第1話

文字数 10,274文字

       一
 あまり見慣れない親族が祖父の家、いわゆる本家に集まった。これだけ揃うのは、3年前、僕の父母が事故で亡くなって以来だろう。
 当時僕は大学一年、この親族会議で、僕を誰が引き取るかで揉めていた。これは、『引き取りたくない』からでは無く、両親の事故死は相手の一方的な責任だったので、多額の保険と慰謝料が僕の手に入ったことから『引き取りたい』親族が多かったのだ。
 大学も名門、3年すれば就職となり、養育の手も掛からない僕は、引き取り先としては持参金を持った優良物件に見えたのだろう。
 薄汚い大人の顔を見た僕は、引き取りたがる親族全てを断り、自分一人で生活することを決めた。家もあり、保険や遺産で十分暮らしていけるのだから。
 そして今、光景は同じだが、内情は逆の会議になっていた。
 父は5人兄弟で、末っ子の妹、つまり僕の叔母だが、彼女が脳溢血で突然亡くなったのだ。まだ高校2年生の娘を残して。
 叔母は僕の両親がまだ生きている時に離婚し、生活保護を受けながら娘を育てていた。夜の商売もしていたようだが、その酒漬けの生活に身体が蝕まれたのかもしれない。
 ボロボロの借家住まいで生活保護、そんな環境で育った多感な高校2年生の娘。
 叔母は僕の両親と一番仲が良かったが、二人が死んだあと、親族の集まりにほとんど顔を出していない。僕の父母以外の親戚に、叔母に同情してくれるような人もいなかった。
 娘はその話の間、地味な学生服姿でわずかに下を向いていたが、ほとんど無表情で、顔色一つ変えなかった。
 「拓己、お前も成人している。死んだ兄貴に代って親族の話し合いの場に出ているんだ。何か意見は無いのか」
 叔父が突然僕に話を振ってきた。僕自身はオブザーバーのつもりで何となくこの場に来ていたのだが、なかなか話が決まらず僕にまで意見を求めてきたのだ。
僕は彼女…瑞希の顔をもう一度見た。既に何か決心しているようにも見える。もしかしたら、こんな親戚なら頼らず一人で生きて行く、なんて言い出すつもりかもしれない。
 「叔父さん、僕の眼には、何だか皆さんが瑞希ちゃんの押し付け合いをしているように見えます」
 「なに!お前、口の利き方に…」
 「瑞希ちゃんは僕が引き取ります。彼女が就職するまで、責任もって養育します」
 「拓己、お前…」
 そう、僕はこの状況に怒っていたのだ。僕の時には持参金目当てで群がってきた大人たちが、今、目の前の娘を厄介者扱いしている。
 瑞希は、小さい時は明るい子で、二人でよく遊んだが、最近はあまり会っていなかった。今の瑞希の顔は、あの時の可愛らしい顔じゃなく、全てを諦念して表情のない人形のようだった。そんな娘を、親が死んでしまった哀しみを、大人たちは欲で簡単に踏み荒らしていく。
 「幸い、僕には家も遺産もあるし、もうすぐ大学も卒業します。例え、この中の方が瑞希をいやいや引き取っても彼女が可哀そうすぎる。僕が責任もって引き取ります」
 もう一度言って親戚を見渡すと、みんなバツが悪そうに俯いてしまった。
 ただ、瑞希だけが驚いた顔を僕に向けていた。
     二
 親戚一同がザワザワと騒いでいる。私の処遇についてだ。独りぼっちとなった私に財産の欠片も無い事を確認すると、皆で押し付け合いになっていた。
 でも私は、父と母が離婚してから、虐げられた扱いには慣れているつもりだ。
 私は下を向きながら、いつ、彼らに決別宣言をするかタイミングを見計らっていた。
 高校など辞めて、夜の世界に入れば当面の生活は問題ない。『パパ活』だってしたことがある。まあ、私は愛想も無いし、終始無表情で寝転がっているだけなので、相手もそのうち飽きてくるようだが。私も好きでも無い人と好きでも無い事をしたい訳では無いので丁度いいと言えるけど。
 親族の話は堂々巡りで、結局私は厄介者扱いだ。もっとも、こんな状況で誰かがいやいや引き取る話になっても私は断る。
 話し合いは続いていたが、結論はなかなか出ず、半ば八つ当たり的に拓己兄さんに話が振られた。
 拓己兄さんは、三年前両親を事故で失くしている。私はその話し合いには出ていないが、皆お金目当てで引き取りたいと言っていたのを、兄さんは小気味よく蹴ったらしい。小さい時から頭がよく強情な兄さんらしかった。私にとっては優しく頼もしい兄さんだ。
 「瑞希は僕が引き取る」
 突然、兄さんが口を開いた。それまで周りの様子を伺い一言も発しなかったのに。
 兄さんは驚いて顔を上げた私に微笑みかけながら、また顔つきを改め、親戚一同に私を引き取ることを再度宣言した。
 私は兄さんと遊んでいた時の女の子じゃないよ、凄く汚れているんだよ、そう言いたかったが言葉に出来なかった。
 「瑞希、すぐアパートを引き払って僕の所に来い。歳は若いけど今日から僕が君の親だ」
 私の傍に来て頭を優しくポンポンと叩いてくれる兄さん、昔から密かに憧れていた兄さん、そんな兄さんが親…、私の眼からは、知らず知らずに涙が溢れていた。
    三
 既に就職が決まり、単位もほぼ取っていた僕は、大学に行く用事がほとんど無かった。だから、朝、食事を作り、高校に行く瑞希を見送ることが日課になった。
 瑞希は僕のところに来てから、自分からはあまり話さず、僕が話しかけると返事するぐらいだった。
 彼女は、家にいる時は、大概2階に与えた部屋に閉じこもっている。部屋からは時折、瑞希が大事に抱えてきたギターの音と、少しか細い歌が聞こえてくる。寂しさを紛らわすために中学から弾いていたらしい。
 僕としてはもっと打ち解けて欲しいのだが、年頃の娘だし、遠慮もあるのだろう。
 高校に通う瑞希のため、家事全般は僕がすることにした。今までやってきたことであるし、一人分増えたところで大して変わらない。
 ただ、一つ困ったのが洗濯物だった。瑞希は最初嫌がったが、二度手間になるからと下着もちゃんと洗濯物に出すように言った。しかし、実際出されると、非常に困惑した。果たして僕が手に取っていいものなのか。
 出せと言ってしまった手前、ちゃんとするしかない。僕は彼女の親代わりなんだから。
 僕はサイトで女性の下着の洗い方や干し方を検索し、なるべく見ないようにしながら作業した。
 特に瑞希からは文句も出なかったので問題無かったのだろうと胸を撫で下ろしたが、やはり年頃の娘と住むということがいかに難しいか、とこれ一つとっても思ってしまった。
 だが、僕がこんなでは、瑞希が更に遠慮し委縮してしまう。もう少し、親子や兄妹のように接してあげなければ。
    四
 兄さんの家に来てからひと月近く経った。兄さんは私にいろいろ私に気を使ってくれる。家事ぐらいは手伝おうと思っていたのだが、『勉強で忙しいだろ』と言って兄さんが全てしている。
 でも、洗濯物を全部出せと言われた時には恥ずかしくて顔が真っ赤になった。憧れの兄さんに下着を洗われる…、なんて思ってもみなかった。兄さんも顔が赤くなっていたので、気にはしているのだろう。
 私は赤くなった兄さんを見て、ムクムクと悪戯心が湧き上がってきた。別に私が断固拒めば兄さんも洗わないだろうが、わざと言われた日に下着を洗濯物に出したのだ。いったいどんな反応するんだろう、そう思っただけで少し笑ってしまいそうになった。
 翌日、学校から帰ると兄さんは買い物に出かけているようで家にいなかった。リビングを見るとソファーの上に、きちんと畳まれた洗濯物があった。
 私は自分の分を持ち、部屋に行ってタンスにしまおうとした。種類によって分けられ、丁寧に畳まれている。もちろん下着もだ。
 私は、兄さんがくそ真面目に下着を畳んでいる姿を想像して声に出して笑ってしまった。こんなに笑ったのはいつ以来だろう。
 でも、兄さんが私に女を感じてくれていないのかな、という事が少し寂しかった。
 私はもし兄さんが迫ってきたら、拒まないつもりだった。
 引き取ってくれたお礼もあるし、兄さんの事が好きだからだ。でも、兄さんはそんな私の心を知ってか知らずか、何とか私の親になろうとしている。
 でも、兄さんがいくら頑張っても、急に家族にはなれるはずもない、そう思って毎日を過ごしていた。
      五
 瑞希は相変わらず口数は少ないが、徐々にこの生活に慣れているようだった。中学で少し荒れた時もあったらしいが、今のところそんな兆候も見えず、決まった時間にちゃんと帰ってくる。
 逆に、今日のような日曜日でも部屋に籠りっぱなしなので少し心配になってくる。友人と遊びに行ったりしないのだろうか。服も地味な感じの物ばかりだし、根本的に私服を着て出かける事が無い。
 僕は思い立ち、リビングに瑞希を呼んだ。あまり覇気がない顔をしているが、親族会議の時よりましになっている。
 「瑞希、今から買い物に行かないか?」
 「買い物?」
 「お前、服をあんまり持ってないだろ?」
 「いいよ、そんな出かけないし」
 「まあ、いいから。散歩がてら外に出よう」
 渋る瑞希を説得して、二人で街に出かける。相変わらず地味な感じだ。元々彼女は目鼻立ちがくっきりした美人なのにもったいない。
 デパートに着き、僕が目を付けていた服屋に入る。ここは爽やかで清楚な感じの服が多く、瑞希に似合うだろうなと思っていた。
 「瑞希、気に入ったのがあれば買うよ」
 「私、服ってよくわからないから…」
 「俺だって女の子の服なんてわからないよ。ただ、こんな感じなら瑞希に似合うかなって」
 瑞希は少し顔を赤くして頷いた。
 「兄さんに任せるよ」
 因みに瑞希は僕の事を未だにお父さんとは呼ばない。まあ、それほど歳が離れている訳では無いので『兄さん』の方がしっくりくるが、気持ちは親だ。
 「分かった。何着か選ぶから試着しなよ」
 僕は瑞希に似合いそうな爽やかな感じのワンピースを何着か選び瑞希に見せた。
 「さあ、着てみて」
 「うん」
 瑞希は全て着た後、僕に聞いてきた。
 「どれが似合ってた?」
 少し笑った瑞希の顔はまるで花のようだ。僕はワンピースの中から花柄を取り出した。
 「俺はこれが似合うと思うよ。どうかな?」
 瑞希はワンピースを身体に当てると嬉しそうに頷いた。
 何だか、親として瑞希に少し近づけたような気がした。
     六
 兄さんが急に私を呼び、服を買いに行こうと言った。私がほとんど家を出ないから心配になったようだった。
 実際、母が亡くなってから悪い友人とも遊ばなくなったし、何しろ生活の心配をせずに部屋で落ち着けることで私は満足だった。
 兄さんと住み、心が落ち着くことで、何で私だけがこんな目に、というような被害者意識からくる自棄が無くなってきた。
 もちろん、私が部屋から出ないのは、元々外に出るのが億劫ということもあったが。
 私は兄さんと家にいる事だけで幸せだったので、外に出る事を渋ったが、余りに心配そうな兄さんの顔を見ているのも嫌だったので、仕方なく出かけることにした。
 ある意味、兄さんと初デート、かも知れない。
 兄さんは私をデパートの服屋に連れて来た。ブティックじゃ無い所が兄さんらしい。
 兄さんは好きな服を選んでと言ったが、どうやらもう目を付けている服があるようだ。それに、私の趣味だとつい地味目のものになってしまうから、兄さんに選んでもらうことにした。
 兄さんは何着かのワンピースを手に戻って来て試着してごらんと言った。こんな明るい少女みたいな服を着るのは気恥ずかしかったが仕方ない。一応全て着て兄さんに見せ、どれが似合うか聞いてみた。
 兄さんは宙を見て考えていたが、やがて笑顔で頷くと、花柄のワンピースを私に渡した。
 「これが似合うと思うよ」
 私はワンピースを体に当てた。こんな清楚なイメージ、なんだか恥ずかしい。でも、兄さんの嬉しそうな顔を見ていると私も嬉しくなってくる。
 兄さんと初デートで初プレゼント。私には泣きたいほど幸せだった。
      七
 今日は久しぶりに大学に顔を出した。ゼミの最終課程レポート提出のためだ。ゼミに顔を出すと、友達や後輩がいて、久しぶりの僕の登場に驚いたようだった。
 「拓己、久しぶりだなあ。まあ、残ってる単位もほとんど無いし、就職も決まってるからな。余裕でも仕方ないか」
 友人が僕の肩を叩きながら椅子に座らせた。
 「ところでお前、従妹の女の子、引き取ったんだって?」
 「ああ、養父みたいなもんだ。就職したら正式に届ける」
 「でも、最近はそんなに会っていなかったんだろ?お得意の義侠心からか?」
 「まあ、それもあるけど、小さい時は遊んでいたし、余りにも可哀そうな境遇なのに親戚連中は冷たくてね。俺も両親亡くしたからその寂しさがよくわかるし。いやいや他の親戚が引き取ったっていい事なんか無いからさ。俺なら彼女の気持ちわかるかなって」
 「相変わらずお人好しだなあ。でも高校生だろ、その娘。結構やりにくくないか?」
 「最初はいろいろ戸惑ったけどね。慣れたし、瑞希もいい娘だし問題無いよ」
 僕は苦笑いで応えた。その話を聞いていた茉莉という学生、僕の彼女なのだが、ブスっとした顔で言った。
 「でもさ、拓己君。従妹だって女の子だよ。二人っきりで住むってなんか…。私だってデート最近してもらってないし」
 「悪い悪い。埋め合わせは近々するからさ」
 「まあ、拓己君はそういうお人好しだから仕方無いけどさ。何かあれば相談ぐらいしてよ。それに瑞希ちゃんも紹介してよね」
 「ああ、分かった。ありがとう」
 そうは言ったが、瑞希にはまだ僕の彼女の存在を伝えていない。茉莉とは結婚の約束をしているが、瑞希を引き取ったことで、多分結婚時期が遅れるだろう。その事を瑞希に言ってしまえば、僕に気を使って出て行くと言い出しかねない。
 僕にとっては、結婚時期の多少の遅れより、瑞希が一人前に巣立っていく方が大事だ。
 「じゃあ、今日ぐらいは何かおごってよ。せっかく大学来たんだからさ」
 「え?でも、瑞希が…」
 「過保護ねえ。一日ぐらい連絡入れておけば構わないでしょ」
 「仕方ないなあ…」
 僕は、瑞希に今日は学生仲間と飲み出るから遅くなることをLINEで伝えた。既読は付いたが瑞希からの返事は無かった。
     八
 兄さんから今日遅くなると連絡が入った。大学に顔を出したから誘われたのだろう。
 そういう事もある、心では納得していても切なかった。また独りぼっちになる、いや、それより、兄さんがいないことが嫌だった。
 いつの間にか、兄さんは私の中でとても大きな存在になっていた。親として、兄としてでは無く、一人の男性として。
 兄さんに彼女がいるであろうことは何となく分かった。隠し事が下手で真っ直ぐな人だから。私と正反対だ。
 私は、いつの間にか兄さんとずっと一緒に暮らしていけると思っていた。でも、最初から『私が独り立ちできるまで』という約束だ。
 じゃあ、私がずっと独り立ちしなかったらどうなるのだろう。兄さんは私だけを見て暮らしてくれるのだろうか。
 何も食べず、部屋に籠りギターをつま弾く。甘い恋の歌なんて歌えない。切ない思いだけが口から漏れてくる。
 時の流れが遅くなり、ついつい時計を見てしまう。真上を向いた時計の針と共に、寂しさと切なさが体に伸し掛かってくる。
 もうダメ…、そう思った時、玄関の鍵を開ける音がした。
 兄さんが帰ってきた。少しよろけたような足音が廊下に響く。私は堪らなくなって部屋を飛び出し、兄さんに抱きついた。
 「瑞希…、まだ寝て無かったのか」
 兄さんは激しく抱きつく私の頭を、宥めるように軽く撫でてくれた。
 「兄さん…遅い…」
 「ごめんな…、久々に大学の連中に会ったからさ、なかなか放してくれなくて」
 少し酒臭い息を吐きながら兄さんは謝った。
 今、私が唯一安心出来る兄さんの身体と匂い…、でも、少しだけ化粧の匂いがした。
 「兄さん…、私、邪魔?」
 「なに言ってるんだよ。瑞希は大事な娘だよ。邪魔になんかしていないさ」
 「ホントに?この家に居ていいの?」
 「当たり前だろ、ここはお前の家だよ」
 私は兄さんの胸に顔を埋めた。涙がとめどなく溢れ出す。母と居る時は、あんなに心を殺していたのに…。
 「ちょっと不安になっちゃたんだな。寂しいなら一緒に寝てあげようか?なんて、お前が嫌だな」
 笑いながら兄さんは私の肩を持ち、身体をゆっくり離そうとした。私はいやいやをしながら、また胸に顔を埋めた。
 「仕方ない奴だな。分かった、一緒に寝ようか。背中トントンしてあげるから」
 私は胸の中で頷き、また兄さんを抱きしめた。
      九
 最近、瑞希の様子が少しおかしい。急に甘えだしたり、反発したり。
 学校で何かあったとも思えないし、思春期の不安定さかと考える。もっとも、母親に死なれ、従兄と急に暮らしだしたのだから、情緒不安定なのは仕方の無いことなのだ。
 なるべく甘えさせてやるようにしているが、それだけではいけないのだろう。独り立ちできるような強さを身に付けなければ、家を出た後にやっていけなくなる。
 今まで、家事は僕がしてきたが、そろそろ瑞希にも練習させないと、と思っている。
 学校から帰ってきた瑞希をリビングに呼び、今後のお前のためだから、と言って家事の分担について話した。
 最初は神妙に聞いていた瑞希だったが、急に怒り出した。『そんなに私を追い出したいの』と。
 そんな事ではなく、将来のためだと言ったのだが、『親じゃないくせに放っておいて』と言って部屋に籠ってしまった。
 僕は何か瑞希を傷つける事を言ってしまったのだろうか…。
      十
 学校から帰ると兄さんに呼ばれた。
 今後は家事を分担する、という話だった。
 「そろそろ瑞希も家事全般できないと、独り立ちする時に困るからね」
 兄さんは優しく言ってくれたが、私にはその言葉が『早く出て行け』と言っているように聞こえた。
 「私の親じゃ無いんだから放っておいて!」
 私は立ち上がり、自分の部屋に鍵をかけて籠った。
 最近いつもこうだ。兄さんがそんなつもりじゃなく、本当に私を心配してくれている事を分かっているのに。きっと兄さんに嫌われてしまうだろう。自分の被害妄想だし、我儘だと分かっているのだ。 
 でも、兄さんに親みたいなことは言われたくない。『ずっとここに居ていいよ』と、嘘でもいいから甘く囁いて抱きしめて欲しい。
 このままじゃ、私は、おかしくなる。
     十一
瑞 希が今日、学校を休んだ。部屋から出てこないのだ。学校には病欠の連絡を入れたが、こんな休み方は家に来て初めてだ。
 閉じ籠って出てこないから体調がどうなっているかもわからない。無理に部屋に入ることもできるが、それは瑞希との関係を壊すことになると思い、止めた。
 家事を終え、食事も作りリビングで待機するが、さっぱり2階から降りてこない。
 本当の親ならこんな時どういう対応をするのだろう、ため息をつきながら考え込んだ。
 元々無理のある同居ではあった。従妹とは言え、多感な女子高生だ。僕に配慮が足りなかったのかもしれない。
 でも、あの時は、僕と住むことが最善だと思ったのだ。あんな親戚共に瑞希を預けられない。
 お人好しと言われる僕だが、それだけで引き取った訳では無い。小さかった時の瑞希の笑顔を取り戻したかったのだ。
 あんな無表情な、自棄になった瑞希など見たくは無かった。
 親戚に厄介者扱いされながらも顔色一つ変えず、ただじっと下を見ていた、あんなのは瑞希じゃない。明るく爽やかな、笑顔の似合う娘なのだ。
 ここに来て暫くの間は笑顔が出ていたのに、僕の接し方がいけなかったのか。
 瑞希がいつまでも部屋から出てこないので、僕は仕方なく自分の部屋にいった。
     十二
 部屋から出るのが怖い。兄さんに悪態をついてしまいそうな自分が嫌だ。
 兄さんはきっと心配しているだろう。素直になれない、嫌な自分がここに居る。
 私を待ちくたびれたのか、兄さんが自分の部屋に入っていく音がした。ごめんなさい、兄さん。私はもう、後戻りできないかも。
     十三
 電気を消し、ベッドに寝転がっていると、遠慮がちなノックが聞こえた。部屋のドアを開けると瑞希だった。
 「瑞希…、心配したぞ。もう大丈夫なのか」
 瑞希は何も言わず僕に抱きつき、キスをしてきた。僕は慌てて離れようとしたが、瑞希の身体の圧力に抗い切れず、ベッドにもつれるように倒れ込んでしまった。
 「み、瑞希…」
 「兄さん、もう耐えきれないの。今だけでいいから…抱いて…」
 そう言うと瑞希は服を脱ぎだした。瑞々しい肌が、暗い部屋の中にシルエットで浮かぶ。
 「お、おい、瑞希…」
 「兄さん…、私は兄さんが思っているような清楚な女の子じゃないよ」
 瑞希はそう言うとまた抱きついてきた。
 「お母さんと住んでいる時…本当にお金が無かったの。お母さんは…私を男の人に売ったの、お金のために。最初は泣いて拒んだけど、ダメだった…。私は心を殺した、そうしないと生きていけないから…。汚れてるの、私…」
 「瑞希…、そんなこと無いよ、お前は、純真だよ、だから心を殺してしまったんだ」
 「お金が無いと生きていけない…、当たり前のことだし、そのための対価がいる。私が差し出せたのは身体だけ…、でもこの身体もどんどん汚れて…。大好きな兄さんに優しくされて、とても嬉しかった。私に代償なんか求めず、ただ愛情をくれた…。でも、怖かった…、普通に暮らしている今が、そのうち無くなってしまうと思うと、兄さんと離れて暮らすことを考えると、とても辛くて…」
 「代償なんていらない!瑞希が大事だから、守ってやりたいから、そんなこと考えるな!」
 「兄さん…彼女いるんでしょ?それぐらいわかるよ。真面目な兄さんだから、就職してちゃんとしたら結婚しよう、って言ってるんでしょ?」
 「…」
 「私が居たら、大好きな兄さんを困らせてしまう、でも、離れたら私が壊れてしまうの。でも、兄さんを困らせるぐらいなら、私はもう一度暗い世界に行ってもいい、だから、せめて、最後に兄さんとの思い出を下さい…」
 瑞希は大粒の涙をポタポタと零した。汚れの無い、綺麗な涙だ。
 「瑞希…、お前をそんな世界に戻すくらいなら俺は結婚なんかしない」
 「兄さん…」
 「言っただろ、お前が独り立ち出来るまで面倒見るって…。暗い世界に行くことは独り立ちじゃない、そんな事俺が許すと思うか?」
 「でも…そうしたら兄さんが…」
 「子供が大人の心配なんかするんじゃない」
 「私はもう子供なんかじゃ…」
 「そういうことを言うことが子供だよ。瑞希、6年待ってくれ。お前が大学に行って、卒業して、ちゃんと就職して…それでも、まだ俺の事が好きなら、結婚しよう」
 「兄さん…」
 「彼女とは別れる。なぜって聞くな、それはお前の方が彼女より大事だからだ。お前が頑張ってやっていくなら、俺も手を携えていく。俺は頑固だぞ、瑞希。お前が独り立ちできるまで離さない」
 「ありがとう…ごめんなさい…兄さん…」
 瑞希は泣きじゃくりながら僕に謝った。
 そんな瑞希を、僕は抱きしめながら頭を撫でた。彼女が眠りに着くまで…。
    十四
 兄さん、勝手に出て行ってごめんなさい。やっぱり私はここに居られない。兄さんの重荷になっている自分が哀しい。
 兄さんが買ってくれたワンピースをカバンに入れ、ギターを抱えて家の鍵を閉める。そして郵便受けに鍵を入れた。もう、ここに戻れない…。
    十五
 用事で大学に行き、帰ってきたら家の中がしんとしていた。
 瑞希の部屋をノックするが反応が無い。ノブに手をかけると鍵は締まっていなかった。
 ゆっくりドアを開けると、そこにいるはずの瑞希と、あるはずのギターが無かった。
    十六
 行き慣れた夜の街のはずなのに、何故か全然知らないような所に感じる。私の眼からは勝手に涙が零れてくる。
 酔っ払いに声を掛けられたが慌てて逃げた。私にはもうどこにも居場所が無いのだろうか。 
 何もかも壊して兄さんの所から出たはずなのに、私の想いの欠片はあの部屋に残っているのかもしれない。
 どうしていいのか、もうわからない…。
     十七
 瑞希が居なくなって3日、僕は毎日探していた。学校、繁華街、駅…。
 携帯の中の瑞希は、はにかむような笑顔だ。瑞希には僕が必要、いや、いつのまにか僕に瑞希が必要になっていた。
 暗い空が白んで来た。 
 携帯の瑞希をいろんな人に見せ、尋ねる。
 新聞配達が、写真を見て言った。
 「その娘、公園で蹲ってたような…」
     十八
 寒い…、今日も公園で野宿、何も食べてない。極限まで行けば、また闇に帰ることになるのかな…。兄さん…、怖いよ…。
 「瑞希!どこだ!瑞希!」
 あれは、兄さんの声、私、とうとうおかしくなって幻聴かな…。何となく幻聴に返事をしてみた。
 「兄さん…」
 「瑞希!いるのか!」
 幻聴じゃ…無いの…兄さん…。
     十九
 「瑞希!大丈夫か!」
 「兄さん…」
 「馬鹿…出て行く奴があるか!」
 「でも、兄さんの邪魔になっちゃう…」
 「違うんだ!瑞希、俺がお前に居て欲しいんだ!必要なんだ!」
 「…一番聞きたかった言葉…、私、居ていいんだね…」
 「そうだよ、ずっと一緒に…」
 二人は、闇から明けた空の下で、ただ、抱き合っていた。
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