第1話

文字数 2,440文字

 20代で文章を書くということについて。
 ぼくは今21だが、高校の頃から断続的に文章を書き続けている。形態とか、内容は変われど、とりあえず書き続けている。でも、周りの人には、「文章を書くのっておじいさんがやることでしょ?」と言われる。あまり、若い人が文章を書いても意味がないんじゃないかと。
 確かに、例えばエッセイは、過去を切り売りするものなので、年齢を重ねるほど、深みのあるものが書けるようになるのは間違い無いと思う。もちろん、若さを武器にするということもできるが、それならば10代の方が強い。
 エッセイコンクールを見ていると、入賞するのは、大概、立派な大人か、純粋な子供である。立派な大人は、いろいろなライフステージを経験し、そこから得た知見で優れたエッセイを書く。結婚とか、子育てと仕事の両立とか、親の介護とか、そういう経験を経れば、いやでも色々なことを学ぶ。そして、人間としての強さを獲得する。そりゃ、いいエッセイが書けるはずだ。
 純粋な子供の場合、例えば親と喧嘩をしたとか、部活の引退で涙したとか、そういうことを題材にする。そこには、社会の重苦しい空気から解放してくれるような清涼感がある。僕だって、そういうものを題材に色々とものを書いていた時期もある。あの頃書いたものを時たま見返すのだが、夢とか、未来とか、希望とか、やたらと明るいテーマの作品を書いていたのでちょっと恥ずかしい。あの頃は、自分を取り巻く世界がとても単純で、今後もそういった世界が広がっていると信じて疑わなかった。そのエネルギーはとても尊いものだ。いい作品が書けるはずである。
 その間にいる20代って、どういう年代なんだろう?
 ある文学賞の、年代別応募人数というものを見ていたのだが、驚くことに、20代がダントツの一位であった。20代は、特段売りもないくせに、文章だけは書きたがるという最悪の年代なのである。自分もその端くれとして本当に恥ずかしい。なんで、そんなことになるのだろう?
 思うに、20代というのは、初めて社会というものを肌で実感する時期である。バイトとか、就職活動とかはもちろんのこと、大学というシステムの中でも、「自分は何がやりたいのか?」「自分はどのように社会に貢献したいのか?」ということを繰り返し問いかけられる。それは、絶えず不安な時期である。自分を、社会というシステムの中に置き換えていかなければならないからだ。それに試行錯誤するうち、多くの人は、自分という存在がかんなで削られているような気分になるだろう。無駄なものを削り落とす、社会というかんなである。そして、ふと疑問に思う。これが正しいことなのだろうか? 自分という存在を削ってまで、社会に順応すべきなのだろうか? そこで生まれる第二の選択が、創作だと思う。創作は、一般に、自分という人間をさらけだせばだすほど良いとされている。そのような世界で一旗上げられれば、自分の存在を削らなくても済むのではないか? 20代に創作をする人が多いのは、おそらく、そういう心理があるからだと思う。
 それは、健全な心理だと思う。モラトリアムなどと言うが、社会に順応する不安というのは、誰にでもあるものだ。しかし、それに反して作品はあまりいいものがない。それは、20代が才能を売りにするからだと思う。よほどの天才でない限り、20代から読むに値するものなど書けない。一度、社会の中に飛び込んで、そこからいろいろなものを学ぶ方が、よほど人間として大きくなれる。
 実際、先の統計に戻ってみると、20代でピークを迎える応募総数は、ほとんど単調に減少していく。20代で、芽が出なかった人が、書くのをやめてしまうのだろう。それはちょっと悲しいことだが、書くというイニシエーションを通して、その人が大人になったと考えれば、それほど悪いことでもないのかもしれない。問題なのは、例えば60歳になってから、もう一度書いてみようという人が少ないことである。確かに、今さら書いたって仕方がないという思いもあるだろうが、様々な人生経験から得たものを、僕はぜひ読んでみたいと思う。そういう活動が活発になれば、もうちょっと文章の世界が盛り上がると思うのだけれど。
 さて、僕は21で、文章を書いている。応募もしているが、5つ送って、1つ当たればいい方である。1日に最低3回はポストを見て、入賞の知らせが来ていないかを調べる。この前、久々に封筒が入っていて、急いで中身を見たら電気料金の催促状であった。これほどみじめなことはない。
 僕はそれほど中身がある文章を書いているつもりはないし、才能があるなんてこれっぽっちも思っていない。でも、なぜか、文章を書くのは好きである。自分の文章でクスッと笑えると嬉しいし、書き終わるとすっきりする。逆に、書けないと不安になる。わりと、くだらないことをグダグダと考えてしまうタイプなので、出さないと落ち着かないのかもしれない。もちろん、先に書いたような、社会への不安もある。
 時々、僕は社会から逃げているだけなんじゃないかと思うことがある。バイトでミスをして、めちゃくちゃ怒られた時に、「これもエッセイで書けるな」と思ってしまう自分がいる。逆に言えば、そういう逃げ道を残しておかないと、社会と相対することができなくなっている。こんな風に、社会というものを直視しないまま、大人になるのかな? というか、そんなことで大人になれるのかな? 僕にはわからない。
 たまに、もし、と思うことがある。もし、僕のエッセイが誰かの目に留まって、連載が始まって、それでご飯が食べられるようになったら、もう誰にも怒られずに済むのかな? そうなれば、幸せなのだろうか? 逆に、それはそれで不安なのだろうか?
 僕にはわからない。今後、どうなるかなんて知ったこっちゃない。ただ、僕は今、書きたいから書いている。まだ、それが許されている。それでいいのかな。どうなんだろうな。
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