第1話
文字数 3,176文字
拓波には、何を考えているのか周りの人間に悟らせない雰囲気があった。妹である私も、兄の奇行の源はどこにあるのかてんで想像がつかない。
つい数分前までソファに座って本を読んでいたかと思えば、急に立ち上がり窓の外をじっと見ている。
「拓波、何見てるの」
私が話しかけると、拓波は私のほうは見ずに
「魚」
と言った。
「魚?」
窓の外は庭になっていて、ガーデニング好きの母が植えた色とりどりの花が、降り出した雨に打たれていた。池などはなく、もちろん魚もいない。それでもなお、拓波は目を爛爛と光らせて窓の外を見つめている。
私は、雨粒が花や葉にぴちょんと当たるところが、魚が跳ねる姿に似ていると言えば似ているかなあ、と思うくらいだ。拓波の見る世界は私にはさっぱり理解できない。でも、きっと綺麗なんだろうな、ということはなんとなくわかる。
拓波は他の人よりも感受性とやらが強いらしい。これは母が拓波を精神科に連れて行った時に、お医者さんから言われたことだそうだ。十七にもなる息子を〝正常〟にしようと、母は躍起になって精神科や心療内科をまわり、精神障害の専門書を読み漁っていた。けれど、そんなことで拓波の行動が変わるわけもなかった。
窓の外を一心不乱に眺める拓波の横顔には、いつの間にかかすかな笑みが浮かんでいた。
「色葉、ちょっと来て」
学校から帰った私を、深刻そうな顔をした母が呼んだ。何事かと思ったのが半分、もう半分は拓波がまたやらかしたんだろうと思っ
た。
リュックを背負ったままリビングに入ると、母が眉間にしわを寄せて一枚のプリントを私に手渡してきた。
「これ、お兄ちゃんの」
やはり拓波絡みだったか。私はプリントを受け取り、内容を見た。
「これテスト? 白紙じゃん」
数学の証明問題と、数問の計算問題だった。だが、答えは書かれていない。先生がつけたのだろう、赤ペンでハネられたあとと、名前の記入欄に「名前忘れ」と書かれてある。
「どうしたのかしら。あの子、勉強はできるほうなのに。テストの点もいつもいいのよ」
母は困り果てた顔でため息をついた。わからなかったわけではないだろう。名前すら書いていないということは、拓波は意志を持って空欄にしたのだ。
「ねえ、色葉から聞いてみてくれない? あの子、私とはお話ししてくれないのよ」
「私ともそんなに話さないけど」
「そんなことないわ。色葉とは喋ってるじゃない」
「そうかなあ。まあいいけど。拓波は部屋?」
「そうよ」
私はリビングの隣の自室にリュックを置き、二階にある拓波の部屋に向かった。
コツン。
ノックというより、指先が当たっただけの素っ気ない音とともに、私は拓波の部屋に入った。どうせ黙って入ったって、何も言わないのだから。
「何、これ」
部屋中、白い紙で埋め尽くされていた。よく見るとA4版のプリント用紙だった。床も勉強机の上も紙に覆われて真っ白だ。
「拓波、どうしたの、これ」
私は、その白い床の上で仰向けになりながら両手を天井に伸ばしている拓波に問いかけた。拓波は何も言わない。ただ天井を見て、
満足そうな表情を浮かべている。
「ねえ、拓波。何これ」
私は諦めず、拓波の横にしゃがみ込んで聞いた。それでも拓波は何も答えない。仕方がないから、私は想像してみた。拓波は何を見て、何を感じているのか。
白い紙。床にも机にもばら撒かれた、ただの紙きれ。白いということに意味があるのだろうか。
「見えるんだ」
ふいに拓波が口を開いた。急に喋り出すから驚いた。
「え、何が」
拓波は酔いしれたように目を閉じると、天井に伸ばした両手をゆらゆらと揺らした。
「雪」
それはまるで、薄く降り積もった雪を撫でているかのようなやさしい手つきだった。
「雪……」
拓波は白い紙を雪に見立てていたのだ。
「ねえ、だからってこんなにたくさんの紙……」
「色葉ちゃんにも、見せてあげる」
私の言葉を遮って、拓波はむくりと起き上がった。両手を差し出してくる。
「何?」
その手をどうしてよいのかわからず戸惑っていると、拓波はにっこり微笑んで私の両手をそっと握った。
「ね、見えるでしょう」
そう言って目を閉じた拓波を真似して、私も目を瞑る。
しばらくの間そうしていたけれど、私には何も見えてこなかった。目を薄く開けてみても、拓波の微笑んだ顔が見えるだけだ。拓波の感じる世界を、私はやっぱり感じることができないのだ。それはひどく寂しいことだった。こんなに近くで、実際に触れてもいるのに、拓波の見えているはずの世界が私には見えない。拓波をこんなにも幸せそうな顔にす
るなんて、よっぽど美しい世界なのだろう。
「拓波、私には見えないよ。拓波の見てるもの、見えないんだよ」
拓波は目を開いた。私はきっと傷ついたような顔をしていたのだろう。両手を離した拓波は、右手を私の頭の上に乗せた。ポン、ポンと不器用に撫でられる。
されるがままにじっとしていると、拓波は立ち上がって勉強机の脇に置いてあった通学鞄をごそごそとまさぐりだした。一枚のプリントを取り出すと、私の前にしゃがみ込んだ。
「これ……」
英語のテストのプリントだった。さっき母に見せられた数学のテスト同様、白紙だった。もちろん名前も書いていない。
「何で何も書いてないの?」
拓波の穏やかな顔を見つめながらそう聞いた。
「雪」
なおも雪と言う。拓波はまた私の頭に手を
置いて、
「想像、して」
と言った。左手で、英語のテストのプリントを指差す。
「空欄、雪、ぜんぶ」
拓波は頭に置いた手をすっと私の目元に移動させた。拓波の手で視界が暗くなる。目を閉じろということらしい。
「色葉ちゃんの、世界、だよ」
私の、世界?
雪だ。雪が積もっている。真っ白でふわふわで綿菓子みたいだけど、口に入れたらただの水になってしまう。しかも、ちょっと苦い。
空は晴れているのに、ちらちらと雪が舞っている。天気雪、って言葉あるのかな。
気温はすごく低いのがわかる。顔がぴしぴしと軋んでいるから。でも、私は走りだした。
雪! 真っ白な大地! 何にもない、私だけの白い世界!
私は目が眩みそうなほど白い大地にごろんと仰向けに寝転んだ。空がどこまでもどこまでもあって、真っ青で、大地の白によく映えた。時おり、風に運ばれて雪が粉みたいに舞い上がる。それを掴もうと、私は空に両手を伸ばした。
あ、と私は思った。さっきの拓波と同じ仕草を、想像の中の私はしていた。天井に手を伸ばしていた拓波も、心は空に向かっていたのかもしれない。
急に両手が熱く感じられた。ゆっくり目を開けると、拓波が私の両手を握っていた。拓波の温度が伝わってくる。手が霜焼けになったみたいに、じんと熱かった。
目を開けた拓波に、
「見えたよ、私にも。雪の世界」
と言った。拓波はくせ毛の髪をくしゃくしゃっと掻いて、
「色葉ちゃんの、世界」
と言った。
「想像、ぜんぶ、色葉ちゃんの世界」
そうか。私が想像したのだから私の世界か。
「そうだね」
と言うと、拓波は満面の笑みで頷いた。
拓波はきっと、テストの解答欄に雪を見つけたのだろう。真っ白でふかふかの、雪。答えを記入することは、白銀の大地を泥の染み込んだ靴で走り回るのと同じことだ。せっかくの雪が、汚れてしまう。だから、答えを書かなかった。
私の推測を母に話すと、
「あなたまで変なこと言って……」
と大袈裟なため息をつかれた。でも、母にもきっとわかるのに。拓波の世界を見ようとするんじゃなくて、自分の見える世界を拓波と共有するんだ。拓波の空欄を見て、私がしばらく白い余韻に浸っていたみたいに。
つい数分前までソファに座って本を読んでいたかと思えば、急に立ち上がり窓の外をじっと見ている。
「拓波、何見てるの」
私が話しかけると、拓波は私のほうは見ずに
「魚」
と言った。
「魚?」
窓の外は庭になっていて、ガーデニング好きの母が植えた色とりどりの花が、降り出した雨に打たれていた。池などはなく、もちろん魚もいない。それでもなお、拓波は目を爛爛と光らせて窓の外を見つめている。
私は、雨粒が花や葉にぴちょんと当たるところが、魚が跳ねる姿に似ていると言えば似ているかなあ、と思うくらいだ。拓波の見る世界は私にはさっぱり理解できない。でも、きっと綺麗なんだろうな、ということはなんとなくわかる。
拓波は他の人よりも感受性とやらが強いらしい。これは母が拓波を精神科に連れて行った時に、お医者さんから言われたことだそうだ。十七にもなる息子を〝正常〟にしようと、母は躍起になって精神科や心療内科をまわり、精神障害の専門書を読み漁っていた。けれど、そんなことで拓波の行動が変わるわけもなかった。
窓の外を一心不乱に眺める拓波の横顔には、いつの間にかかすかな笑みが浮かんでいた。
「色葉、ちょっと来て」
学校から帰った私を、深刻そうな顔をした母が呼んだ。何事かと思ったのが半分、もう半分は拓波がまたやらかしたんだろうと思っ
た。
リュックを背負ったままリビングに入ると、母が眉間にしわを寄せて一枚のプリントを私に手渡してきた。
「これ、お兄ちゃんの」
やはり拓波絡みだったか。私はプリントを受け取り、内容を見た。
「これテスト? 白紙じゃん」
数学の証明問題と、数問の計算問題だった。だが、答えは書かれていない。先生がつけたのだろう、赤ペンでハネられたあとと、名前の記入欄に「名前忘れ」と書かれてある。
「どうしたのかしら。あの子、勉強はできるほうなのに。テストの点もいつもいいのよ」
母は困り果てた顔でため息をついた。わからなかったわけではないだろう。名前すら書いていないということは、拓波は意志を持って空欄にしたのだ。
「ねえ、色葉から聞いてみてくれない? あの子、私とはお話ししてくれないのよ」
「私ともそんなに話さないけど」
「そんなことないわ。色葉とは喋ってるじゃない」
「そうかなあ。まあいいけど。拓波は部屋?」
「そうよ」
私はリビングの隣の自室にリュックを置き、二階にある拓波の部屋に向かった。
コツン。
ノックというより、指先が当たっただけの素っ気ない音とともに、私は拓波の部屋に入った。どうせ黙って入ったって、何も言わないのだから。
「何、これ」
部屋中、白い紙で埋め尽くされていた。よく見るとA4版のプリント用紙だった。床も勉強机の上も紙に覆われて真っ白だ。
「拓波、どうしたの、これ」
私は、その白い床の上で仰向けになりながら両手を天井に伸ばしている拓波に問いかけた。拓波は何も言わない。ただ天井を見て、
満足そうな表情を浮かべている。
「ねえ、拓波。何これ」
私は諦めず、拓波の横にしゃがみ込んで聞いた。それでも拓波は何も答えない。仕方がないから、私は想像してみた。拓波は何を見て、何を感じているのか。
白い紙。床にも机にもばら撒かれた、ただの紙きれ。白いということに意味があるのだろうか。
「見えるんだ」
ふいに拓波が口を開いた。急に喋り出すから驚いた。
「え、何が」
拓波は酔いしれたように目を閉じると、天井に伸ばした両手をゆらゆらと揺らした。
「雪」
それはまるで、薄く降り積もった雪を撫でているかのようなやさしい手つきだった。
「雪……」
拓波は白い紙を雪に見立てていたのだ。
「ねえ、だからってこんなにたくさんの紙……」
「色葉ちゃんにも、見せてあげる」
私の言葉を遮って、拓波はむくりと起き上がった。両手を差し出してくる。
「何?」
その手をどうしてよいのかわからず戸惑っていると、拓波はにっこり微笑んで私の両手をそっと握った。
「ね、見えるでしょう」
そう言って目を閉じた拓波を真似して、私も目を瞑る。
しばらくの間そうしていたけれど、私には何も見えてこなかった。目を薄く開けてみても、拓波の微笑んだ顔が見えるだけだ。拓波の感じる世界を、私はやっぱり感じることができないのだ。それはひどく寂しいことだった。こんなに近くで、実際に触れてもいるのに、拓波の見えているはずの世界が私には見えない。拓波をこんなにも幸せそうな顔にす
るなんて、よっぽど美しい世界なのだろう。
「拓波、私には見えないよ。拓波の見てるもの、見えないんだよ」
拓波は目を開いた。私はきっと傷ついたような顔をしていたのだろう。両手を離した拓波は、右手を私の頭の上に乗せた。ポン、ポンと不器用に撫でられる。
されるがままにじっとしていると、拓波は立ち上がって勉強机の脇に置いてあった通学鞄をごそごそとまさぐりだした。一枚のプリントを取り出すと、私の前にしゃがみ込んだ。
「これ……」
英語のテストのプリントだった。さっき母に見せられた数学のテスト同様、白紙だった。もちろん名前も書いていない。
「何で何も書いてないの?」
拓波の穏やかな顔を見つめながらそう聞いた。
「雪」
なおも雪と言う。拓波はまた私の頭に手を
置いて、
「想像、して」
と言った。左手で、英語のテストのプリントを指差す。
「空欄、雪、ぜんぶ」
拓波は頭に置いた手をすっと私の目元に移動させた。拓波の手で視界が暗くなる。目を閉じろということらしい。
「色葉ちゃんの、世界、だよ」
私の、世界?
雪だ。雪が積もっている。真っ白でふわふわで綿菓子みたいだけど、口に入れたらただの水になってしまう。しかも、ちょっと苦い。
空は晴れているのに、ちらちらと雪が舞っている。天気雪、って言葉あるのかな。
気温はすごく低いのがわかる。顔がぴしぴしと軋んでいるから。でも、私は走りだした。
雪! 真っ白な大地! 何にもない、私だけの白い世界!
私は目が眩みそうなほど白い大地にごろんと仰向けに寝転んだ。空がどこまでもどこまでもあって、真っ青で、大地の白によく映えた。時おり、風に運ばれて雪が粉みたいに舞い上がる。それを掴もうと、私は空に両手を伸ばした。
あ、と私は思った。さっきの拓波と同じ仕草を、想像の中の私はしていた。天井に手を伸ばしていた拓波も、心は空に向かっていたのかもしれない。
急に両手が熱く感じられた。ゆっくり目を開けると、拓波が私の両手を握っていた。拓波の温度が伝わってくる。手が霜焼けになったみたいに、じんと熱かった。
目を開けた拓波に、
「見えたよ、私にも。雪の世界」
と言った。拓波はくせ毛の髪をくしゃくしゃっと掻いて、
「色葉ちゃんの、世界」
と言った。
「想像、ぜんぶ、色葉ちゃんの世界」
そうか。私が想像したのだから私の世界か。
「そうだね」
と言うと、拓波は満面の笑みで頷いた。
拓波はきっと、テストの解答欄に雪を見つけたのだろう。真っ白でふかふかの、雪。答えを記入することは、白銀の大地を泥の染み込んだ靴で走り回るのと同じことだ。せっかくの雪が、汚れてしまう。だから、答えを書かなかった。
私の推測を母に話すと、
「あなたまで変なこと言って……」
と大袈裟なため息をつかれた。でも、母にもきっとわかるのに。拓波の世界を見ようとするんじゃなくて、自分の見える世界を拓波と共有するんだ。拓波の空欄を見て、私がしばらく白い余韻に浸っていたみたいに。