紹介して!」
「はいはい、そう言うと思って先生を持ってきたよ」
「持ってきた?」
私は風呂敷に包んである大きな絵を彼女に渡した。
「なにこれ? 絵じゃない」
「話しかけてごらん」
「なに言ってるの?」
あかねが戸惑っていると
「東大に合格したいって言っているアホはおまえかい」絵があかねに話しかけた。
「絵がしゃべった!」
「どう? これが今日からキミの先生だ」
「どうって、、、?」
さすがの彼女も目を見開いて呆然としていた。


「ねぇ、陽介おじさんって何者なの?」
机の横に絵を置いてあかねは絵に話しかけた。
「さあね、こんなことをしてるんだから魔法使いか何かじゃないのかい。わたしだっていい迷惑さ。あの世でゆっくりしてたのに」
「あの世って?」
「私は三年前に交通事故であの世に行ったんだ」
「幽霊ってこと、、、?」
「だから知らないって。突然呼び出されて、あんたを東大に合格させろって言われただけなんだから。まぁ、生きてた頃、さんざん悪さをして地獄一歩手前のところだったから、、、あんたを合格させたら天国にいけるっていうからいいけどさぁ」
「なるほどねぇ、、、」
「なるほどじゃない、あんたが合格しないとどんな目に合わされるか・・・、早速はじめるよ、買ってくる教材を言うからメモとりな」
「ちょっちょっと待って、、、その前に・・・あなたは誰なの?」
「心配するな、何百人も東大合格者を出してきたから、私にかかればあんただって合格させてみせるよ」
「予備校の先生だったってこと?」
「まぁ、そんなとこだ、いいからメモの用意!」
「は、はい!」
あかねは絵の先生が言う通りにメモをとり、そして本を買いに出かけた。





































    こども法案



「テン、テンはどこだぁ」
いつもは私が呼ぶと、どこからともなくテンが顔を出すのだが、今回は違った。
「まったく、監視役じゃないのか」
私は少し苛立ったが、テンといることが自然になっている自分に気づいてさらに苛立った。
リビングからはテレビの音が聞こえてくる。
「たまには人間のテレビでも見るか」
無造作にソファに座り、昼のニュース番組を見ることにした。テレビでは芸能人の不倫や地球の反対側で起こったテロのニュースを流していた。
「この人間たちは自分の発言がどのような影響を及ぼしていくか、まったくわかっていない」
テレビのキャスターやコメンテーターがしゃべるたびに私は独り言を呟きながら、ため息をついた。言葉はコミュニケーションの道具として進化してきた。だが進化の途中なのだ。人間は言葉などではなく、もっと深いところでつながっている。この報道というものも人間の言葉と科学が生み出した文化と言えるものではあるが、人間のもっている能力とのバランスがとれていないことが問題なのだ。人間は誰もが「知る権利がある」と信じているが本当にそうだろうか。知っても理解できない領域のものが存在することも理解できず、彼らが知っていると思っている情報は国家というレベルで考えればごく一部のものに過ぎない。テレビという限られた時間の中で流されている情報も偏ったものにならざるを得ない。それを視聴する側は「知る権利」、流す側は「報道の自由」というきれいな言葉を乱用し自分たちを満足させ正当化している。人間が言葉と社会を深いところでコントロールできるようになる前に技術の進化が先に行ってしまったよい例でもある。人間は原子力の危険性については盛んに議論しているようだが、言葉の不十分さからくる危険性については置き去りにしている。不完全さを認識することによって生命は進化を遂げるのだが、現代においては技術の不完全さにばかりフォーカスがあたり、人間そのものの不完全さには光があたらない。
「いっそのこと絶滅させていちから進化させた方が早いのか」
そんなことを考えていた時、ひとつのニュースが私の興味をかき立てた。
「たった今入ったニュースです。最近注目されていた特別法案が可決されたとのことです」
「ほう」そう言って私はテレビを見つめた。
「これで多くの子供達が救われますね」またコメンテーターが適当なことを言っている。
どうやら子供を体罰から守る法律のようだ。子供に体罰を行った場合、傷害罪よりも重い罪になるそうだ。
「これから親が子供を躾ける時が難しくなりますね」誰が考えてもわかるようなことをそれらしくコメントしている。
低レベルなテレビタレントは置いておいて、この人間界も少しずつ法の限界に気付きはじめるようだ。法は社会性を維持するために言葉が進化しつくられたものだ。つまり、言葉が不完全である以上、法も不完全になる。今の人間界はこの「不完全な法」をすべての拠り所としている。特にこの日本という社会はその傾向が強い。
「この法案に関わった人間の思考をサーチする必要があるな」
私はそう言ってテレビを消し、家を出た。


家を出た時、テンの魂を感じることができた。どうやら公園で誰かに会っているらしい。人間ではない誰かだが、ここからではよくわからない。
「まぁ、監視の報告でもしているのだろう」
そう思い、私は放っておくことにした。
外の日差しは幾分暖かくなってきているようだが、風はまだ冷たかった。
私は夜になるのを待つため線路沿いを散歩することにした。時間を飛ばし一瞬で夜にすることもできるが急ぐ理由はなかった。
線路沿いを歩いていると数日前に絵美と話した場所に差し掛かった。あの時の魂の残り香のような空気を感じた。この体を私が選んだわけではないが彼女との出会いはとても良いものになっている。
これまでのケースでいうならば神の存在を目の当たりにした人間は「恐怖」か「利用」のどちらかに分類される感情を抱く。自分には想像すらできない力をもった生物への恐怖。これはまだ言葉が進化し始めている時代の反応に多かった。ある程度進化し、社会というものが構成されていく頃には神の力を何かに利用できないかと考える。もちろん、恐怖もあるためストレートに私たちを利用する態度は示さないが。しかし、利用と言っても殆どすべてのものが「生きる」ことがテーマになっている。金持ちになりたい、歳をとりたくない、健康でいたいなどである。しかし絵美はまったく違う「願い」を私にぶつけてきた。
私は「何のためにそのようなことを考える?」と問い返したが絵美は微笑むだけで答えようとはしなかった。とても不思議な気持ちにさせられたことをこの線路沿いの道は思い出させた。

しばらく歩くと団地と呼ばれる大きな建物が立ち並ぶ場所に着いた。十階建てぐらいはある建物が十数棟、その威圧感で私を迎えた。時代とともに変化していく住環境にも私は強い興味を持っていた。これまでの時代も貧富の差はあり、小さな家に暮らし貧しい生活を強いられている人間は「いつかこの暮らしから抜け出してやる」と考えているケースが多かった。しかし、この時代に住む人間からはあまり感じられない。貧富の差を受け止めているのか、諦めているのか、希望が持てないでいるのか、そのあたりをサーチしてみたくなった。

「あのぉ、、、」買い物帰りであろう女性に声をかけた。私は彼女の魂を少し刺激することによって私に興味を惹かせ、ベンチに座らせた。歳は四十前後で中学生になる男の子と小学生の女の子の母親であることがわかった。
「ここの住まいは快適ですか?」私が尋ねると
「快適?まさかぁ仕方ないから住んでるのよ」と、これから愚痴が始まりますという空気を醸し出していた。
「だんなの稼ぎが少ないから家賃が安いここに住んでるの。稼ぎは増えない、子供は大きくなって出費がかさむ、いいことなんてなんにもありゃしない」
そう言うと彼女は堰を切ったように続けた。
「私だって若い頃はこんな生活なんて考えてもみなかった。いちおうそれなりの大学も出てるし昔は多少もてたから、、、男選びに失敗したのね」彼女は苦笑した。
そのあとも彼女は延々と愚痴をこぼしていったが、悲壮感はまったくなかった。むしろ言葉では「満足してない」と言うものの魂は「幸せです」と言っているようだった。話を聞いている途中でなぐさめるように彼女の手に触れサーチしてみたが、やはり楽しそうな生活の記憶が私を包んだ。配偶者もまじめな人間で自分だけを愛してくれている、子供も優秀とは言えないが誕生日には必ず家族全員でお祝いしてくれる、そういった優しい暖かな家庭の空気に満たされているようだった。お金のほうは本当に日々の生活でいっぱいという中で、彼女はいきいきと生活しているように感じた。
「やはりこの時代にはこれまでにない進化が現れているのかもしれない」
私はふと足元を這っているアリたちに目を向けた。
「おまえたちはいつも変わらないな」そう話しかけ、ベンチを離れた。

テンが私に気づき遠くの方から近づいてきているのを感じた。私は昼間見た新法案に深く関わったとされる大学の名誉教授がこの近くに住んでいることを知り、その男の自宅へ向かっていた。数百メートル先からテンの声がしていたが無視して歩き続けた。

自宅へ着くとテンが「またサーチか?」と尋ねてきた。
私はテンの顔は見たが答えることなく呼び鈴を押した。家の中から女性の声がした。
「東方新聞社のものです。柳田先生はご在宅でしょうか。新法案について少しお話をお聞きしたいのですが、、、」とだけ伝えた。
しばらくすると七十は軽く超えている老人が出てきた。
「昼間、きみたちの質問には散々答えたはずだが」
男は少し不機嫌そうに私に話しかけた。
「法の限界について、もう少しお話をお聞かせいただきたいのですが」私がそう言うと
「ほう、面白いテーマだな」そう言って中に上がるように勧めた。
私(我々)は彼の書斎に通され、私はソファに座るように促された。
「お忙しいところ恐れ入ります。今回の法案は先生の本意ではないような気がしてお邪魔させていただいた次第です」私はそう切り出した。
「若いのにユニークな着眼点をお持ちのようだ。たしかに今回の法案については思うところがある」彼はそう言うと配偶者らしき女性にお茶を持ってくるように目配せした。
「キミはどうしてそう思ったんだ」
「先生は親だけではなく社会が子供を守らなければならないという見識をお持ちのようですが、それは法によるものではなく何か違った形のように思えてなりません」
「その通り、法は絶対的なものではない。この世に善悪など簡単に測れるものなど存在しない。あれば教えてほしいね」そう言ってシワのある目尻をゆるませた。
「法の世界においては第一人者である先生のお言葉とは思えませんが」
「法の世界に長年身を置いてきたからこそ法の不完全さを誰よりも知っている。違うかね?」
「なるほど、そうかもしれません」
「キミは執行猶予というものを知っているだろう?」
「はい」
「執行猶予とはなんだ? 法に照らし合わせ有罪となったものを通常の生活に戻す。おかしな仕組みだと思わないか? でもこの社会においては大切なことなんだ」
「法で一旦は白黒つけるが、その結論は必ずしも現状にあっているものとは限らないということでしょうか」
「そう、その通り。法の役割は罪は罪として償わせるという側面と、もうひとつ忘れてはいけないのが社会秩序の維持なのだよ。二度と同じ過ちを繰り返さないと思われる犯罪者を他の犯罪者と同じように扱っていい訳はない。つまりケースバイケースというやつだな。このような曖昧さがあってはじめて法は社会に順応し機能する」
「よくわかります」
「今回の法案は政府からの強い要望があり、原案を私のほうで作成した。しかし、私が強く主張したのはまさに法の限界を補うしくみづくりだったのさ」
「それはなんですか?」
「残念ながら私には答えがなかった。だから法案だけが一人歩きし今日可決された。」
「そういう経緯があったのですね」
「若いキミの意見を聞かせてもらえないか。この法案、いや可決されたのだから法だな。この法の不完全さを埋める方法は何かないかね」
「私は不完全さをあまり気になさらなくていいと思います。転ばぬ先の杖など、気づいていない人間からしてみるとただの棒ですので」
「なるほど、ではキミは社会が混乱し、そこから何か答えが出てくると言いたいのだな」
「はい、いつの時代も失敗をし、そこから学ぶことで人間は進化してきました。ただ、今回の件については懸念するところがないわけではありません」
「なんだね?」
「問題に気づくのに時間がかかりすぎるという点です」
「たしかに目に見える混乱はすぐに現れるだろう。しかし、本当の意味での問題はこの法の中で育った子供が大きくならないと現れてこないな」
「その通りです。それには数十年必要になります。数十年の間、この法の中で生活してきた人間はその中に染まりさらに問題発見が遅れます。もしかすると気づくのは百年先になるかもしれません」
「キミの見解は非常に興味深いな」彼はそう言うとタバコに火をつけ、天井を見上げた。
私は私の考えをこの老人にぶつけてみることにした。
「人間社会というのはバランスが大切だと思っています。心と技術のバランス、個性と社会性のバランス、国家間においてもバランスを失えば戦争になる。バランスを保つためには人間が問題を問題と捉え、バランスが崩れていることに気づかなければなりません。右に偏ったらバランスを維持するために左に重心を傾けるようにです」
「続けて、、、」
「まず問題視しなければならないのは言葉の不完全さではないでしょうか。言葉はまだまだ進化の途中にあります。言葉でしか表現できない法はさらに不完全と言えるでしょう」
「で、それを補う方法は?」
「時間しかないと思っています。時間をかけながら人間の進化を待つしか方法はないように思えます」
「私は生物学者ではないがキミの言いたいことはわかる気がする。しかし、人間とはそのような進化を遂げられるものだろうか」
私は「そのために神である我々が存在しているのではないか」と言いたかったがそれはまたの機会にすることにした。そのあともこの老人と意見を交わし有意義な時間を過ごすことができた。
最後に「今日の会見には来ていたのかい?見ない顔だが」と言われ、
「すみません、新聞社というのは嘘です。ただの法に関心のある若者だと思ってください」と伝えると老人は陽気に笑ってみせた。

教授の家を後にした我々は自宅へ帰る途中、
「テン、あの老人にはしばらく生きていてもらっていたほうが良さそうだ。彼に事故など起きないように気をつけてあげてくれ」とテンに言った。
「はいはい」テンはそう言うと「また仕事が一つ増えた」とため息交じりの声を吐いた。


家に帰ると、驚きの顔がそこにあった。
白石あかねだ。
「何度も電話したんだよ、全然つかまらないから来ちゃった!」そう言うとまた頬を膨らませている。リビングの向こうにいる母親の視線が熱かった。
あかねを自分の部屋に連れて行くと母親が顔を出し、「ゆっくりしていってね」と言ってお茶と茶菓子を置いていった。

白石あかねは私の目をじっと見つめている。
「私ね、本気で東大を目指したいと思ったの。でもね、陽介おじさんがなんで東大に行けって言ったのかそれがどうしても気になって、、、。」
「なるほど」
私は大きなため息をついて自分の考えを彼女に話すことにした。真の目的は隠したまま。
「キミに人生の選択肢を増やしてもらいたいんだよ」
「人生の選択肢?」
「そう。私はキミの人生を買った。でも今のキミは何に対しても自信がなく自分の将来のことを真剣には考えていなかった。いいかい、まずは考えることが大切なんだ。何が正解なんて誰にもわからない(神にもわからないんだと言いたいところだが)。正解を探すのではなく、自分がどうしたいのかを考えるんだ。考えて考えて、本気で考えた先に道は見えてくる。その経験をしてほしかったんだよ」
「人生を考える、、、?」
「そのためにはできるだけ多くの選択肢をもたなければならない。自分にはできるという自信と社会から認めてもらえる証が必要なんだ」
「つまり東大に合格して人生のスタートラインにつけってこと? すべてはそれからだってこと?」
「ご名答、そういうことさ」
「わかった、今は何も考えずにスタートラインに立つことだけ考えるようにする。でも、、、なんで私にそこまでしてくれるの、、、? 好きになっちゃった?」
「はいはい、じゃぁそういうことにしておこう」
「なによそれ」
白石あかねはまた頬を膨らませて私を睨んだ。
「人が人に惹かれるのは恋愛とは限らない。私がキミに惹かれたのは事実だ」
「わかったようなわかんないような話だけど、、、まぁいいや。少しスッキリした」
そう言うと部屋を出て母親に挨拶し白石あかねは帰っていった。

その夜、母親は珍客については何もふれなかった。気を使っているのだろう。母親の存在が愛おしくも面倒な存在であることがまた少しわかった気がした。










   神に仕えるもの



目覚めるともう母親の姿はなかった。テーブルの上には「あたためて食べなさい」という置手紙があった。テンがコタツの隅から顔を出した。
「今日はいい天気だぞ」
「ああ」私はそう言いながら母親がつくっておいてくれた朝ごはんをレンジにかけた。
「今夜ちょっと用があってオレはいないけどいいか」
「いつオレがそばにいてくれと頼んだ。監視はいいのか」
「ああヤボ用でね」
私は朝食を済ませ今日はいつもとは違う側の町を散策してみることにした。

駅の反対側へ出て、少し歩くと田畑が広がる光景が目に入ってきた。
「コンクリートに囲まれた都会というものはまだ慣れないな」と呟きながら新鮮な空気を思いっきり吸い込んだ。
「やはり我々にとってもこういう空気が一番だな」そう言うとテンも大きな深呼吸をしてみせた。

「ん?」
私が立ち止まるとテンが私の視線を追うかのように顔を動かした。
「神社かぁ、行ってみるか」
「おいおい、ここは本物の神様の場所だぞ」テンが諭すように私に言った。
私はチラッとテンを睨み「なにか面白い魂の気配を感じる」とテンに告げた。
私が鳥居をくぐろうとした時「そこは神様が通るところだから人間であるおまえは隅を通るべきだな」とテンが言った。私はもう一度テンを睨んだ。

鳥居をくぐり、階段を登ると数百年は経っていると感じるほど厳かな雰囲気に包まれた社が我々を迎えた。私が感じた魂は社の横にある焚き火の近くにいた。
「あなた様は、、、」神主であろうその男は私を見つけるなり掃いていたホウキを放り出しその場に膝まづいた。
「私がわかりますか?」
「はい、神様。私共は代々あなたさまにお仕えしております。わからぬはずがございません」そう言うと深々と頭を下げた。
「すまん、事情があって今は人間の姿をしている。人に見られると面倒なので立ってくれぬか」私は彼の手を取り立つように促した。彼は年齢こそ私と変わらぬくらいのものであったが魂は随分と磨かれているように感じた。
「ここの神主ですか?」
「はい、左様でございます」
「この社は古そうですね?」
「はい、四百年と伝わっております」
「たまたま近くを通りかかり、あなたの面白い魂を感じたので寄ってみました」
「私の魂でございますか、、、」彼は急な出来事に困惑しているようだった。まぁ、無理もないだろうが。
「少し話を聞かせてもらえますか?」
「私でよろしければもちろんでございます」彼はそう言うと社のほうへ案内しようとした。
「申し訳ないですが、あそこは窮屈なので」
私は参拝客が腰を下ろすであろう小さなベンチのほうを見て彼を促した。
私がベンチに座るとテンのほうを見て、手で「こちらへ」というしぐさをした。
私たちが座った後も彼は直立不動のまま立っていた。
「あなたもこちらへ腰掛けていただけますか、落ち着いて話ができないので」と、私が座るよう促すと「失礼いたします」と小さな言葉を言い彼も腰掛けた。
「突然で驚かれたでしょう、私は人間の体を借りて修行中の身です」と話しはじめた。
「ずっとお会いしたいと思っておりましたが、正直申し上げて戸惑っております。この家に生まれ、ずっと神様に仕えるように教えられて育ちました。しかし私には神様がどのような存在でどのようなお方なのかまったくわかりませんでした。古い文献も随分と読みましたがまったく実感がわきませんでした。そして今、私の目の前にそのお方がおられる。何をどう話したら良いのか途方に暮れております」
「驚かせて申し訳ないな」
「いえ、とんでもございません。失礼ながらもし願いが叶うならばずっとお話ししてみたいと思っておりましたので」
「どんな話をしてみたかったのですか?」
「それは、、、」
「今の私は人間としてここに存在しています。お気遣いなく、、、」そう彼を促した。
「私は子どもの頃から神はなぜ我々を救ってくれないのかと思っておりました。この社は何のためにあるのかと、、、すみません、失礼を申し上げて」
「いえいえ、ぜひ聞かせてください」
「はい、、、町の外れの社ですが、様々な方がお参りに来てくれています。中には本当に苦しんでいる方もいらっしゃいます。子どもさんが交通事故に遭い何とか助けてほしいという方もおられました。父親の会社が倒産しそうで父を助けてほしいと御百度参りをされていた方もいらっしゃいました。でもその子はなくなり、会社は倒産しお父様は自ら命を絶ったそうです。もちろん、神様を恨む気持ちなど毛頭ございません。しかし、自分の無力さに苛まれ何のためにお仕えしているのかわからなくなってしまう時がございます」
「あなたは素晴らしい魂をおもちのようだ」
「私がでしょうか、、、神様に向かって失礼なことを申し上げてしまいましたのに、、、」
彼はそう言うと少し目を伏せながら私との時間を共有した。
「もしよろしければいくつか質問しても構いませんか」
私は頷きながら微笑んで見せた。
「私はこの世の役に立っているのでしょうか」
「申し訳ないが、その答えはあなたがこの世を去る時にわかるはずです。今は考える必要はないことですよ。何ができるかではなく、何をしてあげたいのかを考えてください」
私の言葉を聞き、彼はまっすぐに私の目を見て、そして顔を下ろし一点を見つめた。
「人間にできることなんて、そんなに大きくない、、、そういう意味でしょうか」
「私の手の上にあなたの手を重ねてみてください」
彼は少し戸惑いを見せたが私の言う通りにしてみせた。私は彼が話した方々の心を少し彼に感じさせた。彼は大きな涙をこぼしはじめた。
「私は役に立っているのですね」そう言うと彼はさらに大粒の涙を流した。
「そうです、神ではなくあなたの存在が彼らの支えとなっているのです。子どもを亡くされたご両親にあなたは優しく寄り添い、そしてあなたの言葉が彼らの支えになっています。父親を亡くした女性も同様にあなたのおかげで前を向いて歩いています。人間を支え、救えるのは人間なのです」
彼は長年の重き荷を下ろせたかのような表情になっていた。
「あなたは神と向き合うことによってあなた自身を磨いていってください。あなたには素晴らしい魂が宿っていますから」
「ありがとうございます、、、」そう言うと彼は涙を拭きながら遠くを見つめていた。

「もうひとつお尋ねしても、、、?」
私は大きく頷いた。
「神様は今のこの世をどのように見ておられますか?」
「人間界がこれまで感じたことがない複雑な時代になっていると思います」
「複雑ですか、、、?」
「そうです、少し前まではお腹いっぱい食べたい、いい生活がしたいと人々の悩みや希望はひとつの方向性をもっていました。しかし今の世は何で困っているのか本人でもわからない時代になっています。何から逃れたいのか、どうなりたいのか、人は問題が明確であればそれに立ち向かう力をもっていますが、何と戦えばいいのかわからない、そんな複雑な時代に入っているように感じます」
「その複雑な世を救うために、、、?」
「いえ、先ほどもお話ししたように私は修行中の身です。神の我々にしても未来のことを明確に見ることはできません。未来とは日々の営みが積み重なってできる集合体のようなものです。一見小さな出来事でも、その積み重ねにより流れが生まれ結果として未来が構成されていくものです」
「この世を導くため、今のこの世を知る。そのために修行をされているということなのでしょうか?」
「神がすべてを導くというものではありませんが、簡単に言うとその通りです」
そのあとも彼の質問に私はいくつか答えた。
彼は私が質問に答えるたびに大きく頷き、そして遠くを見つめた。
数十分の時間を一緒に過ごし私が去ろうとした時、彼が発した言葉は私を驚かせた。
「神様、ところでクラス会は出席されるのですか?」
私が驚いていると、
「陽介とは同級生なので、、、」と彼は言った。
「それを早く言いなさい」私は彼を睨みつけた。

彼の名前は田中英嗣、私とは同級生らしい。絵美のことも無論良く知っていた。私は彼と別れる際に「ではクラス会で会いましょう」という挨拶を交わした。

「オレが見える人間がいるんだな」テンが呟いた。
人間界でいう霊感の類ぐらいではテンを見ることも私を感じることもできはしない。
「やはり特別な魂を宿している人間のようだな、もしかしたら、、、」

私とテンは不思議な感覚に包まれながら神社を後にし、さらに町から外れていく道をあてもなく歩いた。






























   神を志すもの



その老人はベッドの脇の椅子に腰掛け途方に暮れていた。
今朝、銀行から電話があり融資を断られたのだ。
「どうしたものか、、、」老人は文字通り頭を抱えていた。
夫婦二人で農家を営んでいたが妻の膝が悪くなり、農業の方はこの老人一人できりもりしていた。農作業の機材も自分と一緒に歳をとり、このままでは唯一の収入源である農業を続けることができなかった。銀行はなんだかんだと綺麗な理由を言っていたが「年寄りに金を貸すリスクを背負いたくない」というのが見え見えだった。
「あなた、私がこんな体になったばかりにごめんなさい」ベッドで横になっている妻がぼそりと言った。
「おまえのせいじゃない」老人はそう言うと、部屋を出て庭の空気を吸いに表へ出た。

私と目があっても老人は誰もいないかのように遠くをずっと見つめているだけだった。

「テン、あの老夫婦のことを絵美に任せてみようか?」
テンは驚いて私を見つめている。
「おれはどうなっても知らないからな」
テンはそう言うとそれ以上は何も言わなかった。


「絵美、神様見習いの初仕事だ」
私は先日見かけた老夫婦のことを絵美に話した。
「で、わたしはどうすればいいの?」
「それを考えるんだよ。神の力をつかって何かをしてあげてもいい。何もしなくてもいい。考えてごらん」
「わかった、とりあえずその老夫婦に会ってみる」
絵美はそう言うと急いでその場を後にした。

テンが心配そうな顔で私を見つめている。
「いくら何でもやりすぎじゃないか。普通の人間を神様見習いにするなんて。力は俺たち天使と同じ。彼女の魂がそれほど成熟しているようには思えないぞ」
「だからいいんだよ。成熟してはいないが透き通った心を持つている。我々には想像もつかないことをするかもしれないぞ」
「まったく、、、彼女が神様になりたいって言ったとき、おまえの面白いものを見つけたみたいな感覚には驚かされたよ」
「そうか、おれは人間の進化を素直に感じただけだ。恐怖でも利用でもない反応こそが、現代の人間には神は意外と近い存在なのかもしれないということを証明しているのかもしれない。それを試してみたくなっただけだ」
「試してダメだったら、、、?」
「彼女なら大丈夫だよ、おまえが見守ってあげれば」
「おれかぁ!」
「天使の先輩として手伝ってやってくれよ」
「もっと言葉が進化していたらおれのこの気持ちをおまえにぶつけてやりたいけど、いい言葉が出てこない」
「じゃあ、千年後に今の気持ちを聞かせてもらうよ」
私は手で絵美を追いかけろとテンに促した。


テンが絵美に追いつくと絵美が駆け寄ってきた。
「テンちゃん、どうしよう。どうしたらいいかまったくわからない」
「ひとついいかな。こんな格好をしてるけど一応年上なんだぞ」
「えっテンちゃんて何歳?」
「軽く一万歳は超えてる」
「本当? 超年上じゃん」
「だからテンちゃんはやめてくれないか」
「テンちゃん、そんなことより私どうしたらいいのかな」
「・・・・・・」
「どいつもこいつも」とテンが嘆く声は絵美には届いていないようだった。
「ねぇ、テンちゃんてばぁ」
「はいはい、まずは彼らの心の声を聞いてみたら?すべてはそれからだよ」
「どうやって?」
「目を閉じて深呼吸して」
「こう?」
絵美はテンの言う通りにした。
「自分の心をあの老夫婦にリンクさせるんだ。頭で考えちゃダメだよ。魂で感じるんだ」
「うん、やってみる」
絵美は難しそうな顔をしながら、老夫婦の心に近づいた。それはこれまでに感じたことがない不思議な感覚だった。
「人の心ってこんなに複雑に入り組んでいるんだ。澄んでいる部分もあれば濁ったところもあって深い霧の中を歩いているみたい」
「そう、人間の心は単純ではないんだよ。だから簡単に助けてあげるとか見捨てるなんてできない。何が正しいかなんて俺たちにだってわからないんだ」
絵美はまだ難しい顔をして魂の会話を続けていた。
「ねぇ、陽介たちはいつもこんな大変なことしてるの?」
「ああ、人間が考えているほど神様ってものは楽じゃないんだよ。人間は綺麗な心ばかりじゃないからな。嫉妬や憎悪、自尊心から来る他者を陥れようとする心だって、ほとんどの人間が多かれ少なかれ持っている。正直、見たくなかった心の方が多かったかな」
「そうなんだぁ、大変だね」
そう言うとだいぶ慣れてきたらしく、老夫婦の心をゆっくりと感じることができているようだった。
「ごめんテンちゃん、少し休憩していい」
「はじめてだからな、疲れるだろ」
「うん、疲れるのもそうだけど私の心も落ち着かなくて。人の心を覗くのって自分の心も安定させておかないといけないんだね。私にはまだ難しいみたい」
テンは驚いていた。はじめての体験に興奮してくると思っていた絵美の反応が自分が思っていたものと違ったからである。
「陽介の魂を見る目はさすがなのかもしれない」ふとそう思った。

「テンちゃん、これって離れててもできるの?」
「慣れてくればね。陽介たちは相当遠くにいる人間の魂も感じられるらしいけど、天使は全能ではないからね。せいぜい数キロくらいのレベルだね」
「そうなんだ。私もできるようになるかな?」
テンは陽介の言葉を思い出した。
「絵美なら大丈夫だよ」テンはそう絵美に告げた。

それから短い時間に区切って何度も老夫婦の心を感じる努力をし、少しずつではあるがわかってきたような気がしていた。
「テンちゃん?」
「ん?」
「私、涙が出てきちゃった。人にはいろいろなことがあるんだね。私はまだ二十年ちょっとしか生きてないからわからないけど、嬉しいことも悲しいこともたくさんあって、それでもみんな生きていくんだね」
テンは何も言わず、ただ頷くだけだった。
しばらくして「今日はこのくらいにしておきなよ」とテンが言った。絵美も静かに頷いた。
「絵美、ひとつ約束してほしいんだ」
「なに?」
「陽介からもらった力を自分の大切な人のためにつかわないって」
「わかった。テンちゃんがそう言うならそうするけど、どうして?」
「絵美が傷つくことになるからさ。大切な人のことになると冷静な判断ができないだろ。そういうときは俺に相談してくれ」
「うん、ありがとう、そうする」
テンも素直でまっすぐな魂を持っている絵美のことが少し好きになってきていた。


絵美とはじめて会った喫茶店で私はコーヒーを飲みながら、通りを行き交う人々を眺めていた。母親に手を引かれこの世界全てが楽しくて仕方ないという顔をしている子供や、下を向きながら肩を落として歩いている会社員の男性、大きな荷物を抱え自分の店に急ぐ経営者らしき年配の女性など様々な人が私の前を通り過ぎて行った。
しばらくその様子を見ていると遠くの方から絵美とテンがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

「はじめての経験でしたね」
私は優しく絵美に話しかけた。
「ウン、今でも心がザワザワして落ち着かない」
「無理もありませんね、自分が経験したこともない経験を他の人間の心を通じて経験しているのですから」
「でもテンちゃんがいてくれたから、、、なんとか」
「そうですか、疲れたでしょ?」
「今までに感じたことがない疲れが胸の奥あたりを締め付けてる」
私は何も言わず絵美の話に耳を傾けた。
「人の心がこんなに素晴らしいとは知らなかった」
「ほう?」
「これまでの私は頭で考え、理性で物事を処理しているつもりだった。でも違った。頭なんて物事の一部分しか捉えていない。人はもっと複雑で深い感覚の中で生きているということがわかった気がする」
「初日とは思えない収穫だね」
「フゥ、陽介やテンちゃんとの距離がとても怖く感じるよ」
「怖い?」
「自分との歴然とした差がね。見た目は相変わらず陽介だから、今でもあの頃の陽介と一緒にいる感覚になるときがあるけど、全然違う世界の存在なんだって今更気付かされた感じがする」
「何も違いはしないさ、経験の差だけ」
「そうなのかな、、、?」
「人は問題意識とそれに立ち向かった経験を糧に成長し進化していくものなんだ。それは神である我々も同じなんだよ」
「ねぇ、陽介も悩んだり迷ったりしたの?」
「あたりまえだよ、同じさ」
「そっかぁ、今でも?」
「もちろん、だからこうやって修行しているんだ。時代とともに人間も変化していく。その変化とともに生きていく感覚が大切なんだ。神がすべてを支配しているというのは傲慢な考え方だからね」
「でも、神様って人の運命を決められるんだよね。場合によっては死さえコントロールできる、、、」
「そうだね、だからこそなんだよ。人間だって同じさ。力を持ったものは途方もない孤独感と責任の重さを感じる。会社の社長や国の大統領なんかもね。その立場にない人は自分で全てを決めることができるという一点のみにフォーカスして羨ましがったりしているようだけど」
「私もその一人だね。テレビで偉そうに演説している政治家や企業家なんかを見て羨ましいって思ってた。なりたいとは思わなかったけど、、、」

私は少し我々が住む世界のことを絵美に聞かせることにした。
「絵美、神と宗教の違いを知ってるかい?」
「え? 神と宗教って違うの?」
「神教って聞いたことあるかい? ないでしょ。神道って言うんだよ」
「へぇ、知らなかった」
「宗教はほとんどの場合、神から啓示を授かったとする人間が創始者となって、人々に神の教えを伝えていくものなんだ。つまり、キリスト教なら「聖書」、イスラム教なら「コーラン」というように多くの宗教には聖典や経典があって「神から教えを乞う」という形態になっている。しかし、神道は違うんだ。教えもなければ経典もない。だから神教ではなく神道というんだ」
絵美は黙ったまま、私の話に聞き入っている。

「いいかい、教えるのではなく道を示すんだ。場合によっては導く必要もある。しかし、主役は神ではなく人間だということを忘れてはいけない。共に歩むことが大切なんだ」
「共に歩む、、、」
「そう、私たちは上から見下ろす立場ではない。もちろん、その時代に応じて我々が耳打ちしたものを経典としてまとめている宗教がほとんどだが、それは神の考えをもとに人間が人間を教える形として成立している。神である我々がこの人間界とどう関わるべきなのか、それは見守り「共に歩む」ということなんだ」
「神様って絶対の存在で偉いと思ってた」
「そう、その考え方が今キミを苦しめているんだ。神になるんだからしっかりしなきゃ、すべてを見通せる力を持たなきゃいけない、、、そんなことばかり考えているでしょ。そもそも人間から見たら神が本当にいるかどうかですら曖昧なんだよ」
「確かにそうね。小さい頃から新年になると神社に初詣に行ったりしたけど、具体的に「神の教え」なんてものを教わったことなかったかも。自然に神様が見守ってくれている感じがしてた」
「そう、間違った行いをしたらバチが当たる、だから行いを正さなきゃって感じさ。人間は神という存在を心の中につくり、自分の良心の物差しとしているんだ。だから我々は人間の心の中にいて、彼らの行いを見守ることが使命なんだ」
「見守るだけでいいの?」
「少なくとも今の絵美はそこからスタートでいいんだ。神は偉い、正しいなんて考えてたら見えるものも見えなくなってしまうよ。肩の力を抜いて人間というものを知ることからはじめてくれ」

「ありがとう、わかった」

「それと最後にもう一つ」
「なに?」
「絶対に一人で抱え込まないでほしい。なんでも私やテンを頼るようにするんだ。そうしなければ絵美の心が壊れてしまうことだってあり得るからね」
「わかった、、、テンちゃんと同じことを言うのね」
絵美はそう言って優しく微笑んだ。

絵美と別れた帰り道、テンはご機嫌だった。
「何かいいことあったのか?」
「いや、別に」テンはそう答えたが表情は明らかに違った。
「なぁ、絵美はいい神様になるよ」
「珍しく楽天的な意見だな」
そう言って私が立ち止まるとテンは、
「おれはいつだってお前の判断を信じてきた。今回も、、、」そのあとの言葉はよく聞き取れなかったがテンにも小さな変化が現れてきていることを私は強く感じることができた。

「おれだって、おまえを信じているさ」私は小さく呟いた。





「なぁ、ちょっといいか」
テンが母親の寝室を抜け出してやってきた。
「何か用か?」
「人間界に降りてから、おまえがどう感じているか聞かせろよ」
「随分、熱心な監視役だな」
「監視役として聞きたいんじゃない」
「はいはい、わかっていますよ」
私はそう言ってベッドの脇に座り話し始めた。
「そうだなぁ、この時代はこれまでとは大きく異なるところがあるな。これまでは「生きたい」ということがテーマになっていたけど、この時代はそうではない感じがする。まだ、完全に理解できた訳ではないけど「生きたいより逃れたい」という感じかな」
「何からだよ?」
「それは本人自身もわかっていないんだ。わかっていないから問題なのかもしれない。これまでは「腹いっぱい食べたい」「裕福な暮らしがしたい」という欲求が人間を動かしてきただろ。今の時代からそういった欲求はあまり感じない。人間は長い歴史の中でやっと飢餓から完全に抜け出すことに成功した。よほどのことがない限り空腹に苦しまされることはない。つまり、生物としては一線を超えたことになる。その先にある進化の形を不安視しているのかもしれない。無意識のうちに」
「先が見えなくなっているってことか?」
「先なんていつの時代も見えていないさ。見えていないんじゃなくて見たくないように感じるのさ。つまり、今が幸せで失うのが怖いという感じかな」
「確かに生物として人間を捉えれば、地球レベルの異変でも起きない限り種の保存は約束されている。名実ともに生物の頂点に立ってることも間違いない。いきついたものが味わう空虚感のようなものなのか?」
「それに近いのかもしれないな。それと技術の進化が先に行ってしまい消化不良に陥っている部分も否めないな。コミュニケーションという言葉を多用するようになっているしな。本来の形はコミュニケーションをとるために技術の進化が必要になっていたが、今は技術の進化に追いつくためにコミュニケーションが必要になっている。これでは消化不良に陥るのも無理はない」
「言葉の進化が遅れているってことだな」
「言葉だけじゃないが、大きな要素の一つではあるな。社会を構成するためには言葉の進化は必要不可欠だ。ただ、言葉に限る必要はないけどな」
「たとえば、、、」
「そうだな、感じる力とでも言うのかな。俺たちは言葉ではなく魂を感じ取る力を持っている。理屈ではなく感じるんだ。それこそがこの先にある進化の形なのかもしれない」
「人間が限りなく神に近づくってことか?」
「さぁ、それはわからないが、、、。そう意味でも絵美の反応はとても興味深い」
「そうだな、多少の葛藤はあったようだけど、我々の世界をすぐに受け入れたからな」
「そこなんだよ。なぜ彼女は受け入れられたのか、そこが知りたい。人間はお互いをみな同じ種別だと勘違いをしているが、神に近い人間と猿に近い人間がいるのは確かだ。そこに進化のヒントみたいなものがあると思っているのさ」
「しかし、偶然とはいえいい逸材を見つけたな」
「確かにそうだが、絵美だけが特別な人間とは思えないんだ。法の専門家である教授も団地で出会った女性も、他の人間からも絵美と同じような感覚を感じることができた」
「白石あかねもか?」
「あの子は、、、まぁ面白い人間ではあるが少し違うな。彼女自身がどのように変化していくかが見たくなったという感じだな」

「あまり深く関わるのはやめとけよ」
「はいはい、わかりましたよ。人間の進化を鈍化させる大きな要素が「あたりまえ」という考え方だ。あたりまえだと感じた瞬間、すべての思考回路が停止してしまう。物事は何でも捉え方考え方でまったく違ったものに見えてくる。それが思考の進化であり、問題点を見つけ出し改善していくことが成長でもある。おれは彼女のあたりまえをすべて壊していこうと思っているのさ。あたりまえを壊された人間がどう成長していくのか、面白いと思わないか」
「彼女を実験台にするなよ」
「もちろん、危険がない範囲内でやるさ」
「まったく、、、神の中でもおまえの柔軟さというか器のでかさは計り知れないからな」
「時を司るってのは大変なんだぞ」
「はいはい、わかっているつもりです」

ブーン、ブーン
陽介の携帯が揺れていた。のぞくと「ヒデ」と出ている。どうやら先日立ち寄った神主のようだった。
「はい」私は電話に出た。はじめての経験ではあったが。
「あのぉ、神様でいらっしゃいますか?」
「だからぁ、、、」
「す、すみません。陽介ですか?」
「OKです。何かあった?」
「本当に恐れ多いのですがご相談したいことがありまして、、、」
「・・・・・もう一度やりなおし」
「えっっと、相談したいことがあるんだけど時間ある?」
「了解。明日でいいなら寄らせてもらうよ」

彼にしてみれば神に長年仕えてきて、ここにきて突然「友達」と言われてもそう簡単には適応できないだろう。戸惑いながらも彼は会う約束だけして電話を切った。神と電話で話せる神主というのも面白い状況ではあるな、、、ふとそんなことを考えたりもした。
「そうだ、明日は絵美も連れて行こう」
テンが両手を広げて深いため息をついていた。


「どうした何かあった?」
私がヒデに声をかけると「なぜ絵美が?」という顔でこちらを見ていた。絵美は「久しぶり!」と何食わぬ顔でヒデに手を振った。
私は「絵美にはすべてを話ししてある」ということだけを伝えてベンチに腰かけた。絵美が神様見習いをしているなんてヒデが聞いたら話がややこしくなるので絵美にも口止めをしておいたのだ。
戸惑いながらもヒデは普通に振る舞う努力をしていた。
「この前、この社へ一組の親子が来たんだ」
ヒデが話しはじめた。
「子供さんは4歳になったばかりの女の子で」
「それで?」
「突然、目が見えなくなったらしいんだ」
「突然?」
絵美が話に割り込んできた。
「ああ、そうなんだよ。医者に行っても原因不明で治療法すら見当がつかないと言われ、何かよからぬものが取り憑いたのではないかと考えてここにきたんだ」
「なるほど」
絵美は探偵のような素振りで話に頷いていた。
「で、会ってみてヒデは何か感じたか?」
私の言葉に少し戸惑いながらもヒデは話を続けた。
「はっきりとはわからないけど、、、確かに普通ではない感じがしたんだ。なんかこう目というよりも心を閉ざしているような」
「心を?」
また絵美が割り込んできた。私とヒデは同時に絵美を睨んだ。絵美は「はいはい黙ってます」という態度で口にチャックをする仕草をしてみせた。
「異変があったのは目だけじゃなく、声も、、、」
「こ、、、」絵美が言葉にならない音を発した。
「声がどう変化したんだ?」
「オレの前では一切喋らなかったんだけど、おじいさんのような枯れた声になってしまったらしくて。オレもこんな仕事しているから多少の霊感みたいなものがあって、これまでもお祓いみたいなことはやってたんだけど、今回は、、、。やはり悪霊みたいなものは存在するんでしょうすかね?」ヒデが変な敬語をつかっていたがそれは聞き流し、
「なるほどね、どうやらヒデの感覚は正しいようだ。これはテンの仕事だな」私はそう言うと後ろにいるテンのほうを見た。
「そうくるだろうと思ってたよ」
テンは仕方ないですねという態度でベンチのほうへ寄ってきた。
「まずは会ってみないとなんとも言えないけど、普通ではないことは確かだな」テンの表情は言葉とは裏腹にやっと出番がきましたと嬉しそうにも見えた。
「会っていただけますか?」
ヒデがテンにそう言うと、
「見えるの?」絵美が大きな声で反応した。

私はこの件をテンと絵美に託して「オレはほかに行きたいところがあるから」と言い残し彼らと別れた。




                     序章   完
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