怪し夜

文字数 1,936文字

 大層蒸し暑い夜のこと。


 住職亡き後長らく荒れ放題だった廃寺から久方ぶりに灯りがチラチラもれていた。何やら浮かれた話し声も漏れ聞こえてくる。


 騒いでいるのは近所のしょんべん長屋の衆。暑さ負けした男たちが涼を求めて、ひとり、またひとりと集まってきて、そうなると必然的に酒肴も出そろい、いつしかこのような大宴会とあいなったのである。


 いい具合に酔いがまわり、仕事の愚痴やら古女房への不満やらがひとしきり弾んだ後、ごく自然な流れで怪談語りが始まった。

 ちょうど盂蘭盆(うらぼん)最中(さなか)ということもあり、あちらこちらから線香の香りただよう怪しい夜気に触発されたのかもしれない。

「おまいさーん、これさ、おまいさん」 


「よっ、正助! 大根役者!」


「ちっ、おきゃあがれ」


 女幽霊の下手糞な声真似に野次が飛びつつも、語り語られているうちに夜はしんしんと更けていき、一同のあいだに奇妙な緊張感が張りつめていく。

 語り部以外はじっと息をひそめ、時折りかすかに誰かの喉が鳴る。それすらもはばかられる雰囲気が満ちていた。


「旦那ァ……お忘れですかぇ? あっしは某年某日()の刻に、旦那に斬り捨てられた座頭で御座いますよぅ……」


 話し上手の留治による迫真の演技をトドメに、場の緊張が最高潮に達するかと思われたその時――

あのぅ……もぅし
 狙いすましたような(おとな)いを入れる声に、腰をぬかす者、卒倒しかける者、尾を踏んづけられた猫さながらの悲鳴をあげる者――等々の騒動が鎮まってからよくよく見てみれば何てことはない。


 格子戸の向こうにぽつねんと立ち尽くしていたのは、くたびれはてた風情の旅装束姿の親子。線の細い父親らしき男が、まだ五つになるかならずかな幼な子の手をしっかと握りしめている。


 先日連れ合いを亡くし、その供養を兼ねて各地の札所を巡っているのだと、言葉少なに男は語る。今宵の寝場所を探している際にたまたま廃寺(ここ)の灯りが目についたのだそうだ。


 疲弊しきった父親に比べ、幼い息子は何がそんなに物珍しいのやら、丸い目を爛々と見開いている。

 短い身の上を語り終えるなり、男は胡坐のまま寝入ってしまい、一同はしばし「(ぼん)、おとなにしていて(えれ)ぇなぁ」「ほれさ、これ食うかい?」などと子の相手をしていたが、あまりの反応の薄さにそのうち興味が失せた。

 親子に背を向け、よせばいいのにまたぞろ始まる怪談語り。

 飴買い女房、迷子石の前に立つ泣き女、夜更けのお堀ばたでこの赤子をしばし抱いていてくれと懇願してくる母親……。

 たまらず一人がわめいた。


「よせやいよせやい、なんで話すの話すの全てが女幽霊物なんだよ? 辛気(くせ)ぇったらねぇや。そりゃあまぁ、怪談てのは元来辛気(くせ)ぇもんだがよ」


 その一声で、隣り合った者同士が互いの顔に探りを入れる。どの顔面も蒼白で、中には歯の根が合わないほどの臆病者も居た。


「……いんやぁ、俺ぁさっきから一話も語っちゃいねぇぜ? ふっ、藤公の野郎じゃねぇのか?」


「馬鹿いいねぇ! 俺ぁ口のひとつも開いちゃいねぇよ」


「なら、いってぇどいつが――」


 一同は口をつぐみ、申し合わせたかのようにそぉーっと振り返る。


 だいぶん小さくなった灯火の円にぼんやりと浮かびあがる父親はまったく息をしていないように見えるし、子は熱心な眼差しで円外の虚空をひたすら()めつけている。

 どうしてだかわからないが、この親子が発端に思えてならなかった。


 周りから注がれる怯みの視線もなんのその、子はおもむろに天井付近を指して一言。


「あ! おっかぁだ」

「ひいぃぃいいい」


「おたっ、おたっ、お助けぇぇえ」


 蝋燭の火がかき消えるのと同時に、格子戸を蹴破り、我先にと逃げ出す男たち。

 なぜなら、真の闇に襲われたとたん、全員の額や月代にざんばら髪の垂れてきた感触があり、耳元で確かに「……おまえさん」とささやかれたからだ。


 その声音の恐ろしいことといったら! 正助の声真似など及びもつかぬ。

 さて。暗闇に現れ(いで)たるは我が子を思う母の霊か、それとも話に登場した女怨霊たちの情念のかたまりか、はたまた旦那の夜遊びに激怒する鬼女房たちの(いき)(すだま)か――。


 ともあれ、知らず知らずのうちに室町時代から始まったとされる百物語の(てい)で怪談会を開いてしまった彼らは、はたして本物の怪異を呼び出してしまったようだ。

 あくる日。かいまき布団にくるまってブルブル震えている旦那衆から話を聞いた女房たちが廃寺まで親子の様子を見に行くと、そこはすっかりもぬけの殻で、本堂の床には女の汚らしい黒髪と白髪が大量に入り混じり、散らばっていたそうな。

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