幸せで、不幸せ

文字数 4,600文字

 黒く縁取られた世界で彼女が俯く。
 それと同時にその肩が少し落ち、小さく溜息をついたことが分かる。
 これが日課になって何日が経っただろう。最初のうちは日数を数えていたが、五日を超えたあたりから分からなくなった。元から日数感覚も曜日感覚もない生活なのだから仕方がない。
 頭と左目を覆うように包帯を巻いたその横顔を、今日一日分瞳に焼き付ける。今となっては、以前はこれなしにどう生きていたのか分からなくなってしまった。
 横顔に重なるように見える十字線が邪魔なのだが、これ無しでは彼女は空に浮かぶ星のような大きさにしか見えないので、苦肉の策として少しだけ十字線をずらし、線が重ならないようにする。
 できればずっとこうしていたい。
 だが、やはりその至福の時間を破るのは、分厚い壁越しに聞くようなざらついた無線越しの声だった。
 規則で定められたとおりの返事をして、覗き込んでいたスコープから目を離す。
 視界いっぱいの砂まみれの景色が反射した陽光で一瞬視界が白く染まり、網膜に焼き付けていたはずの彼女の横顔と共に、すぐその白色は消え去る。
 大きく溜息をついてから、目を閉じてもいつも通りリロードができるくらいには使い慣れてしまった狙撃銃を肩にかけ、無いよりましといったヨレヨレの帽子を被りなおす。
 恐らく、俺の行動は世間一般で言うストーカーと捉えられても文句は言えないのだろう。
 勿論こちらからはスコープ越しに様子を見る事しかできないし、彼女に気が付いてもらえるようなことなど物理的にできる訳も無いのだが、それを否定するつもりは無い。
 もしかすると、これは恋と言ってもいいのかもしれない。
 文学作品や音楽作品で語られるような熱かったり酸っぱかったりするものはないし、こんな毎日の中で摩耗した精神が現実逃避気味に見出したものなのかもしれないけれど、これを恋と呼ぶ自由くらいは認められていいはずだ。
 それに、今更余罪の一つや二つ、何という事はない。
 この戦争だけで、もう両手では数えきれないだけの敵兵を殺めたのだ。俺の両手はすでに血まみれ。そんな人間が清廉潔白なまともな行動、まともな人間なんて言うものを目指したって滑稽なだけだろう。
 そして、そんな人間が岩陰で出会った手負いの敵軍の女の子を見逃したからといって、今までの罪が相殺されるほどこの世界の神様ってものは甘くない。それは今までの短い人生で嫌というほど教え込まれている。
 それに、俺が聖人君子だというわけでもない。もしあそこで呻き声を上げていたのが四肢を投げ出した女の子ではなく機関銃を抱え込んだ男なら、きっと迷いなく撃っていただろう。そういう事だ。
 だから、俺はただ空いた時間で彼女の生存を確認し、彼女が誰かに殺されないことを願う。
 彼女ために何かできるわけではない。ただ、信じてもいない神様に願うだけ。
 そのためなら、友軍が壊滅したっていい。
 彼女が俺の知った人間を殺したってかまわない。
 彼女が明日も生きて、笑っているのならば。
 その笑顔が俺に向けられているのは俺ではないし、俺にはその笑顔を向けられる権利も無い。
 彼女の物語において俺はエキストラにすら入れない舞台の外の敵兵Aで、きっと彼女の物語にはきちんとした名前付きの登場人物が別にいるはず。
 これがお話ならば劇的な出会いからの駆け落ちとだとか、二人っきりでの逃避行だとか、そういった何かが起きるんだろうけど、そんな都合のいい世界なら俺は戦場にいるわけもない。
 きっと彼女の物語におけるヒーローは別にいて、彼女の物語は俺の知らないところで進んでいく。俺がそこに登場することは彼女が自力で作ってきた物語を破壊することに他ならない。
 だから、俺はその物語に割って入ろうなんてことは思わない。
 ただ、今日もシンプルな十字線越しに彼女の幸せを願う。
 見守るというのもおこがましい。ただ、彼女がどこかで笑っていられるのならいい。
 ここが戦場でなければ、毎日こうやって彼女がこの世にいる事を確認する必要もないのに。
 けれどここでは人の命なんて毎日何十枚と飛び交う命令書の紙切れよりも軽いから。
だから俺はこうやって、秘密の場所から毎日スコープ越しに彼女の笑う顔を確かめる。


 その日も、そんなありふれた、薄曇りの日だった。
 もはや何月の何日なのかすら分からない。朝夕が冷え込んできたので10月ごろなのだろうかとも思うが、確認する必要も無いので確かめていない。
 唯一普段とは違ったのは、新しい迷彩服が支給されたことか。
 迷彩服なんて新調するくらいならばもうちょっとましな飯と安定してお湯が出るシャワーが欲しいのだが、言ってどうにかなるものでもないので汗臭い前の迷彩服とお別れできるだけありがたいと自分を納得させる。
 カメラの画像識別に引っかからないという触れ込みの、むしろ肉眼では目立ちそうな幾何学模様のその服に身を包んで、いつものように彼女の事を見られる場所に行く。
 本来なら任務時間外はボロボロの宿舎で待機していなければいけないのだが、宿舎以上に崩れきったここの上官達にいちいち部下全員の所在を確認するほどのやる気がある訳もない。
 もはや目をつぶっても行けるほどに行き慣れたその場所にはすぐに辿り着き、立ち止まって少し迷ってからいつもより十メートルほど更に近づき、手早く狙撃銃を地面に置いてスコープに目を寄せる。
 なぜ近づいたのかは自分でもわからない。
 気まぐれ、というやつだろう。
 もちろん、狙撃銃に初弾は装填していない。何かの拍子に彼女の頭を撃ち抜いてはいけないから。もし今敵兵に見つかったのならば間違いなく死ぬだろうが、背に腹は代えられない。
 彼女を見つけるのには一分もかからなかった。
 数か月以上の間に渡って毎日通っていれば、嫌でも行動パターンくらいは覚えてしまう。
 見つけるのに時間がかかる日は心臓にも悪いので、早く見つけるに越したことは無いのだ。
 今日も彼女は浮かない顔をしているが、時折雲の隙間からちらりと覗く月のような、控えめな笑顔を浮かべる。
 その笑顔の理由は分からない。誰かと話したり会ったりするわけではなく、むしろそれこそ周りに誰もいないような時に限って、彼女は笑顔を浮かべる。
 何か幸せなことでも思い出したり考えたりしているのだろうか。
 彼女の物語には考えるだけで笑顔になれるような物があるのだろうか。
 きっとあるのだろう。そう思いたい。何もない形だけの笑顔なんて悲しすぎるから。
 俺がその何かになれたらと思わないと言えば嘘になるが、それを実際に望めるだけの希望と楽観的思考はずいぶん前にどこかに置いてきてしまった。どこになのかは、さっぱり分からない。取り戻すことも叶わない。
 それに、彼女が幸せに思えるのなら、それ以外は何だってどうなたって構わない。
 俺だって例外ではない。俺がどう思うかは関係ない。
 恋って何、と幼いころ大人に聞いたら、誰かを大切に思う事だ、と言われた。恋ではなくて愛だったかもしれないか、同じことだろう。誰かを大事に思う事が恋や愛なら、相手の幸せより自分の幸せを望んだらそれは恋でも愛でもない。
 ささやかな笑顔を浮かべるその瞬間の彼女が少しでも幸せであることを願いながら、右手でスコープの倍率を上げる。
 
 そして。
 
 どうやら、今日は要りもしない迷彩服が配られただけのありふれた日ではなかったらしい。
 黒い縁取りの中に浮かぶ彼女の控えめな笑顔をいつものように脳裏に焼き付けるために、丁度良い体勢を探して体をもぞもぞと動かして。
 その瞬間。
 今日の日付、確かめてくればよかったな、と思い。
 彼女がせめて今日の日付を知っていればいいな、と思い。
 黒く縁取られた世界の中で、初めて彼女と視線が交差した気がして。
 彼女が素早く持ち上げた、滑らかな曲線で構成されたその埃っぽく汚れた銃の内側に刻まれたライフリングまで見えたような気がした。
 それを見て最初に浮かんだ感情は恐怖でも不安でも驚きでもなく、喜びで。
 先も見えないこの毎日に終止符を打ってくれるのが名も知らぬ敵兵ではなく彼女であることに安堵している自分がいて。
 何もせず見ないふりをしただけの敵兵Aが彼女の物語を歪めてはいなかったという事が嬉しくって。
 その銃口が橙色に輝いた瞬間に、ふと浮かんだ言葉を誰ともなく呟こうと口を開き、
「―――――


***


 視界の端で動いた何かに、短くない軍隊生活で身についた反射神経で短い連射を叩きこんでから、少女は目を細めてそちらをじっと見つめる。
 カメラなどを意識した迷彩によく見られる色。遠隔操作の無人兵器か何かだろうか。少し考えてから、弾丸は当たったのだから考える意味もないな、と少女は再び歩き始める。
 金属と電子部品でできたあの四つ足の機械の獣には殺されてやらないと、数か月前のあの日から決めているのだ。
 この距離で反射的に撃った弾が当たったのは奇跡とまではいかないもかなり運のいいことだが、事が事だけに嬉しさは殆どない。珍しくてもおみくじで大凶を引いて喜ぶ人間はいないのと同じだ。もしかすると喜ぶ人もいるのかもしれないが、少なくとも少女にとっては大凶は喜ぶべきものではない。
 頭を小さく振ってつまらないことを頭の中から追い払ってから、今日はまだだろうか、と少女は首を動かさずに見える範囲の中を見渡す。
 少女が人気のいないところを歩いているのには訳がある。
 正確に言えば、少女が歩いているところは他の人間は歩きたがらないのだ。
 外に狙撃手がいたら真っ先に頭に鉛弾が飛び込んでくる位置だから。生きたいという意思が無くても、死にたいという意思もない大多数の兵士たちは、本能に従ってここを避ける。
 そして、少女はいつもここを見ている敵軍の狙撃手がいることも知っている。
 何ならその顔も、独り言を呟く声も。
 今日は彼は来ないのだろうか。
 たまに見当たらない日もあるが、彼は基本的には毎日このくらいの時間帯にやってくる。
 その疲れたような立ち姿と、決して軽くない傷を負っていた彼女を見下ろす迷ったような眼差しを思い出して、少女は小さく微笑む。きっと、私の事は死体だと思っていたのだろう。
 彼は見ているだろうか。
 いつになったら私の頭に紡錘形をした鉛製の希望を届けてくれるのだろう。
 彼のおかげで、殺されるのも嫌だが生きるのも辛いこの日々に、新たな選択肢が生まれた。
 この出会いを、出会いと言っていいのかも分からないが、何と呼べばいいのかは分からない。
 自分でもよくわからない感情なのだから恋と呼んでもいいような気がするが、少し違うような気もする。
 一番しっくりきている言葉を選ぶのならば、このことは運命だと思う。
 もちろん、運命なんてものを信じているわけではない。だからこの呼び方は正しくはないのだろうけど、運命という言葉はこの偶然に意味を与える言葉としては今のところ最も適切だ。
 彼がこのうんざりするような毎日に終止符を打ってくれるはず。だから私は生きられる。
 今日は、彼は来てるだろうか。
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