第6話

文字数 6,551文字

 机の隅には乾ききったどんぶりが洗われないまま置かれていてモニタはたった今まで使われていたみたいに点灯していた。咲坂実裕は背もたれに体重を預けたままその画面を見つめていた。画面の真ん中に新たなウィンドウが開いてどこか別の場所にいる人とのリモート通話が開始され、通話の相手が表示された。実裕は表示された人物を見て小谷真琴だと判断したが、直後に、なぜ小谷だとわかるのだろうかと訝しんだ。小谷真琴として知っている人物はいるが、メールでのやりとりばかりで対面する機会はほとんどない。何度かしか会ったことのない小谷を、画面に表示された映像をほんの少し見ただけで瞬時に判別できるものだろうか。実裕は日頃からそうやって知人を瞬時に見分けてきたような気がしたが、今はなぜそんなことが可能だったのか理解できなかった。目に入った直後には小谷だと思ったものが、なぜそう判断したのかという理由を探し始めるとゆらぎ始め、小谷ではないのではないかと思えてくる。細部を見れば見るほど記憶の中には細部がなかったことに気づき、眺めるほどに誰だかわからなくなる。小谷真琴は男だろうか、女だろうか。あるいはどちらでもない別の性であろうか。なぜそんなことが気になるのだろうか。どうでもいいことだろうに。

 画面を見つめたまま実裕が黙っていると画面の中の顔が口を開いた。
「おつかれさまです」
 おつかれさまですは疲れを労うという本来の意味をすっかり失い、今やこんにちはと同じような意味だ。仕事中に使うこんにちはだと考えれば大きな間違いはないだろう。
「おつかれさまです。小谷さんですか」
「あれ、画面表示されてませんか」
「あ、いえ。表示されました」
 実裕は相手が小谷かどうか見ても自信を持って判断できなかったとは言えず、適当にごまかした。小谷かという質問を拾わなかったのでやはり小谷だと判断して良さそうだった。小谷は実裕の質問には答えなかったわけだが、答えないということがなんらかの答えを表明していた。
「通話してくるのは珍しいですね。経費申請の話ですか」
「いいえ。経費の件は先日メールした通りです」
「ああ、そうですよね」
 実裕はこのあいだ画面の隅で見たメール着信の通知を思い出した。あの通知を見てメールを開いたのだったろうか。メールの本文にはなにが書いてあっただろうか。あれがいつだったのかもはっきりしなかった。今の小谷の口ぶりから、先日という言葉で表せる程度の過去、数日から一週間程度の過去であろうと想像できた。あのメール通知を経費の件だろうと予想したことは覚えていたが、そのメールを読んだかどうかは定かではない。結局経費申請はどうなったのか。受理されたのか却下されたのか。そもそもあのメールは読んだのか読んでいないのか。もしかしたら経費申請についてのメールではなかったのかもしれない。
「咲坂さんは今、先日のわたしからのメールがどのような内容だったのか覚えていないのに、適当に話を合わせましたよね」
「え。いえそんなことはありません」
「わたしは経費の件はメールの通りと言いましたが、先日のメールが本当に経費の話だったかどうか、読んでいなければわからないはずです。でも読んでいなかったとしても、経理担当のわたしがそんなところで嘘をつく意味がないので、わたしの言葉は言葉通り受け取ってもよかろうと、そのように思われるわけですね」
「ええと、はい。そうですね。そのようなことを自分が考えたのかどうかよくわかりませんが、そうやって説明されるとそのとおりであるような気がします。ところでこれなんの話ですか」
「あのとき咲坂さんが受け取ったメールにはなにが書いてあったのかという話です。読んだかどうか定かではないあのメールです」
 実裕は直感的に、画面に映っている小谷はもはやかつて知っていた小谷とは違う何かであろうと思った。さっき出くわした小宮山がそうだったように、と思いながら、さっきとはいつだっただろうかと考え、次いであの小宮山のいたオフィスと在宅でやっている仕事の関係がどうなっていたのか、小谷と小宮山は同じ会社に属しているのかそれとも違うのかといったようないくつもの疑問が渦巻いた。ごく最近コールセンターの仕事もしていたような気がした。あれはどこにつながるのだろうか。なにもかも脈絡がなく、実裕を軸にいくつもの世界が別々に存在しているような気がした。

 画面に映っている顔も、細部を見ようとすればするほど記憶と乖離していき、次第に誰だかわからなくなる。卒業アルバムの誰かに似ているようでもあり、別の誰かが何年か経た結果であるようにも見えた。たしかあのときもそんなことを思い、年齢的に小谷が実裕と同い年であるはずはないという結論に至ったのではなかったか。しかし画面に映る小谷はいったい何歳なのだろう。実裕は自分よりもだいぶ若いと認識していたが、画面に映っている顔はそう若くもない印象だった。意外と実裕に近い年かもしれない。そこまで考えて、実裕は自分の年齢もはっきりしないことに気づいた。実裕自身に関する情報も不足しすぎていて、実裕には自分がどのような人間であるのかもよくわからないのだった。
「経理の小谷真琴です」
 画面の小谷が急に自己紹介をした。
「知ってます。どうしたんですいったい」
「どう、思いましたか。経理の小谷真琴とはどんな人物ですか。わたしは画面越しに咲坂さんと話しています。音声には漢字もかなもありませんね。するといったいどういうことになりますか。けいりのこたにまことです。ということになりますね。小谷誠かもしれないし、小谷真かもしれない。もっと他の字もあります。けいりのこたにまことは男性ですか、女性ですか。一言も言及されませんでしたが、言及されないから性別がない、というふうになりますか。ふつうあまりそうはなりませんね。なにも言及がなければ小谷真琴という名前は豚や猿ではなく人であるし、人である以上は男性か女性であると、多くの人は考えます。そこに対して経理のという情報はなにか印象操作をするでしょうか。わたしはすると考えます。これが技術開発部のとか資材部のとか社長秘書のとかいう情報が付与されていたら、それはなんらかの別の偏位(バイアス)をもたらすでしょう。与えられた情報から与えられていない情報が憶測されるのです。ほとんど無意識に。咲坂さん、わたしの話していること、おかしいと思いますか」
 小谷はそう言って画面越しに実裕を見た。実裕はその目と視線を合わせようと試みたがうまくいかなかった。考えてみれば当然で、小谷は向こう側でおそらく画面に写っている実裕を見ており、実裕はこちら側で画面に映った小谷の顔を見ているのだ。実裕の顔を映すカメラは画面の上にあり、小谷側の画面には実裕が少し下方向を見ている映像として映っているだろう。小谷に視線を送ろうとカメラの方に目を向けると、今度は小谷の顔が見えない。これでは目を合わせて粘膜の出張所的交接を行うことは難しい。額の奥でもどかしさが暴れ始め、苛立ちは口腔内を飛び回って苦い唾液となり、それを飲み下すと途中をスキップして股間が温まった。実裕は画面の小谷と目を合わせることは諦め、代わりに映っている顔を隅々まで眺めまわした。向こう側のカメラの解像度のせいか、あるいは通信ソフトウェアのお節介のせいか、小谷の顔は拡大しても皮膚の詳細までは見えなかった。もっと細かく凹凸があるはずだし、色にもむらがあるはずだし、脂が浮いていたりもするはずだし、ほくろや産毛などもあるはずだし、耳垢が残っていたり鼻くそが絡まっていたり歯垢がこびりついていたりするはずだ。それなのに画面に映った小谷にはそういったものはいっさいなく、ソフトビニルの人形のように滑らかだった。実裕はその滑らかに見える皮膚そのものよりも、それによって本来の状態が隠されているという事実に興奮した。小谷真琴が男か女かなどということはもはやどうでもよく、実裕自身が男か女かなどということもどうでもよかった。
「わたしの話していることはおかしいんですよ咲坂さん。どうやって話しているのかすらわからない。あなたは疑問を持たなければならないのです」
「小谷さんが男か女かなどということはどうでもいいんじゃないでしょうか。その他のいろいろなことも含めて、わたしはあまり疑問に思わなくていいんじゃないかと、思い始めました」
 実裕が言うと画面の小谷はわずかに眉を上げた。
「ぼくはしょっちゅう経費申請でミスをして小谷さんに却下されるんですよね。こんなことを言うと咲坂実裕は男だということになりますかね。ぼくひとつで男性性が表現されるのに対して女性性を出すのは難しい。小谷さんはそう思いませんか」
「同感です。女性的類型話法はぶりっ子性おばちゃん性ざあます性など極端なものになりがちで、リアリティのある話法では性別感を出しにくいのでその他の要素で女性であることを表明するのが一般的です」
「結局多様性だなんだと言っていてもなんらかの典型にはめこまないと表現できないんだわ。だから映像作品に登場するホモセクシュアルの人は薄らひげをはやして女性的話法で話したりするのよ。実際のMtFの人は薄らひげを放置したりしないにもかかわらずね」
「ここでも安易な類型化が現実との乖離を生んでいます」
「むしろ類型だと思われているものがまったく類型になっていないのではないかという議論もできますわね」
「現実はそんなに特徴的ではないからだろう。地方ではみんな方言まみれで話しているという類型と同じで、実際にその地へ行ってみればほとんど標準語が話されていたりする。でもそれじゃ舞台がどの地方なのかを主張できないから、他の土地の人にとって聞き慣れない言葉を使うことで地域性を主張するんだ」
「それもある種のデフォルメと言えますね。やっぱ虚構においてはデフォルメって避けられないのかも。虚構内のリアルと現実(リアル)は全然違うもので、現実に寄せりゃいいってもんでもなくて虚構的リアリティをこそ求めなきゃいけないのだもの」
「でもデフォルメは時にリアリティを損なうよ。なにかを特徴づけるために極端なことになって、周囲との差が開く。学園アニメで名前のあるキャラクタと単なるクラスメートのデザインはゴリラとサルぐらい違うといった事態を招いていて、もはや同じ種族には見えないほどの差がある」
「一方でそれを現実へ逆投影すると、スクールカーストの上と下では別種族ほどの差が実際にあるのよ。外見にも文化にも強烈な断絶があるんだわ」
「そう考えると虚構的デフォルメはなんらかのメッセージたり得るのかもしれない」
 いつのまにかこれまで登場していなかった話法が混ざり込み、小谷と実裕の会話はどこを誰が話しているのかもよくわからない事態になった。実裕は周囲を知覚しようとしたけれどうまくいかなかった。自宅の椅子に腰掛けてモニタに映った小谷と話していたはずだったが小谷は小谷らしからぬ話をし、それに応じているうちに実裕も自分が自分の普段の口調とは異なる話し方をしているような気がした。違和感を覚えることで初めて普段というものの存在を知った。
「思い出してみて」
 急に近くで声がした。
「はっきりと性別を感じさせる人物が少ない中で、唯一、誰もが男性だと疑わない人物がいたのを覚えてる」
 実裕のすぐ隣でヘッドセットマイクをつけた徳丸晃が尋ねた。実裕と徳丸は同じ方向を向いて並んで立っていた。徳丸の話しかけている相手は見当たらず、ヘッドセットで通話しているようだった。
「覚えてますか」
 徳丸はいつのまにか実裕の正面にいた。相変わらずヘッドセットはつけていて、正面にいるのに実裕を見ているわけではないようだった。実裕は隣にいた徳丸から目を離したつもりはなかったのにいつ移動したのかはわからなかった。
「なにをです」
 徳丸の話しかけている相手が自分なのかどうかいまいち確信は持てなかったが実裕は問い返してみた。
「咲坂さんが対応したクレーム。あのクレーム電話の相手。あの人だけは、おそらくほとんどすべての人が男性だと思ったはず」
 徳丸は実裕の質問に答えているようだったが視線はどこか実裕の視線よりも上へ吸い込まれていて実裕と会話しているようには見えなかった。
「あれは男性だったんですか」
 実裕は構わず問いかけた。
「知りません。声を聞いたのは咲坂さんと最初に電話をとったオペレータだけです」
 徳丸は実裕と目を合わせないまま答えた。会話はつながっているのに視線は交わらず、実裕と徳丸は言葉だけを投げあっているような状態だった。考えてみれば視線が交わらないオンラインでの通話はこれと似たような状況のはずだが、実際に同じ空間で対面しているのに視線が交わらないのは違和感につながった。ヘッドセットを通じて電話越しに会話している二人が同じ空間で向き合って立っている。それはたしかに会話ではあるしオンライン通話と似た状態ではあったが、なんらかの要素がいびつなことになっている気がした。
「でも声を聞いたからといって性別が判断できますか。それはたしかな判断ですか。アニメなんかでは男性キャラクタを女性の声優さんが演じていることも珍しくありませんよ」
「そうですね。そうなると声が聞こえてすら判断は難しい。ということは文字を読んだ人は声もわからないのに話しぶりだけで判断したということになる」
「べらんめえ調で話すのは男だということですか」
「そういう先入観があるという話ですよ。なめてんのかおまえという言い回しとか語尾を上げた「あ」が、女性であるという選択肢を否定するわけです。いつまでまたせるのかしら、どういう了見なのかしらね、え、この責任をどうとってくださるのかしらねあなた、とかいう話し方だと急におばさんぽくなったりしますね。これだって別の類型にすぎないのに、いえ、類型であるからこそ、はっきりと印象は操作されてしまうのです」
「なめてんのかおまえ、って言う女性だっていますよ」
「そう。いつまで待たせるのかしらと言う男性もいます。現実にはそう。そしてそれは現実でも驚きを持って迎えられるでしょう。そういう人物を虚構内に登場させる場合、その人物の性別をどこかで明らかにしなければなりません。はっきりと明示しない限り誰もそうは読まないだろうからです。だいたいにおいて、なにかを明示しなければならないのはそれが少数派であるときです。つまり暗黙的に伝わってしまう多数派の常識があるような場合、という意味です。でも明示すればしたでそれによって特殊性が浮き彫りになってしまう。この特殊性が特殊でない世界がやってきたとき、そういった要素は明示する必要のないものになるはずです」
「そうなるまでは特殊性は薄まらないとも言えますね」
 気づくと実裕は徳丸の膝を見ていた。周りを見回すと実裕は洋式便器に腰掛けていて、その正面に徳丸が立っていた。見上げると徳丸は相変わらずヘッドセットマイクをつけてどこか虚空を見つめており、目の前で便器に腰掛けている実裕のことは目に入らないようだった。
「徳丸さん」
 実裕は呼びかけてみたが徳丸は虚空を見上げてうなずくばかりで実裕の呼びかけには応えなかった。仕方なく腰を浮かせて足の間から便器を覗き込むと、そこには透き通った水が溜まっていて、大も小も便は入っていないようだった。実裕は腹をさすりながら特に便意もないことを確認すると、便の入っていない便器を見つめながら「大」のボタンで水を流した。すると便器内に勢い良く水が吐き出され、半時計回りの水流が巻き起こった。渦の中心部が奥へ吸い込まれて下水管への道を示している。それを見つめていると尻の穴が渦の中心と呼応し、互いの穴と穴が引き合うようにして実裕は尻から便器の中央へ吸い込まれた。実裕の尻の穴は便器の水流と接続され、実裕の内側は下水管ネットワークと繋がった。腸内が町内と繋がり、実裕は世界と一体化した気がした。徳丸を見上げると徳丸は実裕を見下ろして笑顔で手を振っていた。徳丸の笑顔。尻を洗い続ける水流。ご腸内の皆様。水流。尻の穴。股間がうずく。
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