第3話

文字数 2,076文字

男は高校を卒業後、大学に通い始めた。彼が選んだのは、アルファ国の名門大学だった。両親は相変わらず隣国で仕事を続けており、アルファ国に戻るつもりはない様だった。

男は両親にアルファ国の大学に通いたいと告げたときのことを今でも鮮明に覚えていた。両親は男の選択に不安を露わにした。この子はアルファ国に戻って一人で大丈夫だろうか。男が学校でどのような仕打ちを受けていたのか全く知らなかった両親には、成長の過程で男が理由なく内向的で天邪鬼な性格になった様に見えていた。子供の頃はあんなにいい子だったのに、なぜこのような性格になったのか。理由が分からない不安が両親の心の中にはあった。

だが、そんな両親も最終的には男の決意を尊重した。

「あそこなら、しっかりと経営を学べる。卒業したら私たちの会社で一緒に働こう。」

送り出す両親の瞳からは、わずかな希望が見て取れた。いつの日か来るであろう自身の息子と共に働けるという未来が嬉しかったのだ。新たな地で彼が得る知識と経験が、やがて家族の未来を照らすことを信じていた。だが、男は両親のその言葉に何の返事もしなかった。

男が大学のある学生街にやってくると、海風が顔を撫でた。大学のあるのは海の見える大きな街だった。大学はアルファ国の中でも有数の歴史ある名門校で、そのおかげでこの街は学生街として発展してきた。男には、若き生命力に満ち溢れた活気のある街に見えた。

「同じアルファ国なのに、ここは故郷とは全く異なるな。」

男はそう呟きながら、遠い昔住んでいた町の記憶がぼんやりと思い出していた。今は遠きあの幸せな日々。故郷にいた頃は、両親と心が通い合っていた。それに両親だけでなく、大人も子供もみな男の周りに集まった。人と人との関りが心地よかった。今はどうだろうか。歪んでしまった男の心では、人と関わりたいとは思えなくなっていた。男は人の心の汚い部分ばかりを見過ぎてしまった。男はアルファ国に戻ってきたことで心が軽かったが、それがなぜかは男にもわからなかった。あの最悪な隣国から離れられるからか。故郷のアルファ国に戻って来れたからか。それとも、知り合いも誰もいない街で人と関わらなくて大丈夫だからだろうか。

男は大学では、自分が何者であるかを隠し続けていた。隣国ではアルファ国人であるという理由だけで迫害をされ続けた。アルファ国に戻ってきても、隣国に住んでいたということがばれると同じような仕打ちを受けるのではないだろうかという不安が心から消えなかった。男にとっては過去を隠すことが何よりも必要なことのように思えた。そうして過去を隠し続けている間は自由に息をすることが許されているように感じる。街の喧騒の中、学生たちの笑い声が響く。男はその中に自分を溶かし込んで、自分がコミュニティの一員であると装った。

男はこの街で一人暮らしをしていた。住んでいたのは、大学から徒歩20分ほど離れた小さなアパートだった。そのアパートは学生向けの物件が多く並ぶ通りに立っている。男は、それまで住んでいた広々とした家からは到底想像もつかないような狭い部屋に引っ越してきた。古びた玄関から入り、年季の入った階段を上がってすぐの部屋だった。一歩歩くだけで階段も床もキーというきしむ音を立てた。この音が妙に耳に残る。音が一度気になり始めると音が頭の中に住み着いてしまうから、男は気にしないようにと心がけていた。このきしむ音は他の誰にとっても不快だったようで、アパートには、「他の住人の迷惑になるので夜遅くに廊下を歩かないように」という注意書きが貼られていた。夜中に外出できないことは多くの学生にとっては不満の種だったであろうが、知り合いのいない男の生活には何の損害も与えなかった。

引っ越しも終わり、男の生活が落ち着いてきた頃、男は両親に連絡した。両親は息子がどのような場所に住んでいるのかを知りたがった。というのも、両親は大学の手続きから家の契約まで、アルファ国での手続きをすべて男に一任していたため、男の大学生活を全くと言っていいほど知らなかった。男が両親に部屋の写真を送ると、両親はまるで物置のようだと鼻をひそめた。

「もっといい家はなかったのか?今から引っ越すというなら、そのお金ぐらい出すぞ。」

両親はもっといい生活をすべきだといったが、それでも男はこの狭くてぼろいアパートから引っ越そうとはしなかった。両親にとっては最悪の環境かもしれないが、男にとってはここが何よりの場所だった。

両親は男に、いずれ家業を継ぐために経営を学ぶよう希望した。しかし、男はその期待に応えたくなかった。正確には、両親の仕事から離れたかった。男は両親から逃れるために、彼らの金を使うことすら拒んだ。学費は特待生として免除してもらい、そうして住む場所として安いアパートを選んだ。

狭い部屋には置けるものが限られていた。壁の隅には自分で選んだポスターを貼り、お気に入りの本を小さな本棚に飾る。男に許されているのはその程度だったが、それでも男はこの部屋にいると過去をすべて切り離せるように感じた。
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