第2話

文字数 8,762文字

木倉が高橋に紹介したバイトは、新薬バイトだった。製薬会社が開発した新薬を商品にする前に人体で試してデータをとるのだ。木倉によれば、2~3日の間、そこの会社の施設に拘束されるが、やる事は薬を飲んで、たまに血を採ったりするだけだという。バイトの間は絶対安静が条件なので、ベッドで寝ているか、マンガなんかを読んでくつろいでいたら終了するとの事。
 面接の日、その日もスーパーのバイトが朝5時まであり、その面接は朝10時だった。一度家に帰っても良かったが、寝過ごしそうだったので、自転車でブラブラして時間を潰すことにした。スーパーは、市街地の北西の外れにあった。気ままに自転車を走らせると、
家の前を走る国道5×に出た。さすがにこの時間、交通は少ない。何やらもうすぐ、大きな大会が来るという事で、メイン会場の前を走るこの国道は、突貫工事がされている。元々あった歩道をぶっ壊して、レンガ風のおしゃれな歩道ができあがりつつあった。歩道の上にあったバス停も棒だけが立っていたのが、
屋根がついている。これらにも何十億という費用がかかっているのだろう。たかだか一週間前後の大会のためにそんな工事をするなら、
市街地から外れた山間部の道に歩道をつけた方がよっぽどいいと思う。自転車で通っていると、大型ダンプに轢かれそうになる所がいっぱいある。行政がやる事は、市民の望んでいる事からどうもずれている。まあ消費税位しか払っていない自分には何もいう権利はないのだが…。
 5×号をメイン会場を見ながら南に折れるとターミナル駅の前に出る。朝まで仲間と飲んでいたのか、千鳥足の若者がゲロを服に撒き散らしながら歩いている。駅前には、これまた大会の期間に合わせて建てたのだろうか、
地方都市に似合わないピカピカの高層ビルが周りの景色に馴染めないまま突っ立っている。
ゲロゲロ青年とピカピカビルのミスマッチに
何故か親近感を覚えた。
 そのまま駅前をパスし道なりに進む。道路は南から西へ進路を変え、景色は平凡な郊外へと移り変わる。それにしてもコンビニが多い。これだけあってよく潰れないものだ。代りに昔あった個人商店はどんどん消えているのだろう。24時間営業、年中無休のシステムはあっという間に広がった。次は何を売りにするのだろう。後は極端な価格競争しか残っていない気がする。
 さらに直進すると、二級河川にかかる橋があり、そこから道路は片側一車線となり、新幹線の高架が横を走っている以外は田園地帯が広がるのどかな風景になる。高橋は橋の手前で再び進路を南に取り堤防上の市道に走っていく。
 その道は高橋の定番のサイクリングコースになっていた。気分が低下したまま硬直状態になった時は、自転車で目的地を決めずにブラブラ走ると幾分マシになる事がある。この堤防の道の他にも色々走ったが、気がつくとここを走っている事が多かった。
 人は乗り物にいる時とトイレの中が一番考え事に集中できるというのをどこかで読んだ。
それはどういう事であろうか?何もしていないではなく、これといって何もしてないような感覚。何かしなければならないといった焦燥感から解放され余った頭が自由になるのではないか?難しく考えるとキリはなく、高橋は見慣れた風景をいつものように、ぼんやりしながら漕いでいた。
 堤防沿いに建つ町工場を見ながら、立体交差するバイパスの下を潜り抜ける。巨大な浄水施設がありそこを過ぎると川幅は急激に広くなり海に出た。サイクリングコースの終点だ。フェリーターミナルがあるがまだあるがまだ動いていない。急に島に渡りたくなるが面接があると気付く。道路を挟んだ西側の駐車場にある自販機でポカリを買う。旧式でオール百円だった。ポケットからフロンティアを取り出し一本吸う。木倉には軽いと言われたが俺はこれで十分だ。
 目の前の海は波がほとんどない。というよりフェリーターミナルの西側の海は締め切り堤防で仕切られているので、海というよりは大きな湖だ。ターミナルはそこから突き出すように東側に設置されている。漁船の汽笛を聞いていると時間の感覚がなくなる。黒猫がじゃれてきたので携帯をみると7時前だった。
ここに着いてから30分以上もいる事になる。高橋は自転車に乗ってターミナルを後にした。
 高校時代、数学で定理かなんかの証明をする時、よく教師が「行きはよいよい帰りはこわい」といったフレーズを連発していた。定理は成立する証明が終わった後、その定理が成り立たない事が成立しない証明をしなければならない。それが難しいところから来ているのだが、教師がそのフレーズを連発すると数学とは全く関係ない酔っ払いのおっさんが浮かんできた事を思い出す。
 自転車の場合、帰りはただだるいだけだ。
行きのどこまでも自由に走れるという気持ちと違って、家に帰るだけなので妙に醒めてしまうのかもしれない。行きに自由に走ったら走っただけ帰りもだるくなる。
 同じ道を帰るのは嫌なのでいつも違う道を選んで帰っていた。しかしこのルートの場合、余り遠回りせずに帰れる道は東側を走る幹線道路しかないので、今日は素直にその道で帰る事にした。この道で普通に走ると一時間でさっきのターミナル駅前に着いてしまう。面接の場所は駅から10分程の所なので8時過ぎには着いてしまう計算になる。面接は10時なのでなるべくゆっくりペースで帰ったが8時半に駅に着いてしまった。
 さっきのゲロはまだ残っていて駅員さんがそれを片付け始めるところだった。時間を持て余してもしょうがないので、一旦家に帰りシャワーを浴びてから行く事にした。国道5×号は駅方向に進む車で相変わらずの渋滞で、歩道の突貫工事のせいで余計にひどくなっている。その通勤ラッシュと正反対の方向に自転車を走らせる高橋は、社会にはじけ飛ばされていく様子とそれとをだぶらせている自分がいる事に気付いた。





 面接事務所はターミナル駅から自転車で10分ほど北に進んだ新幹線の高架のすぐ近くにあった。辺りは女子大が近くにあるという事で学生寮やアパートが建ち並んでいる。事務所はそれらにうまく馴染んでしまう位の小さなものだった。結局約束の10時の30分前には着いてしまった。思い切って入ると事務員がせわしなく動いている。「面接にきた者ですが…」と言うと「あっはい、えーと高橋さんですね。」と言い「もうそんな時間だったっけ?」とぶつぶつ言いながら奥の部屋に入っていった。
 それにしても小さな事務所だ。応接間にあたる部屋は広さ8畳程、部屋の左側に事務机といす、向かいに折りたたみ机とパイプ椅子が3つ置いてある。その間に人が通れるスペースがあり、奥の部屋に入るドアの正面に突き当たる。あの奥で薬の実験台になるのだろうか?事務所を外から見た感じでは小さなアパートといった感じだったので、奥のスペースもそう広くはないだろう。せいぜい15~20畳程だろう。十分といえばそうだが、病院のような所でやるものと思っていたので少し驚きを覚えた。いやきっとここは面接などだけをする事務所かもしれない。データを取ったりする所は他の大きな場所があるのか?
 さっきの事務員が戻ってきて折りたたみ机の傍に立った。
「では高橋さんこちらに座って下さい。」
目の前のパイプ椅子に座るように促す。
椅子に座ると先が欠けているのか斜めに傾いた。
「高橋さんは木倉君の紹介で来たんですね。」
「はい」
「見たところ健康そうですが最近大きな病気はしましたか?」
「いいえ特には」
ここ数年、一人暮らしをしてから食生活がずいぶん荒れてはいたが病気らしい病気はしていなかった。ただ前に比べて年中体がだるい感じはあったが。
「それじゃあ、このアンケート用紙に記入して下さい。分かる範囲でいいです。」
名前、生年月日、住所、連絡先などを書くと下にはここのバイトをどうやって知ったか、これまでの試薬バイトの有無、今までに患った病気を書く欄があった。
 高橋は小さい頃病弱でよく喘息の発作を起こしていた。夏になると汗で蒸れた皮膚はとびひになってじゅくじゅくになっていた。
 中学生に入る頃になると自然にそれらは収まっていったが、同年代の人で未だにアトピーなので皮膚炎になっている人を見ると他人事には思えない。
 喘息はアレルギーによって起こる。それは毛布についているダニだったり、スギの花粉だったり色々だ。それらが体内に入ると脳が敵だと勘違いして過敏に免疫システムを働かせてしまう。要は体が神経質なのだ。それは性格には関係ないが…。
 薬にもアレルギーがあるという事なので、
一応病気の欄には小児喘息と書いた。喘息に子供も大人もないが、大人が喘息になると死の危険が高いらしい。子供の頃の小児喘息が大人になっても治らない場合もあるし、大人になって急に発病する可能性もある。最後に喘息を起こしてから10年近く経っているから治ったのだと思うが、煙草なんか吸っているから気管にも相応のダメージがあるだろう。
それにしてもダニや花粉でアレルギーを起こすのに、体に悪いといわれる煙草はなぜ起こさないのか?自分の体ながらおかしなものだ。
いずれにせよ、あの苦しみは二度と味わいたくない。喘息で命を落とす苦しみは実際にはわからないが、それを想像するだけで息苦しい。死を望んでいる自分にそんな自由はないのかもしれないが…。
「書けました。」
「はい…。えーと喘息持ちなんですか?」
「でも子供の時なんで…。もう10年位なってません。」
「わかりました。それではですね…。この仕事の内容は紹介者から聞かれましたか?」
「そうですね。おぼろげには…。新薬の実験台になるんですよね?」
言った後でストレート過ぎる表現だったなと後悔した。
「まあ端的に言えばそうなるんですが、実験といいましても医学的な薬の安全性は、動物実験などを何重にも行ってすでに確立されています。その後で、その濃度をかなり薄めたものを実際人間に投与して病気にどのような効果があるかデータを取っていきます。なので、まず人体に影響があるような事はないと思いますのでご安心下さい。」
 高橋は今頃になってこのバイトに不信感を持つようになった。この圧迫している事務所の雰囲気も大きく関係しているのだろうが、一般に言われるこの裏バイトに対して何の情報も仕入れずフラフラと面接に来てしまった事に今更になって少し怖くなってきた。実際にバイトをしている木倉に勧められて気が緩んだのだろうか?高額なバイト料に目がくらんだのかもしれない。断ろうか?
「…以上で面接は終わりますが…。」
事務員の話は考え事をしている間に終わってしまったようでこちらの様子を伺っている。
高橋が何か考え込んでいるのが分かったのか「質問などはないですか?」と聞いてくれた。
「あの…僕は受かったんでしょうか?」
「そうですね。あとは血液と尿検査して異常がなければ採用となります。」
「今日は薬を使用したりはしないのですか?」
「検査の結果が分かるまでに一週間程かかるので今日は行いません。」
「そうですか…。分かりました…。」
「それでは検査は上の階で行いますので…。」
事務員は説明は終わったとばかりにその場から移動し始めた。
「最後にもう一つだけ…。どうしてこのバイトは一般求人誌に情報を載せないんですか?」
事務員は一瞬あっけにとられた顔をしたが、すぐに体制を立て直した。
「この検査に参加される方は現在何らかの病気を抱えていらっしゃる場合が多く、従来の薬では症状が回復しない方が開発されたばかりの「薬の卵」に期待して参加されます。その方たちにも参加費お支払いしますが、病気を抱えている方たちはお金よりも今の症状が回復する事が真の目的となります。その方たちは治りたい一心で薬を決められた用法で飲んでもらえますが、検査の段階には健康な方に参加してもらわなければならない検査もあります。その募集を一般求人誌に載せてしまうと、お金目当ての方が増えてしまって薬をきちんと飲んでもらえないなどの可能性があります。それを防ぐためですね。」
なるほど納得いったが、まさにお金目当ての俺は大丈夫なんだろうか?何か弱い所を掴まれたみたいでそれ以上突っ込む事ができなかった。
「ありがとうございました。大変よく分かりました。」
「いえいえ、ご理解頂けましたでじょうか?それでは上の階で適正検査をしますので…案内します。」
そういうと事務員は入り口ドアを開けて外へ出た。すいません、階段が外なもので…と言いながら高橋を誘導する。
 それにしても…木倉には金がよく楽なバイトとだけ聞いていたが、さっきの説明ではそれが不謹慎なように感じる。まあ説明は建前なのかもしれない。要は薬をちゃんと飲めばいいのだ。まだこのバイトに対する不信感は消えてなかったが、今日は血とか尿を取る適正検査だけらしいので結論を出すのは次でもいいと思った。その間にスーパーで木倉からもう少し詳しい情報を集めよう。
 外の壁に貼りつけただけという感じの所々錆びている階段を上に上る。さっきの一階の古ぼけた感じといい、この商売は儲かっていないのだろうか?さっきの説明にお金が全てじゃないみたいな事を言っていたが、それは参加側の事で、ビジネスとして赤字では意味がない。高額な時給を支払うのならなおさらだ。高橋は勝手に日給一万以上というイメージを抱いていたが、そういえば木倉には具体的な金額を聞いていなかった。面接時にも出てきていない。もしかしたらそんなにもらえないかもしれない。そうならばわざわざリスクを冒してまで得る大きなメリットがなくなってしまう。
 20段程、階段を上り中に入ると一階と同じ程度の広さの部屋だった。たださっきとは違い壁には白の張り紙がされ内装は綺麗になっている。そして隅には階段があり三階がある事がわかる。階段の壁にドアがあるがそれがトイレだろう。診察机といすが2つ階段とは反対側に設置され、採血台や医療機器も見える。この部屋の広さから二階も二部屋以上に分かれているみたいだ。奥に通じるドアがある。
 事務員はいすに座って待ってて下さいと言うと奥の部屋に入っていった。しばらくしてさっきの事務員ともう二人、50代半ば位の白衣を着た男とナース服を着た20代前半の女性が出てきた。男の頭のてっぺんは禿げあがり、周りを半分白髪が混じった髪がUの字型に囲んでいる。顔は一見優しそうに見えたが、眼鏡をかけたその奥は笑ってないようにも見える。いや勘ぐり過ぎか?女の方は21、22位、学校を卒業してすぐという感じだ。
恰好からして二人が医師と看護師だろう。医師が診察いすに座った。
「では高橋さん、適性検査を行います。まずは採血から…」
傍に立っていた看護婦が、それでは高橋さん台に手を乗せて下さいね~と最近流行っているロリコンアイドルみたいな声を出す。顔もセットでそうならいいが、ブスではないがアイドルからは程遠い。こういうのに限って…。
二セロリが注射を打つ。
 痛い!しかも上手く入らなかったらしい。二回も練習台になってしまった。初めてじゃなかろうに…。
「血液は400㎖と血小板取りますのでしばらく楽にして下さい。」
二セロリはにこやかにそういうと注射針を片付け始めた。400も取るのか、今までに血液を多く取ったのは献血の時の200が最高だ。あの倍、牛乳瓶二本分だ。だいぶん時間がかかるだろう。高橋は背もたれに体重を預け目を閉じた。




 気が付くと高橋は舞台に立っていた。そこでは30人程がいてミュージカルみたいな事をやっている。高橋は端の方に立っていたが自分も役者であると気付く。そうだ俺も演技しなくては…しかし何をすればいいんだ?なぜか左手に台本がありめくってみるが、近視のようにぼやけて字が見えない。仕方なく近くの人の動きを真似て口や体を動かす。初めてのはずなのに皆と同じ動きが出来ている。よく見ると自分の体と隣の人の体が糸で繋がっている。こりゃ楽だ。さらに周りを見渡すと皆口パクで誰も喋っていない。聞こえるのは観客の拍手だけだ。こんなの見て何が面白いのか?
 そうこうすると学校のチャイムのような音が鳴って、幕が開いたまま舞台は小休憩に入った。俳優たちはいくつかのグループに分かれて舞台を降りて会場を出てゆく。そこでようやく俳優たちの音声がオンになる。しかし聞こえてくるのはザワザワしたお喋りで何を言っているかは聞き取れない。
高橋たちのグループも動き出した。観客もグループに分かれて付いてくる。そうだこれは移動式のミュージカルなのだ。だんだん頭が冴えてくる。もうなんでグループに分かれたとか、自分は何でこのグループに付いているとかは気にならない。そして次の場所はファミレスだと分かっていた。移動中、高橋は隣の先輩役者と台本を見て次の打ち合わせをしている。相変わらず文字は見えないが、目ではなく文字が直接脳に入ってくる。打ち合わせが終わると仲良くお喋り。
「大変なんだよねー」
「大変ですよねー」
というだけの会話をエンドレスで話している。これが楽しくってしょうがない。心の中で笑いが止まらない。しかし何が面白いのかと冷めた自分も何処かにいる。
 ファミレスに着く。もう演技は始まっている。役者は3人居て、カウンターの席に座る。観客の一部もカウンターに座り、余った人たちは適当に空いている席に座った。
店員「いらっしゃいませー。」
先輩A「アイスコーヒー3つ。」
高橋「先輩、ここは喫茶店じゃないんだからそんなにキザに決めなくても。」
先輩B「おい、俺たちこんなにのんびりしてていいのか?」
先輩A「いいんじゃないのか。やっこさんの居場所もまだ分かってないのに。」
高橋「大変です。たった今連絡があって、ヒットマンはここに向かってきているらしいです!」
先輩A、B「何ー!」
店内が騒然となり悲鳴が飛び交う。
高橋「カットー!!第二幕終了です。ありがとうございました。次は2:00からの開幕となります。」
一変して場の空気が緩み、まばらな拍手が聞えてくる。高橋の隣に座った女の子が話しかけてくる。どこかで見たような顔だ。
「わたし、~~なのよー。」
「へー、~~なんだ。でもいいんじゃない?」
自分が何を言っているか分からないがとりあえず会話は進む。
「~~ってさーどう思う?」
「さー、俺はどうも思わないけど…。」
「あっいけない!そろそろ2:00よ。準備しなきゃ。」
ここで急に女の子の音声がクリアになる。女の子は鞄から何やら取り出すと高橋の顔に塗り付ける。そうかこの子はメイクさんだったっけ。いったい誰が観客で誰が役者なのか分からなくなってくる。高橋はまた頭がぼやけてくるのを必死で止めようとした。
(一体誰が演じてて誰が演じてないか分からないよ!苦しい!誰か助けてくれ…)




 目に光が入ってくる。目の前では医師と看護婦が話している。夢を見ていたのか。夢の中の女の子、何処かで見たと思ったらあの看護婦じゃないか。夢は要らなくなった記憶の整理というが本当だな。辛い夢を多く見るのは、脳が辛くて嫌な記憶を何処か深い所に封印している最中なのかもしれない。脳が無意識に看護婦の顔を忘れようとしたのかと思うと可笑しくなった。
「はいお疲れ様でした。採血終わりましたよ。高橋さんすっかり寝ちゃってましたね。」
ああ、おかげで夢にまであなたが出てきたよ。
「しばらく注射の所ガーゼで押さえていて下さいね。血が止まったら次尿検査行いますので。」
看護婦は取った血液を奥の部屋に運んでいった。
「高橋さん、病歴の欄に小児喘息と書かれてますが…。最近は発作は出てませんか?」
髪の毛がUの字の医師が尋ねてくる。Uの字、
U字…Uージ。こいつのあだ名はUージだな。
「ええ。最後に発作が出たのは中学一年の春でしてから、もう8年位発作は出ていません。
あの…。何かここで試す薬と関係あるんでしょうか?」
「あなたに試す薬はすでに安全性を確かめられているものですから心配ありません。しかし極度なアレルギーがある場合、命に別状はしないものの何らかの副作用が出るかもしれないという事です。ただ検査の結果が出てみないと分かりませんが、発作を8年も起こしていないのならまあ大丈夫でしょう…。」
「あの…。どういった薬を僕に試すんですか?」
「すいません。それは情報が漏洩しないように採用された方にしか話せないのです。」
看護婦が尿検査用の紙コップなどを持ってやってくる。
「高橋さん血は止まりましたか?」
血は止まったが注射の跡はズキズキと痛んだ。
「それではトイレで尿を出して下さい。」
その後またいくつかの質問などを受けて約3時間後の午後一時に開放された。外に出るとさっきまでクーラーの中にいた体の表面がなめこのように溶け出す錯覚に陥る。丁度昼食時なのだろう…女子大からは華やいだ女子大生の声が新幹線高架下の工事の音と相まって、ごく普通の日常を奏でている。
 3時間前に上ってきた階段をキイキイ言わせながら一段ずつ慎重に下りてゆく。途中の小さな窓越しにさっきの部屋が覗けた。事務員とU字禿げの医師が何やら向かい合って話している。思わず事務員と視線がぶつかったような気がした。事務員は高橋に気付いてか、気づかずか、医師の傍らに回り込むように視線を避けた…。
 階段を下り終えてふと気が付いた。そういえば三人の誰一人の名前も聞かなかったな…
普通は名乗り出るもんだろうが…。高橋は小さな何かの廃墟のような面接事務所を後にした。
…まさか面接受かったらここで治験を行うんじゃないだろうな…自転車のサドルは張り裂けそうに熱を蓄えていた。

         
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