たまにはトマトジュースだって飲みたい

文字数 1,418文字

 わたしは吸血鬼になってしまったので、人の血を吸わないと生きていけなくなってしまった。もちろん私は途方に暮れる。いくら生きるためとはいえ人の血液を口の中に入れるのは抵抗があった。そんなことを言っている間にも血を吸えない私の身体は日々弱っていく。
 するとわたしの前に先輩が現れて自分の血を提供してもいいと言ってくれた。わたしは迷った挙げ句に、ありがたくそのご厚意に甘えることにする。先輩の血ならどうにか飲めそうな気がしたからだ。 
 先輩はシャツのボタンを外して、不健康とも思える真っ白な首筋をわたしに差し出した。ただ献血に来ただけみたいな澄ました顔をしている先輩をちらりと見てから、鋭く隆起した二本の歯を使って血を吸い始める。先輩の血は物静かな性格からは想像できないような、飲みごたえのあるどろっとした濃い味をしていた。わたしは下品にごくごくと音を鳴らして先輩の生き血を啜り続ける。おいしいと思ってしまう。私は自分がもう人間ではなくなってしまったのだと受け入れなければならなかった。
 先輩は毎日忘れずに血を恵みに来てくれた。その回数を重ねるたびに先輩の首筋には私の吸血の跡が増えていく。二つ並んだ小さな点のような傷跡。痛々しい傷ではあるし、本当に申し訳ないと思う。でも先輩とたまたますれ違った時にその傷跡と、いつも常備しているらしい鉄分が豊富に入った紙パックの飲み物を目で追うとわたしはたまらなく幸せな気分になる。
 しかしある日突然、わたしは吸血鬼から人間に戻ることができた。隆起した歯は元通りに引っ込み、人の血を飲みたいなんて微塵も思わなくなった。
 真っ当な人間に戻れたのは喜ばしいことだ。わたしは陽気なステップを踏み、吸血鬼ではなくなったと先輩に報告しに行く。するとまだ何も知らない先輩はいつものようにわたしに血を恵みに来てくれていたようで、シャツのボタンを外してわたしのことを待っていた。
 それを見たわたしはどうにかおかしくなってしまったらしく、もう血はいらないのに先輩の首筋に唇をつけてしまう。歯は立てることはできない。ただ先輩の皮膚に口をつけているだけだ。だからそこには不細工なキスマークが完成した。
 冷静さを取り戻し、普段とは明らかに違う吸血の跡に動揺するわたしをよそに先輩はなにも気づく様子はなくそのまま首筋にキスマークを残して帰っていってしまった。

 あとに引けなくなったわたしはそれから一週間も吸血鬼のまねごとを続けていた。そんな時、先輩と廊下ですれ違う。先輩は友達と話しながら歩いていてこちらには気づいていないようだった。
 わたしはいつものようにさりげなく先輩の方を見て首筋にあるものを確認する。もちろんそこにはいくらか形のまともになったキスマークがある。でも、その手に握られているのはいつもの鉄分がたくさん入った飲み物じゃなく、ただのトマトジュースだった。
 そしてタイミング悪くちょうど飲み物を口に運んだ時の先輩とばっちり目が合ってしまう。
「いつものやつ飲んでないんですね」とわたしは小さな声で訊ねる。
 たまには真似をしてみたくなってさ、と先輩は笑って言う。
 なんだ、気づかれたわけじゃないのか。わたしは肩をなで下ろして先輩とは逆の方向に歩いて行く。するとわたしの背中に先輩の声が届いた。
「それにだってもう必要ないでしょ」
 わたしは自分の体温がみるみると上がっていくのを感じる。
 もう先輩の方を振り返ることはできない。



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