梅の花の咲く丘で

文字数 1,247文字

 いつか分かり合えるかもしれないと思っていた人は、結局分かり合えないまま、またどこかへといってしまった。

 ささくれ立った畳の表面をじっと見つめる。古くてあちこち傷んではいたけれど、家主が丁寧に生活していたのが伝わってくる家だ。雑然としたあの頃の部屋とは、別の人が住んでいたかのようだった。

 強風に煽られれば壊れてしまいそうな、頼りないガラス戸を開けて縁側へと座る。まだひんやりとした風が梅の花の香りを運んできた。
 こんもりとした緑の上に鳥たちの影が舞う。老人ばかりが住むこの山間の村と、記憶の中のあの人が、どうも上手く結びつかない。

 悲しみはなかった。しらせを受け取った時、その時がきたのかと淡々と思っただけだ。
 そんな僕の心のうちなど知らずに、記憶よりもずっと小さくなったあの人は微笑みを浮かべ、集まった人たちに別れを惜しまれていた。

「一度だけ、話してくれたことがあったんよ」

 近所に住むというお婆さんが、去り際にぽつりと言った。

「あの子に申し訳ないことした、てな。……けど、ゆるしてくれなんて言えんて。それは、自分が楽になりたいてことでしかない、て」

 そんなこと、僕には一度も言ったことなかったくせに。
 玄関の引き戸がガタガタといいながら閉まり、お婆さんの姿が見えなくなっても、僕の心は凍ったように動かなかった。
 けれども年月や、あるいは根を下ろす場所として選んだこの村にあるあたたかさが、人を変えることもあるのだということは、頭ではわかる。

 その時、ちりんと音が鳴った。
 顔を向けると、黒と白の混じった猫が、こちらを真っ直ぐに見ている。赤い首輪をつけていた。
 戸棚にキャットフードがあったのを思い出し、僕は一旦部屋の中へと入る。戻ってくるまで、猫は大人しく待っていた。
 置きっぱなしになっていた銀色のボウルへと袋の中身を注ぐ。カラカラと鳴る音を目を細めながら見ていた猫は、手を止めるとすぐに駆け寄ってきて、必死でフードに噛りついた。
 これからこいつはどうなるんだろうか。あの頃とは違って、誰かにあとを託しているかもしれないけれど。
 そう思いながら眺めていると、顔を上げた猫と目が合った。

「一緒に来るか?」

 思わず口をついて出ていた。猫はひとつ、にゃあと鳴いた。
 抱き上げると、その体はつやつやと肌触りがよく、あたたかかった。
 猫が身をよじるとまた、ちりん、と音がする。首輪に取り付けられた花模様の入った鈴は、土ぼこりで汚れていた。

 修学旅行で、一度だけ土産を買って帰ったことがある。喜ぶ顔を期待してたわけではないけれど、興味なさげに部屋の隅へと転がされているのを見た時は、それでも辛かった。
 あの鈴は、あれからどうしただろうか。よく覚えていない。

 スマートフォンが震える。ポケットから出すと、上司からの連絡だった。
 僕もそろそろ、自分の日常へ帰らないといけないようだ。


 ――さようなら。
 
 あなたのことをまだ理解できたわけじゃないけれど。
 僕は、あなたの愛した命を守っていこうと思います。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み