幕末コロナ少年
文字数 1,990文字
芳三郎は、江戸日本橋本銀町 一丁目で生まれた。現在の中央区日本橋本石町4丁目あたりである。父の吉右衛門は京紺屋、いわゆる染物屋を営んでおり、芳三郎は生まれた時から跡継ぎになることが決まっていた。
染物の仕事には、色彩感覚や絵心が不可欠である。吉右衛門は子供の時に絵を習っていたが、その時に得た知識や経験は染物の仕事に役立ったので、息子にも絵を習わせることにした。
町絵師が教える子供向けの画塾だったが、そこにはのびのびと絵を描ける環境があった。元々、絵を描くのが好きだったこともあり、芳三郎の腕前はメキメキ上達した。
思い通りの太さの線を正確に引き続けるには、集中力と持久力が必要である。芳三郎は、その両方を持ち合わせていたし、何よりも絵を楽しんで描くことに長 けていた。
好きこそ物の上手なれ。芳三郎が絵師の素質に恵まれていることは、吉右衛門の目にも明らかだった。
芳三郎の絵を見た商売仲間の中には、将来は歌川豊国 を超える浮世絵師だ、と褒めそやす者もいたが、絵師の世界は決して甘くはない。ちなみに、歌川豊国とは役者絵で一世を風靡 した浮世絵師である。
一流の絵師になるためには素質の他に、人間関係が大きく関わってくる。師匠や版元との出会いを含め、花形絵師になるには運というものが不可欠なのだ。そのことを商売人の吉右衛門は身に染みて知っていたので、芳三郎の絵を気軽に褒めることはなかった。
芳三郎が数えで十一歳になった時、疱瘡 が流行った。疱瘡とは天然痘のことであり、死亡率が高く、多くの人命を奪った難病である。今でいえば、新型コロナウイルスにあたるだろう。
疱瘡は江戸っ子を震え上がらせた。この時代、流行病の予防薬は存在しない。したがって、薬種問屋 や生薬屋 に駆けつける者は一人もいなかった。
江戸っ子が買い求めたのは、もっぱら疱瘡絵 である。疱瘡絵とは、疱瘡除けを願う絵、つまり護符や魔除け、おまじないのようなものだった。疱瘡に感染しないように願をかけ、万が一、感染したとしても、できるだけ症状を抑えようとしたのだ。
吉右衛門も疱瘡絵を入手して店内に貼らせた。
それは、源為朝 が疱瘡神を撃退する姿を描いたものだった。為朝は頼朝・義経兄弟の叔父にあたり、巨漢の弓の名手として知られる。
為朝は、疱瘡除けの神として崇められていた。曲亭馬琴の読本『椿説弓張月 』に、源為朝が八丈島に上陸しようとした疱瘡神を退ける、という話があるからだ。
芳三郎は為朝の絵が気に入って、すぐに模写を始めた。
ちなみに、疱瘡神は赤い色を嫌うといわれていたため、疱瘡絵は赤刷りのものが多い。芳三郎が模写のためを必要だというので、吉右衛門は赤い染料を分けてやった。
為朝の疱瘡絵は、隅々まで細かく描かれていた。その細くて力強い描線を芳三郎は見事に再現した。毎日、模写を繰り返すことで、その描線を自分のものにしたのである。
仕事の邪魔になるので、吉右衛門は文句を言っていたが、そのうち客たちが褒めそやし、芳三郎の絵を欲しがるようになった。
つまり、子供の絵が世間で認められたのだ。しかも、その絵が評判となり、京紺屋の商売繁盛につながったのだから、芳三郎の絵は販売促進の役割を果たしたことになる。
その後も芳三郎は好んで、武者絵の模写を行った。
手本としたのは北尾重政の『絵本武者鞋 』や北尾政美の『諸職画鑑 』である。その出来栄えは、町絵師が舌を巻くほどの精密さだった。
それでも、十二歳になった芳三郎が描いた「鍾馗提剣図 」が歌川豊国の目に留まるとは誰も思わなかったし、十五歳になった芳三郎が豊国の弟子になるとは、誰一人知る由もなかった。
芳三郎の本名は、井草芳三郎。のちの歌川国芳 である。
国芳は遅咲きの絵師だったが、『通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 』の勇猛な武者絵が出世作になったのだから、「三つ子の魂百まで」ということなのだろう。「武者絵の国芳」と呼ばれるようになり、歌川広重と並んで幕末を代表する浮世絵師となった。
国芳はコミカルな戯画も手掛けており、その斬新な表現力は現代アートに通じるものがある。当時のニューウェーブだった、と言っても過言ではないだろう。ちなみに、少し前にブームを巻き起こした河鍋暁斎 は、国芳の弟子にあたる。
さて、国芳は名を成してから、源為朝をモチーフにした武者絵を描いている。
「讃岐院眷属 をして為朝をすくふ図」はダイナミックな構図で有名な作品だ。
「鎮西八郎為朝 疱瘡神 」は、二枚続きの多色刷り大判錦絵である。左側に源為朝、右側に疱瘡神の老婆と童子,玩具の動物たちを配置して、右側の面々が左側の為朝にひれ伏しているのだ。まことに力強い絵であり、為朝の武勇伝を如実に表している。
もしかすると、疱瘡だけでなく、新型コロナウイルスにも効き目があるのかもしれない。
了
染物の仕事には、色彩感覚や絵心が不可欠である。吉右衛門は子供の時に絵を習っていたが、その時に得た知識や経験は染物の仕事に役立ったので、息子にも絵を習わせることにした。
町絵師が教える子供向けの画塾だったが、そこにはのびのびと絵を描ける環境があった。元々、絵を描くのが好きだったこともあり、芳三郎の腕前はメキメキ上達した。
思い通りの太さの線を正確に引き続けるには、集中力と持久力が必要である。芳三郎は、その両方を持ち合わせていたし、何よりも絵を楽しんで描くことに
好きこそ物の上手なれ。芳三郎が絵師の素質に恵まれていることは、吉右衛門の目にも明らかだった。
芳三郎の絵を見た商売仲間の中には、将来は歌川
一流の絵師になるためには素質の他に、人間関係が大きく関わってくる。師匠や版元との出会いを含め、花形絵師になるには運というものが不可欠なのだ。そのことを商売人の吉右衛門は身に染みて知っていたので、芳三郎の絵を気軽に褒めることはなかった。
芳三郎が数えで十一歳になった時、
疱瘡は江戸っ子を震え上がらせた。この時代、流行病の予防薬は存在しない。したがって、
江戸っ子が買い求めたのは、もっぱら
吉右衛門も疱瘡絵を入手して店内に貼らせた。
それは、
為朝は、疱瘡除けの神として崇められていた。曲亭馬琴の読本『
芳三郎は為朝の絵が気に入って、すぐに模写を始めた。
ちなみに、疱瘡神は赤い色を嫌うといわれていたため、疱瘡絵は赤刷りのものが多い。芳三郎が模写のためを必要だというので、吉右衛門は赤い染料を分けてやった。
為朝の疱瘡絵は、隅々まで細かく描かれていた。その細くて力強い描線を芳三郎は見事に再現した。毎日、模写を繰り返すことで、その描線を自分のものにしたのである。
仕事の邪魔になるので、吉右衛門は文句を言っていたが、そのうち客たちが褒めそやし、芳三郎の絵を欲しがるようになった。
つまり、子供の絵が世間で認められたのだ。しかも、その絵が評判となり、京紺屋の商売繁盛につながったのだから、芳三郎の絵は販売促進の役割を果たしたことになる。
その後も芳三郎は好んで、武者絵の模写を行った。
手本としたのは北尾重政の『
それでも、十二歳になった芳三郎が描いた「
芳三郎の本名は、井草芳三郎。のちの歌川
国芳は遅咲きの絵師だったが、『
国芳はコミカルな戯画も手掛けており、その斬新な表現力は現代アートに通じるものがある。当時のニューウェーブだった、と言っても過言ではないだろう。ちなみに、少し前にブームを巻き起こした
さて、国芳は名を成してから、源為朝をモチーフにした武者絵を描いている。
「
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もしかすると、疱瘡だけでなく、新型コロナウイルスにも効き目があるのかもしれない。
了