Re.7:30 その先へ

文字数 3,295文字

『本当にそれでいいの?』
「私は――!」

胸につっかえた何かを吐き捨ててやろうかと食ってかかった。でもそんな虚勢も、周りから向けられた冷やかな無言の圧力に怖気づいて、すぐどこかに消えてしまう。何だか、ばつが悪い。



“ドアが閉まります。ご注意ください。次の駅は――”
肩を落として覗いた窓の外。見飽きた景色。黒に紺。グレーのストライプにベージュのフレア。みんな一様に硬いかかとで地面を蹴って、まるで工場のベルトコンベアを流れる部品のように毎日毎日どこかへと流れてゆく。
誇り、夢、目標。この中で直向きに汗を流している人はどれだけいるのだろう。上司に媚びを売り目下の者を理不尽に怒鳴りつける。上辺だけの気遣いで責任を押し付け合って。顔を合わせれば文句か誰かの陰口ばかり。
異論を訴えたとして、本気で肩を並べて力を貸してくれる人がどれだけいるのだろう。そんなのドラマか映画の中だけでしか見たことがない。
――トンネルに入った。不意に窓に映り込む自分の気迫のない顔。
本当に嫌になる。いつからだろう。

◆◇◆

「ただいま……」

日が沈んでもまだ街灯きらびやかな夜。田舎に居たころはそんな眠らない世界に憧れたこともあった気がする。でもそんなの実際は全然違ってた。
同僚と楽しげに話す声も。肩を組んで飲み交わすお酒も。不満だらけの今を誤魔化すことにみんなやっきになっているだけ。
そう思えてしまって私はあまり好きじゃない。好きになりたくない。でも、毎日それを見ないように意識して、無心で帰宅しているだけの私も同じかもしれないけど――。
靴を脱ぎ捨てて、郵便物は適当に。むくんだ足を引きずりながら、ジャケットをベッドに投げて、明かりもつけずにそのままソファーに倒れ込んだ。顔をうずめたまま、バッグからこぼれたスマホを拾って画面を覗きこむ。それが私の平日ルーティン。
いつからかみんなが自分の幸福自慢をするだで会話のなくなった旧友イチオシのSNS。同僚に勧められたけど何もない自己紹介を見栄で埋め尽くすことに疲れてそれっきりのマッチングアプリ。同じく同僚ゆずりで一度も利用せずじまいのジムのクーポン。肌に合わなかった流行りのショート動画アプリ。
どれも画面隅に追いやられて、最後に使った日がいつだったかなんて覚えていない。人付き合いは大切。健康のため。将来のため。社会人ならそれくらいはしないと。全部、そう自分に言い聞かせて"普通"に溶け込もうと必死だった。使わないなら消してしまえばいいのにといつも思うのに。なんだかそうはしたくない。
メールボックスに着信を知らせる赤いバッジが付いていた。”購読期限切れのお知らせ”身に覚えがない。何かのスパムかも。そう思って開いてみる。

“趣味から始める英語レッスン!目指せみんなの英語の先生!”
「……ああ。そんなこともしてたっけ……」

時間はまだまだあるからって。働き先は一つに縛られるものじゃないからって。毎日少しずつ、土日もちゃんと勉強すれば、私にだってできる。
そう前向きに考えて、無理矢理納得させて、頑張るつもりだった。頑張ろうとしてた。だけど……。
カレンダー。スケジュール。タスク管理。リマインダー。電話帳。名刺管理。共有ドライブ。チャットツール。メモ帳。オフィスツール。経済ニュース。交通案内。などなど。
私物のスマホなのに、画面には仕事で使うものばかり。大好きだったアイドルの壁紙なんて隠れて見えない。雑多で胸やけしそうな現実と、叶える前に忘れられてしまった無知で無垢すぎた夢の有様が虚しくて。画面が少し眩しい。



――時刻は、夜の7時30分。そうやって何をするわけでもなく、ただ適当に画面を眺めて気が付けばいつもこの時間。まるで、毎日同じ時間を繰り返しているような。ずっとこの先、このまま抜け出せない。同じ時間に閉じ込められているような。あながち間違ってないかもしれない。そんな感じ。

『――しないで……』

ん? 今、何か聞えた? 気のせい? 今日も疲れた――。

◆◇◆

その日。奇妙な体験をした。
いつものように仕事を終えた帰り道。何事もなく真直ぐ帰れば、またあの同じ時間にはソファーで横になっている。そのはずだった。



「……あれ? こんなところに公衆電話なんてあったかな?」

街の喧騒から離れた明かりも乏しい住宅街。人影のない錆びれた公園を過ぎたあたり。今にも消えそうな街灯に照らされた小綺麗な電話ボックスが一つ。単に新しく置かれただけかもしれない。でも、なぜか受話器が垂れ下がったままのそれは、気味が悪いったらなかった。
一瞬、引き返して迂回することも考えたけど、疲れた身体でそれは少し面倒だ。得意の無視を決め込んで、足早に通り過ぎてしまおう。そう思った。

『Prrr……。――しないで……』

背筋が凍った。逃げ足もぴくりとも動かない。

『また無視するの? いつまで無視するの?』

子供の声? 聞き覚えはない、と思う。なのに悪意がないことだけは何となく分かった。

「……無視って何のこと?」
『もう分かってるはずだよね? 分かっているのに気付かないふりばかり。見なくて済む理由ばかり探して、仕方ないなんて言い訳を毎日繰り返してる』
「言い訳って……。だって事実でしょ? 仕事しないと! お金がないと生活だってできないから!」
『ほら。またそうやって逃げてばかり』
…………うるさい。
『そうしていれば、何か変わるの? 誰か助けてくれるの?』
……うるさい。
『時間は待ってくれないよ? 過ぎてしまったら、やり直しなんてできないんだよ?』
――っ!!
最近、気が緩んでいるときに頭の中でした声。これだ。そう思ったら、抑えていたものが急に膨れ上がって、それから――ハジケタ。

「そんなの全部分かってる! 全部ぜんぶ分かってるよ! やりたい事があるなら、うだうだ言ってないでまずやってみればいい! 本気でやりたいって思ってるなら、お金のこともバイト掛け持ちしたりすればどうにかできる! 本気に思ってないから、文句を言うことしかできない。そんなことも、とっくに気付いてたよ! 私には能がないからだなんて、それも言い訳。それを他の何かや誰かのせいにするなんてもっての外! 本気でやろうともしないくせに、勝手に上手くなるはずなんてない! でも、違う! 私は違う! できる! そう、私はできる! どれだけ周りが今更だって笑ったって、それもただ能のない自分を棚に上げて、現実から目をそむけて、ひがんでるだけ! 何もできずに文句しか言えない人なんて、置いていけばいい! そんなの相手にしなけりゃいい! 本気でやりたいことなら、遅いだなんてこと気にならない! やりきれたなら私の勝ち!! だからもう"普通"なんかに縛られない! 明日からだってやってやる! 分かったか! こんちくしょ――!!

“ガチャンッ!?

胸の中でぐちゃぐちゃに溜まっていたものを全部一気に吐き出して、受話器を叩きつけてやった。思いの外乱れていた息を膝に手をついて落ち着かせる。い、今のは――?
視線を上げると、そこはいつもと変わりない見慣れた路地。電話ボックスは? 辺りを隈なく見渡しても何もない。あるのはいつもの薄暗い公園だけだった。

◆◇◆

「ただいま……」

悶々としながら帰宅すると、一気に疲れがきた。さっきのあれは何だったのか。
靴を脱ぎ、ジャケットをラックに掛け、朦朧(もうろう)としながらソファーに横たわる。あんなに叫んだのは何年ぶりだろう。何かに本気で気持ちをぶつけるなんて、きっと子供のころ以来かもしれない。すっかり忘れてた。胸に置いた手が熱い。まだ少し興奮が残っている。でも、息苦しくはない。むしろ頭の中がすっきりして、どこか心地いい。
働き始めてから変わり映えしない1ルームの部屋。
今度、掃除でもしようかな。そう言えば、この間のチラシにオンライン英会話のものがあった気がする。話だけでも聴いてみようかな。それから――。
程良い疲れに誘われて、ゆっくり瞼が下りていった。眠り際に見えた時計の針は、たしかそう。7時30分を少し過ぎていた。そんな気がする。
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