第1話

文字数 2,000文字

 日葦十五(ひあしじゅうご )は新世界図書館に身を置く公務員である。本が好きな男だが、司書ではない。そもそも本職は別にある。
「日葦さん、一般窓口にお客様が」
「そう」
 おどおどした職員が呼びに来ると、日葦は自分の太腿ほどもある分厚い本を閉じた。栞は挟まない。ここに書いてあることは、もうほとんど頭に入っている。
「予約はあったんだっけ?」
「ありません。ああいう人たちは、いつも突然おかまいなしで」
「村田くん、そうした言い方は良くない。彼らは選ばれた者だけが住める新世界自治区の住人なんだ」
 日葦は穏やかに指摘した。村田と呼ばれた職員が黙って頷く。彼と本に見送られ、日葦は窓口へ向かった。

「いかがなさいましたか?」
「遅い!」
 室内へ入るや否や、飛ぶ怒号。これはそうとう苛ついている。よほど腹に据えかねる案件を持ち込んだに違いない。最もここへ訪れる客の大半は、たぎる正義に胃の腑を燃やして、呑気な公務員の喉笛を今にも噛みちぎらんといきり立っている者ばかりだ。
「お話しは伺います。どうぞご用件を」
「当然だ。税金泥棒のお前らがろくな仕事をしないから、こうやって私たちが活動しているんだ」
 本日の客はまだ三十にも満たない若い女性だったが、ずいぶんと固く横柄な口調で捲し立てた。ここの客にはそこそこ年配の男性が多かったが、彼女の喋り方は彼らと似ている。性別や年齢よりも今の時代、ことばは人間の性質に左右されがちなのかも知れない。
「それはご足労いただき恐縮です」
「はんっ」
「先に書類を拝見いたしましたが、ご指定の本は当館の蔵書でもありますね。本当にこちらでお間違いないですか?」
「だからお前たちは仕事をしてないと言うんだ。そんな(きたな )らしい本が公共の図書館にあるなんて信じられない。その著者はここに賄賂でも贈っているんじゃないのか」
 日葦は女性の暴言には応えず、手元の資料に黙々と目を通した。
 女性が指定してきた本も、すでに用意されている。少し暗めのオレンジを使った表紙には、不気味さと愛らしさを兼ね備えたモンスターがシンプルな線で描かれていた。小学生の高学年から中学生を中心に、最近かなり人気の出てきた児童書である。このタイミングで図書館に在庫があったのは運がいい。
「話題の本ですね。文字は多いものの挿絵もあって、低学年でも挑戦する子が……」
「この本は読んだ?」
「いえ、不勉強で。ベストセラーなのであらすじは把握しています。ご予約をいただけておりましたら、ご指定の本は事前に読み込んでおくのですが」
「本当に不勉強だ!」
 女性は、また日葦と図書館と社会を罵りはじめた。彼女の放つ言葉の数々から察するに、問題に気づかず彼女と同じ怒りを持たない者は、みな無知で愚かか、悪の手先に違いないらしかった。彼女はこの汚らしい世界で、一部の同志と共に孤独な戦いをしているそうである。
 日葦はオレンジ色の本を持ち上げてみせた。
「感動しました。お客様は、まるでこの物語の主人公のようではないですか。彼はハロウィンの夜だけを繰り返すモンスターの村に生まれて、おばけに悪戯される人間を救い続ける孤独なヒーローだ」
「だから何? そんなものと現実を一緒にするな!」
「お客様のご要望はこちらの本を“禁書指定”とされること。訴えられるからには読了されてのことと存じますが、主人公に感銘を受けたりはなさいませんでしたか?」
 女性は憮然としたようすで立ち上がった。
「読むわけないでしょう、そんなもの」
「はい?」
「マーカーの箇所を見ていないのか。そこの書類の! その下劣なワードを目にして、それでも読もうという奴らの気が知れない。まして子供の目に触れるところに置くだなど!」
「……なるほど」
 日葦はふたたび書類に目を落とした。息を、静かに長く吸って吐く。それからおもむろにペンを持ち、流麗な筆致でサインをした。
「本件、受諾いたしました。ご指定の本を禁書とします。ただちに当館の棚から引き上げ、来月には全国的に禁書指定本としての扱いとなるでしょう」
 にこりと笑って宣言し、女性にサインの入った書類のコピーを渡す。すると彼女はわずかに頬を上気させ、ついに満足そうに帰って行った。

「やれやれ」
 残った日葦は椅子の背もたれに体を預け、天井を仰ぎ見た。
「失礼します」
 部屋に入ってきた村田が、書類を受け取る。
「またですか。新世界図書館の蔵書は減るばかりです。あの方も当分、ここから出られそうにありませんね」
「この区域は何かを禁止したい人々にとっては楽園さ。限られた箱庭で自分たちだけの首を絞めて、平和に暮らしていってもらおう。彼ら彼女らにとって、社会の結末は関係ない。むしろ腐敗( ・・)を糾弾することが娯楽だからな」
 実のところ、新世界図書館の禁書管理室はレジャー課に置かれている。そしてこの新世界自治区では、住人の幸せのために情報は区内だけでぐるぐる回っている。
 日葦の本職は住民管理長である。
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