赤い空

文字数 20,513文字

 今日も空が青い。白い雲もなく、青一色。何の傷もついていない純真無垢な空にさえ、憎しみを感じるようになったのはいつからだろうか。
夏休みを終えて、九月。クラスメイトは、過ぎ去っただらけた日々を思い出してはため息をつく。それと対比的だったのは松野蒼人だった。かといって、夏休みが終わって嬉しいわけではない。ただ、家にいなくて済むし、家事に追われることもないと思っただけだ。
 窓際の最後尾。授業中でも空が見えるこの席は、勉強をしているフリをしているだけですんだので気楽でもあったが、胸にもやがかかるような気もして複雑だった。
 あのくだらないほどの笑顔を向ける大空に、白い傷をつけてやりたい。風で、飛行機雲の線で。それができないのなら、雨雲に覆われてしまえばいい。雨は嫌いだが、曇りは好きだ。自分の心情に一番近いから。
 高校二年の夏を過ぎても、蒼人に友人はいなかった。それが少し破れて直っていない学ランのせいなのか、ボロボロで新しいものを買うことができない上履きのせいなのか。本人の努力不足なのかは知らない。興味もなかった。自分はこの世にひとりで死ぬために生まれてきた。それなのに、まだ死ぬことができないでいるのは、自分に勇気がないからなのかもしれない。自分がこの世に生を受けたことは、『事故』だ。望まれた子ではなかった。それは何度も母親から聞いている。
 授業が終わると、昼休みだ。空腹を我慢するしか、蒼人に選択肢はなかった。コンビニでバイトをしてはいるが、通帳やカードは没収され、ほぼ全額家にいる大人たちが金銭を奪っていく。昼食のパンを買う余裕すらない。
水道で水をたらふく飲んで、空腹を紛らわせると、スマホを取り出した。本来ならばスマホだって持ってはいけないのだが、最近の学校は生徒のスマホに直接連絡を送る。だから、どんなに家計が苦しくても、持っていなくてはならなかった。しかし、このスマホだけが、蒼人の救いだった。
今日もいつものサイトを開く。小説投稿サイト。高校にある図書館で本を借りることはできるが、部屋に置いておくと売られてしまう可能性がある。その点、この小説投稿サイトだと、好きなジャンルの小説を好きなだけ読める。ただし、有名な小説家が書いたものではない。アマチュアや学生が書いたものばかりだ。だが、その青臭い表現も、誤字や脱字も蒼人にとっては楽しみだった。『世の中に完璧は存在しない』。そう教えてくれているようで、自身の存在を肯定してくれる。もし、自分が完璧な人間だったら、この暗く、死んだような生活に早々と見切りをつけてあの世へと旅立っている。この不完全な小説たちが、自分の命をつなげてくれている。それが救いなのだ。
小説投稿サイトには、さまざまなジャンルの物語が置かれている。数多くあるのは、ファンタジー物語。最初はどんなものだろうかと目を通してみたが、あまりにも現実離れしていて受け付けられなかった。これは恵まれた幸せな人間が書いていると、すぐにわかってしまった。家族や会社の庇護のもと、自由に創作できる趣味の世界。中には本当の小説家を目指している人間もいるようだったが、どうやら自分と同い年くらいの夢見がちな若者らしかった。とはいえ、ネットの世界だ。どんな情報も偽れる。ファンタジーは蒼人に向いていなかったというだけだ。
一通り、新着小説を読んでみるが、自分と波長が合うものは見つからない。今日はついていない。そう思い、最後の小説のタイトルをタップしてみる。『痣』というタイトルは、この小説サイトにしては珍しいタイプのものだった。だけど、開く前に不安もよぎる。
よくあるのは、自己弁護の応酬。自分がいかに不幸で、つらいかというものを『小説』という体で愚痴る内容だ。女子高生が妊娠した話。彼氏に浮気ののちフラれた話。中には自分は二重人格者だと訴える物語もあった。……くだらない。そんなのはすべて幻想だ。小説を書いている時点で、それはフィクションになってしまうのだから。一切の装飾なく、不幸な主人公を第三者的に書くことができるのなら評価したいが、大概は構ってもらいたいがためのつまらない妄想、つまらない三文芝居でしかない。
蒼人は『痣』がどんなものかさっそく目を通す。最初の文章を読んで、ごくりと唾を飲んだ。目の前に広がったのは、残酷な青。
――『その首筋の痣は母につけられた。額の傷は何人目かわからない男に殴られたあとだ』。
 蒼人はそっと首筋の痣に触れた。詰襟のおかげで誰にも見られてはいないはずなのに。額にある傷も。誰にもこんな話はしていない。できる相手もいない。蒼人は小説を読み進める。
『幸助の家は母子家庭だった。だが、母の相手は何人もいて、自分でも把握できていない。うちに泊まっては自分に暴力を振るい、酒やたばこを買ってくるように指示をする。今では酒もたばこも身分証がなければ買えない。だが、そんなときには店から盗むように言われた』――
誰だ、と周りを見回す。この小説の主人公は、自分と同じ境遇だ。こんな偶然があると思うか? あるとしたら、クラスメイトが自分のことを見て、それをこっそり小説にしたという線だ。
騒がしい休み時間中の教室で、地味な自分に注目する人間なんていない。自分みたいにひとりで過ごす女子はいる。確か名前は……。
「松野、お前何読んでるの? うっわ、ネット小説って……オタクかよ!」
 クラスで図体のデカい男とその取り巻きが、蒼人の背後からスマホを奪う。蒼人はそれを取り返そうとするが、身長が足りない。華奢な腕を伸ばしても、すぐに払われてしまう。
「『痣』? うわ、虐待モノか? お前、ぼっちで何考えてるかわかんなかったけど、怖いな。将来犯罪でも起こすんじゃねぇの!」
 クラスメイトたちは大笑いする。これが笑いごとで済むのならよかった。スマホを投げ返されると、蒼人は傷ついた本体を手で擦る。そうしたところでプラスチックが直るわけがない。人の傷とは違うのに。
 ホームルームが終わると、下校時間だ。夏休み前と同じように、クラスメイトは蒼人に掃除を押しつけると、さっさと部活へ行ってしまった。帰宅部の生徒も、手伝ってはくれない。 
どこにいても、自分は虐げられる存在なのかもしれないな、と思うと、笑いがこみ上げてきた。自分に非があろうがなかろうが、不運な目にあうということは大概にしてある。……考え方の違いだ、という人間もいる。自分はどんなときでも小さな幸せを見つけて生きていくことができると豪語する人間もいる。この世に生きるすべての人間がそう思えたら、どんなに幸せな世界になるのだろうか、想像もできない。不運な人間がいるからこそ、人は幸せを感じられるのだ。自分の下にいる人間と、無意識に比べて悦に浸る。それがこの最低な世の中だ。
最低な時代だろうが、不運な目にあっていると感じようが、自分は『ここ』で生きて行かなくてはならない。つらいとか、苦しいとか、口に出すのは簡単だ。だけど、本当に誰かに助けてもらおうなんてことはできない。助けてくれる人間は皆無だ。
 ほうきで床を掃き、モップをかけると机を元に戻す。掃除は終わりだ。本当はもっと丁寧にすべきなのだろうが、ひとりではさすがに無理がある。あまり細かくやっていると、家に帰る時間が遅くなる。夕飯の支度をしなくてはならない。母は夜の仕事だ。家にいるのは母の相手の男だけ。きっと今日も昼は競馬に行き、大負けして帰ってくる。そして蒼人の作った夕飯を食べると、酒をあおってテレビを見ながら眠るのだ。
その間、蒼人はずっと、その男のそばにいなくてはならない。男の命令を聞くためだ。酒を持って来いだの、つまみを作れだの……。母がいないときは、その『代わり』をすることもある。
最低だ。自分は畜生以下の人間だ。尊厳すべてを踏みつけにされるのにも関わらず、それでも蒼人は家に帰る。もしどこかへ逃げたら、母や男に殺されるかもしれない。そんな恐怖を抱きつつ、カバンにラクガキされた教科書を詰める。
帰ろうとしたところ、廊下にいたらしい女子と鉢合わせする。彼女は……。
騒がしい教室で、地味に存在だけしているメガネの女子。名前がずっと出てこない。さっきから思い出そうとしているのに。
――彼女の名前など、関係ない。すれ違って廊下へ出ようとしたところ、詰襟をつかまれ、教室へ押し込められる。彼女、何者だ? 自分なんかに何の用事が……。
驚いて目を見開くと、メガネの下の長いまつ毛が動く。瞳はしっかりと蒼人を見つめていて、逃がしてくれそうもない。
「あ、あの……」
「もう一度、見せて」
「え?」
 彼女は蒼人の学ランをガッと引っ張ると、首筋の紫色になった痣を見つめる。何をするのかと思った瞬間、そこに唇が触れた。
「なっ!」
 驚いた蒼人は、少女を突き飛ばす。突然のことで加減ができず、少女はその場で尻もちをついた。
「あ、あの、ご、ごめん……」
「尾崎華世子。名前、覚えてないでしょ」
「う……」
 尾崎華世子の意図がつかめず、余計にうろたえる蒼人。どうして彼女は、口づけなんて……。しかも、そこは母につけられた痣の上だ。
「体育の時に気づいたの。その痣。額にもあったわね、傷」
 華世子は立ち上がって背伸びをすると、治りかけの蒼人の額の傷にも口づける。なんなんだ? 彼女は何がしたい? 息を荒げながら、蒼人は華世子から身を遠ざけた。こんなことをされるのは、母や男以外では初めてだった。しかも相手は同じクラスの少女だ。否応なしに胸の鼓動が速まる。
「君は……俺をからかってるの?」
「からかう? 何故? 私はただ、ずっとあなたを見ていたの。あなたの……その傷をね」
 これは告白? 蒼人は混乱するが、勘違いしてはいけない。華世子が見ていたのは蒼人の傷だ。蒼人自体じゃない。
「……他にもあるの? 痣。見せて」
 そうたずねられたが、蒼人は答えないで、学ランの前のボタンをきっちり留める。華世子は諦めず、蒼人にもう一歩詰め寄って、きつい口調で繰り返す。
「見せて」
「嫌……嫌だ」
「見せて!」
その強い声がスタートの合図になった。蒼人は逃げるように教室を出る。
 痣や傷は他にもあった。太ももの付け根や胸に。横腹には刃物の跡も。こんなもの、他人に見せられない。それに、もし見せたら……華世子は躊躇せずにそこに口づけただろうか?
 そんな想像はしてはいけない。彼女はただのクラスメイトだ。クラスメイトにそんなことをさせられない。華世子とは今日初めて口をきいた。名前も覚えていなかった。そんな相手に身体中を舐められたら……。
 蒼人は痛いくらいに顔が熱くなった。身体も熱を帯びている。自分自身で押さえきれない情を堪えなくては、家に帰れない。かといって、どこかで処理して帰るなんて……。
「なんでこんなことになってるんだよっ……!」
 カバンを抱きかかえると、できるだけさっきのことを忘れようと努力する。しかし、努力すればするほど、華世子の唇の感触が身体中を這う。
 仕方なく蒼人は、公園の公衆便所に立ち寄ることにした。

 帰宅すると、そこには男がいた。床にはハズレ馬券が散っている。ビールの空き缶も数本。相当負けたのか。だったら今夜は荒れそうだ。蒼人の気配を感じた男は、さっそく命令をした。
「たばこ盗んで来い」
「……でも、盗みは」
「俺の言うことが聞けねぇのか? だったらこっちに来い」
 手招きされた蒼人は、カバンを横に置いて、男の前で正座した。
「何緊張してんだよ。今更だろ?」
 男の汚れた手が、学ランのボタンを外していく。シャツにも手をかけられると、蒼人は諦めた。いつもそうだ。どんなに抗おうと、力や暴力で押さえつけられる。それなら体力を温存して、耐えるしかない。その痛みが過ぎるまで。男の舌の感触が気持ち悪く、吐きそうになるのを手で押さえて堪える。
「なんだ? そんなにいいなら声を聞かせろよ」
 違う。いいわけがない。気持ち悪くてどうしようもない。だけど自分が助かることはないと覚悟を決める。こんなの、台風と同じだ。一瞬、強い風が吹き、自分の身体をめちゃくちゃにする。それだけだ。風がおさまればいつも通りになる。
 男が満足するまで蹂躙されると、休む間も与えられず、夕食の準備をするように言われた。松野家の家計は火の車だ。母は自分の稼ぎのすべてを自分のためだけに使う。例えばブランドもののバッグを買ったり、ホストに貢いだり。男はそんな母親と、バイトをしている蒼人から金を奪い、それで競馬に狂っている。勝つことはほとんどない。
 冷蔵庫の中は、常に空だ。たまにコンビニから廃棄商品をくすねて来るが、男はそれには手をつけない。『もっといいものを食わせろ』と、投げつけて返す。だが、今冷蔵庫の中にあるものでできるものと言ったら、もやしの炒め物くらいだ。仕方なく、それを作って男の前に出すと、「くそまずそうだな」と言いつつ箸をつけた。食べ終えるまで、蒼人はまた男のそばで正座だ。そう命令されているから、仕方がない。
 夜中までテレビを見ていた男だが、さすがに酒をあおりすぎたのか、いつの間にか眠っていた。ようやく解放されたと思っていたが、今度は母が帰ってきた。だいぶ酒臭いのはきっと、ホストクラブで楽しんできたからだろう。
「星臣く~ん! 真美子、もう動けな~い」
「母さん、ここで眠ったら風邪を引くから……」
 別に本当の愛情を込めて、母に注意したのではない。朝起きたとき、玄関で寝ていると、何故自分を布団まで運ばなかったのかと責めるのだ。
 仕方なく小柄な身体で布団まで運ぶと、母が首に腕をかけてきた。
「星臣くん、あたし……ねぇ、ダメ?」
 酒のせいで目を潤ませながら、男に懇願する母。それを見て、また吐き気がする。自分に何を求めているか、何度もしつこく身体に触れられてきたので、もうわかる。
初めては小学校五年のときだった。まだ射精もしていなかった自分を押し倒すと、母は無理やり自分にまたがった。あり得ない。こんなの母親でもなんでもない。大抵の暴力には慣れていたが、さすがに性的な関係を結ばされたのはショックだった。
その頃か、蒼人は他人に壁を作るようになったのは。そして、『自分は死ぬために生まれてきた、望まれない子』だと思い始めたのも。
すべての嫌なことが『終わった』のは、午前一時を過ぎた頃だった。洗い物を済ませると、男に布団をかける。こんなゴミになんで……。母は布団で眠っている。
自分にも一応布団はあてがわれているが、1LKの部屋だ。どうしても母と同じ部屋に眠らなくてはならない。それが嫌で、蒼人は夜中の公園に向かった。

空は黒かった。月はぼやけ、星もない。昼の青よりも夜の黒のほうが自分には似合う。
誰もいない公園の街灯にはやぶ蚊が集まっていた。それでもあの街灯は役に立っている。暗い公園を薄く照らしているから。
それに比べて自分に価値などない。親や男に蹂躙され、奴隷のように使われ、自分の意思で逃げる勇気すらない人間など、生きている意味などない。
いつかこの暗闇から抜け出ることができたとしても、その先の未来が見つからない。将来に夢など持つこともできない。今はただ、惰性で生きているだけ。親たちから解放されたあと、自分はどうすればいいのかわからない。
「明日が来なければいいのにな」
 蒼人にできるのは、そうつぶやくことだけだ。明日が来なければいい。自分の周りの人間が消えればいい。自分自身も、いなくなくなればいい――
 真っ暗な空に願っても叶うことはないことくらいわかっている。それでもどうしても願ってしまうのが弱さだと、蒼人は知っていた。

朝は親たちが起きる前に、逃げるようにして登校した。いつもの席で、小説投稿サイトを見る。あの小説の続きが知りたい。『痣』。まだ序盤しか読んでいない。主人公の幸助が虐待を受けていて、自分と同じところに痣があるところまでだ。偶然なのか、この設定は。
画面をスクロールしようとした瞬間、机にドン、と紙束を置く華世子が目の前に現れた。
 何の用だ。昨日は自分に突然おかしなことをした。母親につけられた痣を、華世子が。虫をしようとしたが、華世子がそれを許さなかった。スマホを奪うと、真っ直ぐと蒼人を見つめる。無言。教室は次々と登校してくる生徒たちの挨拶で騒がしいというのに、自分たちの周りには音がない。
 かといって、「おはよう」と挨拶するのもおかしい。四月にこのクラスになってから、言葉を交わしたことはない。それなのにいきなり級友面するのも変だ。どうすれば……。
 視線を避けようとしたところ、また詰襟部分をつかまれる。ここをつかまれると痣が見える。蒼人は華世子の腕を持ち、立ち上がる。昨日と同じことはさせない。しかし、華世子は手を離すことなく耳元に口を寄せると、小さく言った。
「あなたに見せたいものがある。屋上に行くわよ」
 屋上はがっちりと鍵が閉まっている。ふたりの高校にも不良と呼ばれる類のやんちゃ坊主はいるが、わざわざ鍵の閉まっている屋上でたむろするなんて時代遅れだ。見つかればすぐに教師が飛んでくるし、鍵を壊すだけでも問題行動。器物破損だ。それなのに華世子はいとも簡単に、その場に置かれていたイスを持ち上げる。まさか、と思ったが、彼女は予想通りの行動に出た。イスの角でガンガンとドアノブを壊すと、足でドアを蹴破った。
「来て」
 彼女は何をしでかすかわからない。いかれている。自分の痣に口づけたのだって、ドアノブを壊したのだって。
蒼人は黙って屋上に出る。空は今日も憎らしいほどの快晴だ。昨日の夜は少し陰っていたと思ったのに、何故朝になると晴れるのか。早く太陽など隠れてしまえ。輝くお前は見たくない。眩しすぎて身体を焦がす。
手をかざして陽を避けると、華世子はやっと手を離した。
また痣や傷を見せろというのだろうか。蒼人は華世子を警戒して、少し離れる。そんな蒼人に華世子は先ほどの紙束を突きつけた。
「これ」
「な、何」
「読んで」
「え」
「読んで」
 びくびくしたまま華世子の持っていた紙束……原稿用紙を受け取る。その一枚目に書いてあったのはタイトル。それは――『痣』。
 さっそく二枚目をめくり、中身を読む。昨日読んだ小説投稿サイトにあった『痣』と同じだ。これは一体どういうことなのか。蒼人は華世子を思わず見つめる。
 ――焦るな。昨日、この小説投稿サイトを見ていたことは、クラスメイトによってバラされた。読んでいた小説も。主人公が虐待を受けている『痣』というタイトルだということも。 
もしかしたら華世子は、同じサイトにアクセスしてこの小説を紙に起こしただけかもしれない。だけど何のために?
「これが何だっていうんだ」
「私が書いたの。あなたの痣を見て、想像した。私の想像はあってた?」
 想像だと? そんな、あり得ない。想像で親に犯されたことや、男に傷つけられたことがわかったって言うのか? 他人にわかってたまるか。この苦しみを。生き地獄の中で、鬼たちにバレないように息をする感覚を。こんな苦労も何も知らなさそうな地味な女が、簡単に想像つくような不運じゃない。自分の人生は、他人が想像できないような、心臓を握りしめられているような、生きたまま自分の腹を切り裂かれ、腸で首を絞められているような……それくらいのつらさだというのに。
「冗談だ。ネットに上がっている小説なんて、いくらでも『自分のものだ』と言い張れる」
「それじゃ、こっち。こっちを読んで」
 次の紙束を渡される。こちらは手書きで書かれた『痣』とは違い、印刷されたものだ。タイトルは、『破壊』。
 目を通すと、そこにもやはり虐待にあった少年の描写があった。ただ、書き出しは少し違う。
『その首筋の痣は母につけられた。額の傷は何人目かわからない男に殴られたあとだ。もうこんな動物以下の扱いをされるのは嫌だ。だから僕は、彼女と始める。お互いの親を殺し合い、僕らは『生』を手に入れるんだ』――
 ここに出てくる彼女とは誰だ。『生』を手に入れるために始めることとは? 原稿用紙から目を離すと、華世子を見た。彼女はずっと表情を変えない。メガネの仮面に隠された、人形のような美しく残酷な表情。長い髪は二つに結っている。自分と同じように、クラスで目立たない存在の華世子は、自分に何を伝えたい?
「ペンネームを見てくれる? 表紙にある」
 『真白青葉』。『痣』の作者と同じ名前だ。だが、先ほど考えたように、ネットの小説を『自分のものだ』と言い張ることはできてしまう。彼女はこのネットの小説家になりすますつもりなのか? 疑っている蒼人の視線を理解したのか、華世子は強く言った。
「ネットの『真白青葉』は私よ。『白』は潔白を表しているつもり。そして『青』は……私の好きな色」
 そう言って、華世子はその場に座り、ゆっくりとあおむけに倒れた。空を見ながら大きく息を吸う。静かに一度目を閉じると、蒼人にも横に座るように促す。
 チャイムが鳴った。クラスではホームルームが始まっている頃だろう。今から行っても目立つだけだ。それならもう少し彼女に付き合って、一時間目の前に教室に入るのが妥当だ。仕方なく蒼人もその場に座ると、華世子は満足だったのか、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「この空の色、いいよね。生まれてから何度も見ているのに、全然飽きない。まっさらで変わらない色。だから、青が好き」
「お、俺は……嫌い」
 変わらない青は、自分だ。まっさらなんかじゃない。純真無垢でもない。何度も何度も雲がかかり、飛行機雲に汚される。それでも平気そうに、また何もなかったかのように雲のラインを消す。変わっても、変わったことをなかったことにする青。その風景をきれいだと感じる人間が多いことは知っていても、自分はそうじゃない。
「松野蒼人。アオって呼んでもいい?」
「……勝手にすれば」
 もう一度、『破壊』と書かれた原稿を手にすると、華世子は蒼人に告げた。
「その小説は、終わりの始まり。私たちは始めなくちゃいけない。『生』を手に入れる戦いを。アオはわかってくれるはず」
 華世子は何か始めようとしている。蒼人と。それが何かはわからない。『わかってくれるはず』って、勝手に決めつけて。蒼人は横で空を眺める華世子をにらんでから、もう一度原稿用紙に目を落とした。『お互いの親を殺し合う』。これは華世子と自分の親を殺そうという提案だ。さすがに殺人なんて大それたことはできない。いくら最低な大人たちだからって、人を殺す勇気なんてない。あったらとっくの昔に殺していただろう。できないから、自分はずっと虐げられているのだ。それに気になったのは、『殺し合う』というところ。華世子も自分の親を殺したいと思っているのか?
「私も親が憎いの。殺したいと思ってる。この小説は、私とアオがこれからやらなくちゃいけない、汚いものの掃除の仕方が書かれている」
「……尾崎はなんで親を殺したいの?」
 体育座りしたままたずねると、華世子は蒼人の手を取って身を起こす。視線は相変らず真っ直ぐに彼を見つめていて、逃れることはできない。華世子の真っ黒で大きな瞳は、強い覚悟を感じさせる。光彩はなく、どす黒い闇が広がっている。
 華世子の身に、何が起こっているというのだ。自分と同じように、大人から虐待をうけているのか? しかし、彼女の白い肌には痣も傷もない。
 華世子は蒼人の質問につまらなさそうに答えた。
「私の親は、私が思い通りに動かないと、すぐに罵ってくる」
 それだけで、親を殺したいと思うのか? 蒼人は戸惑った。やはり華世子は自分とは違い、恵まれている。親子ゲンカ程度の憎しみで人を殺そうと思うなんて、安直だ。自分がどんなに人間的にまずいことをしようとしているのかわかっているのか。蒼人は華世子に告げた。
「その程度のことで人を殺すの、君は」
「アオにはわからないよ。恵まれていないアオには」
 原稿用紙を横に置くと、蒼人はつかまれた腕を解こうとした。だが、華世子は放してくれない。強く、跡が残りそうなくらい、ぎゅっと握られる。
「聞いて。私のことを」
 蒼人が嫌がっても、華世子からは逃げられない。仕方なく蒼人は、大人しく彼女の話を聞くことにした。
「私の父は医者で、母も税理士をやっているの。金銭的には恵まれた家庭だけど、冷えきっているわ。なんとなく想像できるでしょ? ふたりの優秀な親には優秀な子しかいらないの」
 彼女の初めて見せた人間的な表情は、『孤独』。恵まれているがために、ひとりにされる恐怖。幼い華世子の周りにはたくさんのおもちゃ。しかし、それで一緒に遊んでくれる人間はいない。親も、友達も。そのまま大きくなった彼女は、たくさんのおもちゃの中で泣いている。言い知れようのない寂しさと、金だけで華世子を育てようとした親たち。
「私も努力した。親に愛されたい一心で、勉強も頑張った。習い事も、言われたことはすべて完璧にこなせるようにした。なのに……なんで愛されないの? 私を何故、ふたりは無視するの? 私は……望まれた子じゃないの?」
 華世子の言葉に、蒼人はどきりとした。華世子は自分と違い、恵まれている。虐待を受けているわけではないし、しっかり食事もさせてもらっている。上履きも二学期に入ってから新しくしたのか、きれいなままだ。それなのに彼女は、両親を憎んでいる。憎むほどの理由じゃないと、他人は思うのかもしれない。だけど蒼人にはわかってしまったのだ。彼女の、幸福であるが故の悲しさが。
蒼人と華世子の大人に対しての気持ちの根は、同じだ。ふたりは蟻地獄の中であがき、もがいている。この誰も助けてくれない世界で、精一杯『助かりたい』と思っている。助かったところで何もないことも知っているのに、思考回路はいうことを聞いてくれない。悩むことを放棄したい。何べんも何べんも何も考えずに生きたいと願った。それでも逃げられない。華世子も蒼人も親という枷をつけられた、哀れな奴隷だ。
風が吹くと、原稿用紙がぱらぱらと舞っていく。それを華世子は一枚ずつ拾っていく。全部拾い終えると、宝物のように胸に抱いてから蒼人にもう一度渡した。
「これを全部読んで。そして――私の紡ぐ文章に共感してくれるのなら、お願い。私と一緒に戦って」
 それだけ言うと、華世子は屋上から出ていく。ちょうどホームルーム終了のチャイムが鳴る。蒼人は一時間目の授業をサボり、屋上で華世子の小説を読むことにした。

 華世子の書いた小説は、虐待を受けている幸助と、ハリボテの幸せな家庭に暮らす冴子が互いの親を交換して殺すという内容だった。相変わらず華世子は、蒼人のことをよく想像していた。男に盗みを指示され、母に無理やり関係を持たされる。
そんな蒼人――いや、小説の登場人物・幸助は、ある夜公園で冴子と出会う。最初は気にしなかったが、ある日冴子が泣いている姿を見る。互いに関係はない。声をかけていいものだろうか。迷っていると、彼女は目の前に立った。泣きはらした赤い目は、耕助を見つめる。
そこでふたりは初めて会話を交わす。幸助は虐待を受けていた。冴子は孤独に泣いていた。ふたりの心の荷物は、もう背負えないほどの大きさになっていた。これでは自分たちが死ぬ。だから、殺そう。親たちを。自分で自分の親を殺してしまったら、すぐに捕まる。そこで冴子が提案したのは、交換殺人だった。
すべてを読み終えると、蒼人は教室に戻り、華世子の前に立った。読み終えた原稿用紙をそろえて、彼女の前に突き出す。華世子の目は、感想を催促している。このフィクションではなく、ノンフィクションにしようとしている小説のストーリーに乗るか。
「……アオ、あなたは自由になる権利がある。私にも」
「俺……自由になったらどうすればいいのかな。わからないんだ。大人にいいように扱われていたのが普通だったから」
 自分に未来などない。今日という日をやり過ごすだけだ。そう思っていたのに、華世子の小説が言っていたのは、『自分でも将来の夢を持ってもいい』ということだった。明日のことを考えて、笑顔になってもいい。それが許される世界が本当にあるのか。親を殺したら、その世界が手に入るのか。人を殺して笑顔を手に入れることが、果たして自分にできるのか。
「『生』を手に入れて、私たちは初めて死ぬ権利を持つのよ。人は死ぬために生を受ける。生を受けなければ死ぬことはできない。それが現実の夢になる」
 華世子は蒼人の原稿を持つ手をそっと握る。しばらくの間見つめあったふたりは、無言で互いの気持ちを確かめあう。蒼人は決めた。華世子とともに、戦おう。親を殺して、『生』を手に入れるのだ。

 それから蒼人と華世子の距離は日に日に縮まっていった。華世子の持ってきた推理小説を、蒼人は授業中に読んでいた。勉強はそっちのけでのめり込む。華世子の貸す本は、普通の推理小説ではない。普通の推理小説だと、主役の刑事や探偵が謎を解き明かすが、華世子の持ってくるものは、殺人犯が主役のものばかりだった。いずれ自分たちもこうなるからかもしれない。偶然なのか、それとも華世子も薄々はわかっているのか。殺人犯たちはラストシーンで自ら死を選ぶ。
 小説を何冊も読んでいくうちに、蒼人は汚染されていった。本当の自由とは何かと考えると、自然にその答えは浮き彫りになる。
『生』をつかみ取るということは、『自ら死を選ぶことができる』ということだ。自分は死ぬために生まれてきたと思っているし、それは変わらない。だが、今死ぬことはできない。死ぬ勇気がない。いつでも周りの大人に殺される可能性はある。それなのに、自分で死ぬことが怖い。でも、親を殺すことができたなら、きっと死ぬ勇気を持つことができる。自ら生きることを放棄できる。それが『生』を手に入れるということだ。
今の自分は情けないが、周りに『生かされている』のだ。母親も男も、自分がいないときっと生きていけない。だから、自分を痛めつけて言うことを聞かせ、『死』を意識させないようにコントロールしているのだ。蒼人が死ねば、もっと生活は荒れるだろう。蒼人が死んで、きっと初めて彼の『生』に気づく。蒼人がいたから、自分たちが生きることができたということがわかる。
華世子も同じだ。自分で死ぬことができない。親は、華世子が死ぬことでようやく彼女を愛していたことがわかる。両親への報復だ。無関心で、無頓着で、華世子をペットと同じように扱っていたことの報復。いい塾へ行かせ、きちんとした身なりをさせるのは、ペットとしての価値を高めるため。華世子は両親のアクセサリーだ。普段会話がなくても、他人に華世子が褒められるといい気持ちになる。そのための道具でしかない。家では餌だけ与えていればいい。金を与えておけば問題ないと思っている。まるで繰手のいないマリオネットだ。フレームの中にはいるが、繰手がいないため、その場に寝たままで動かない。自分の意思を持ってはいけない。勝手に動くことは許されない。親の言いなりになることでしか、生き方がわからない。彼女にとって『生』とは、親に操られた状態でしかない。だからこそ、自分で『生』を勝ち取って、自分の意思で『生』を放棄したい。
ふたりにとっての『生』は、安寧な『死』をもたらすためのものなのだ。
本を読み終えると、窓から空を見た。少しだけ、黒い雲が青空を犯し始めている。いいぞ、もっと青色を塗りつぶしてやれ。真っ黒く、汚く、救いのないくらい胸糞の悪い色に染めてしまえ。そのうち降る雨は、空が流す血だ。その透明な血で地面もどろどろにして、街行く人の靴を濡らせ。
「松野、何を読んでいるんだ」
 英語教師が小説を取り上げる。雨雲に覆われ始めた空を見ていたせいで、教師に目をつけられていたのだろう。小説は放課後まで没収すると言われ、無表情でこちらを見ていた華世子に、蒼人は軽く頭を下げた。

 放課後、職員室に小説を取りに行くと、教師はあっさりと返してくれた。これがきっと、スマホやマンガ、雑誌だったら嫌な顔をされたかもしれないが、読んでいたのは推理小説。学生が活字を読むことが少なくなったとぼやいていた教師は、蒼人に「小説を読むのは賛成だが、授業中だけはなしだぞ」と軽く言っただけだった。
 教室に戻ると、華世子の姿を探す。放課後なので、部活に向かう生徒や下校の準備をしている生徒はいる。なのに華世子はいない。今日中に本は返さないといけない。家に持って帰ると、男にどやされる。「こんな本を買う金があるなら、酒やたばこを買って来い」と。盗まれて売られてしまっても困るので、今日中に華世子には本を返したい。
きょろきょろと教室を見回していると、この間蒼人がネットの小説投稿サイトを見ていたことをばらした生徒がニヤニヤしながら近づいてきた。
「松野、彼女を探してるのか?」
「彼女?」
「尾崎と付き合ってんだろ? 最近よく一緒にいるじゃん」
 その問いに、蒼人は大きく首を振った。華世子とはそんな関係ではない。例えるとしたら、一緒に戦う相手。だが、『戦友』というにはあまりにも近すぎる。華世子とはそこまで近い間柄ではない。同じ戦地で戦う同志というのが正しいだろう。
 それでも意地の悪い生徒は、信用していないらしく、『彼女』という言葉を連呼する。
「お前の彼女、体育倉庫に行ったみたいだぞ。教師に何か手伝いでも頼まれたんじゃないか? それとも……連れ込まれていたりするかもな? ははっ」
 華世子が連れ込まれた? この高校の教師で、そんなことをするやつがいるのか、蒼人は考える。しかし、大人なんて信用できない。どんなに清廉潔白そうに見える人間でも、何かしら悪事は働いている。小さな嘘から大きな犯罪まで。現に自分の周りの大人は悪人ばかりだ。教師だってひとりの人間。完璧な人間などいない。
 蒼人は本を持ったまま、教室を飛び出す。走って向かう先は、体育倉庫だ。
 その姿を見た生徒たちはニヤリと笑うと、同じように体育倉庫へ足を運んだ。

「尾崎?」
「アオ。本を返すくらい教室でよかったのに、なんでこんなところに呼び出したの?」
「呼び出した? 俺が?」
「そう聞いたけど」
 ふたりが話していると、体育倉庫の扉が閉められ、外からガチャリという鍵の閉まる音がした。
もしかして閉じ込められたのか? あいつらが俺たちを!
蒼人は青ざめて、中から外へ出ようと扉に手をかける。しかし、扉は一向に動かない。体育倉庫の窓は小さく、鉄格子がついている。スマホは……運悪く教室だ。華世子も同じようで、首を振る。どうしたものか。大声を出して、外に助けを求めても誰も気づいてくれないようだ。最悪、明日の朝までここで過ごさなくてはならない。それはまずい。家に帰らないと、男と母に怒られる。ふたりに犯されるくらいならまだマシだ。また包丁を使って身体に傷を作るかもしれない。それに、華世子と一緒というのもよくない。ふたりきりで一晩過ごすことは、教師たちやクラスメイトに変な想像をさせてしまう。ここからどうにかして出なくては。
しかし華世子はというと、のんきにマットの上に寝そべっていた。蒼人は華世子に向かって声を荒げる。
「何してるんだよ! 俺たち、閉じ込められたんだぞ!」
「それがどうしたの。いい機会じゃない」
 華世子のいう『いい機会』の意味がわからず、蒼人はムッとする。華世子は蒼人に座るよう言い、またじっと目を見つめる。
「私たちの戦いについて。あなたは私とともに戦ってくれると言った。私の親を殺してくれるってことよね」
 華世子の目は真剣だ。遊びや冗談ではないと、再度確認させられる。華世子の親を蒼人が殺す。蒼人の家に住む大人を華世子が殺す。もう逃げることなどできない。華世子の心は黒く染まってしまっている。その黒ずんだ心は、蒼人の心に寄り添い、同じように彼の心を染め上げていく。蒼人は強くうなずいた。自分は人を殺す。ただし、本当に自分が憎んでいる大人ではなく、会ったこともない人間を。それは華世子も同じだ。ふたりは同じ罪を犯す。その罪とは自分への罪だ。本当に憎い相手の死に顔を見ることは、一生ない。自分の親たちの死に顔を見ることができないというのは、正常な親子関係だったら後悔することだ。しかし、蒼人も華世子も、正常な親子関係を築いていない。親たちは、自分とは無関係な場所で死ぬ。
 華世子は蒼人に、お互いどうやって相手の親を殺すか、言わないことにしようと提案した。その方が都合がいい。親を殺して自分が死ぬ前に、警察に捕まってしまったらそれどころじゃない。蒼人も了承した。決行は、明後日に決めた。
 格子窓から外を見ると、もう暗くなっていた。華世子が時計を見ると、すでに七時。下校時刻もとうに過ぎている。残っているのは数人の教職員ぐらいだろう。それと、警備員。
 今夜は満月がくっきり見えている。星もいくつかささやかに輝く。冬の空には劣るが、ちらちらと細かい光が散らばっている。それを見た華世子は、下唇を噛んだ。
「夜空は嫌い」
「なんで」
「月や星の光が目立つでしょ。光が眩しすぎるのよ。すべてが闇に覆われてしまえば……月も星も、闇に埋もれてしまえばいい」
「雲が……雲がかかっていれば、月も星も見えなくなるよ」
「そうね」
「だけど尾崎は嫌いなんでしょ、曇り空」
「うん」
「……俺と違う。俺は好きだから」
 ふたりでマットに座り、小さな窓から空を見つめる。昼間、青空で、そのまま雲がかからなければ、夜は月や星がきれいに光る。華世子は夜空が嫌いだという。青空は好きだというのに、矛盾している。蒼人は華世子と逆だ。太陽が嫌い。だから、青空が憎い。
青と黒の空。ただ、どちらも抜けるような、落ちていくような、吸い込まれそうな怖さがあるのは変わらない。落ちた先に何があるのかなんて知らない。落ちてみなくてはわからないのに、落ちることはできない。それは重力だとか、物理性だとか、小難しくて理科的な意味ではなく、もっと感覚的なものだ。心が落ちるとは、どんな感覚なのだろう。ジェットコースターのように、心臓が浮く感覚とは違う。ふわふわしていて、むずがゆくて、自分の力ではどうにもできない、制御できなくなる。その感覚こそが死の近くにある気がする。死ぬ前に見る走馬燈は、きっとそんな感覚を得ているときに見えるものだ。ひらひらと散る木の葉みたいに、人の命は舞う。蒼人と華世子はそのときを待っている。
一週間後、ふたりは人を殺す。自分たちの親を。死んだ人間は空へ魂が上っていくという人もいる。自分たちの親は上るのではない。落ちるのだ。空に落ちて、あの不安定な危うさに心を震わせて、それこそ魂なんかが消滅してしまうくらいの恐怖に打ちひしがれてほしい。何年も、何十年も、永遠に。
地獄に落ちろとは言わない。地獄のような苦しみでは物足りない。本当に辛いのは、辛さや痛みを感じることができず、ずっと終わりの見えない不安を抱える方だ。今の自分たちがそうだから。
蒼人はいつ親や男に殺されるかわからないと思っているし、解放されることがもしあったとしても、その先の未来が見えずに恐怖している。
華世子もだ。自分が親の敷いたレールを走り続けたあと、どうすればいいのかわからない。親がレールを敷いたと言っても、それは途中で途切れてしまう。いい大学に入り、いい会社に入社。恵まれた相手と結婚して、子を授かる。マイホームを手に入れたあとは? 親は娘の生き様をただ鑑賞して、さっさと自分の舞台から去ってしまう。華世子の舞台の台本を書いた脚本家でありながら、彼女のステージを最後まで観ることなく消える、無責任な存在。将来なんて言葉は不確定要素に過ぎない。幸せがこの先にあるかなんて保証はない。運、不運は平等で、誰もが幸運な時があれば、不運の時があると、人生の先輩である自分にはかかわりのない占い師が言ったところで、本当に五分五分だとは限らない。一生恵まれず、人生に絶望して死ぬ人間もいる。だったら自分たちは、『夢』のために死のう。死ぬ権利を自ら行使しよう。
「まだ首の痣は残ってるの?」
「もうない」
「他の傷は?」
 蒼人は学ランを脱ぐと、白シャツのボタンをはずす。上着をすべて脱ぐと、華世子に自分の傷と痣を見せる。腹の傷は跡になっている。その他にも、腹部に青痣。これは殴られたときのものだろう。そして新たに鎖骨の舌にも紫の印がつけられていた。これが母のものか、男のものかは最早覚えていなかった。ふたりに抱かれるのは、台風と同じ。苦痛を耐え忍ぶだけの行為だ。どちらでも関係ないし、興味もない。
「ふうん」
華世子はまじまじと蒼人の華奢な身体を見ると、あのときみたいに躊躇なく舌を痣や傷に這わせる。蒼人はそれを無言で受け入れた。彼女が何故このような行為をするのかはわからない。だが、母や男のような劣情を持っているようには見えない。しばしば華世子は舌で傷口を舐めながら、蒼人の表情を確認していた。蒼人はその上目遣いに困り、視線を逸らす。羞恥で顔が赤らむのがわかる。理解できないのは、華世子にそうされることに感じてしまう自分自身だ。
華世子に対しての恋愛感情はない。生理的現象かと言われても、そうとは言い切れない。華世子の顔はメガネをしてはいるが、整っている。とはいえ、自分にも母や男の持つ劣情があるとは自覚したくないし、できなかった。実際、これは劣情ではない。かといって純粋な愛情でも恋慕の情でもない。
蒼人にとっての華世子は、同じ動機を持つ人間。友達でも恋人でもない存在。同志だ。
「お、尾崎は……なんでこんなことをするの」
「あなたの痣が好きなの。私の想像力をかき立ててくれるその痣が。苦しかった? 嫌だった?」
「同情ならごめんだ」
「まさか。違うわ。私はあなたにつけられた痣が好きだと言ったでしょ。あなたが『負けた印』が好きなの。大人に屈服させられて、無様につけられた印がね」
 無様、と言われた蒼人は、さすがに頭に来て華世子のむなぐらをつかんだ。自分につけられた痣が好き? 冗談じゃない! 当然好きでつけられたものではないし、屈服させられたわけでもない。あるがままを逃げずに受け止めた、勇気の印だ。自分にはもうない、最後の力で立ち向かった証だ。この痣があっても、身体に傷をつけられても、自分は自分だ。そう言い聞かせていた。華世子もそうだと思っていたと勝手に想像していた。だから一緒に親を殺そうと持ちかけたと思っていたのに。
「尾崎は何を考えてるの」
「あなたの苦しむ様を見て、勇気づけられているの。私もアオと同じくらいの屈辱を受けているんだ、だからあいつらを殺してもいいんだって」
「そんなの……」
 間違えているとは言えなかった。華世子の考えていることがわからない。蒼人自身は肉体的に傷つけられている。しかし華世子はその傷を負っていない。まさか――
「俺と痣を共有しているつもりになっている……とか」
 答えは返ってこなかった。そのかわり、むなぐらをつかんでいた手をはたき落とし、鎖骨の下を舐め始める。喘ぎ声を出しそうになるのを我慢する。華世子は蒼人の様子を見つつ、鎖骨から腹へと舌を動かす。嫌なのに、止めてくれという言葉が出ない自分にも不信感を覚える。
自分は、華世子にそうされるのを待ち望んでいるのか? そんな破廉恥な。あの汚い人間たちと同じだとは思いたくない。自分の身体を汚れた液で濡らす、あの怪物たちと同じだとは想像もしたくない。自分は真っ当な人間だ。そう信じなくては辛すぎる。性欲だけしかないあのバケモノたちは、蒼人の心まで食らっていった。
「ねぇ、アオは真っ白だと思う? 自分のことを」
 突然の質問に、蒼人はうろたえる。自分は怪物ではない。そう信じたいが、他人から見たら違うのかもしれない。クラスメイトに体育倉庫で身体を舐めさせる少年だ。色欲に狂って、学校内でも行為を要求しているとも取れる。何故なら、自分で華世子を拒めないからだ。本当に嫌だったら、彼女を突き飛ばしている。初めて首筋を舐められたときみたいに。それができず、ただ彼女の言う通りにしている自分は、真っ白な人間ではない。競馬新聞を読んだ手で白い折り紙を手にすると、折り目に灰色の跡がつく。灰色のラインを引かれた折り鶴が自分だ。
「俺は……俺は……」
「真っ白ではない。でも、真っ黒でもない。私たちは灰色なのよ」
 幼い頃のように、きれいごとだけでは生きていけない。しかし、大人のような腹黒さは備えていない。自分たちは、汚されることを待つしかできない灰色の折り紙だ。華世子はすでにその答えを見出していた。
「尾崎は本当に、親が憎いんだね」
 息を荒げながら、蒼人は華世子に言った。それでも華世子は痣を舐め続ける。しばらくその行為は続けられた。蒼人はまた窓から空を見る。月夜に雲がかかって、だんだんと星が消えていく。
まるで華世子みたいだ。蒼人はそう思った。蒼人の痣を舐めて、自分の色へと変えていく。痣を共有しているようで、その実は華世子の唾液で上書きされていっている。
その灰色に近づいた夜空に、ぼやけた光がちらりと見えた。華世子も気づいたのか、はっとし、蒼人から唇を離す。あれはきっと、警備員の懐中電灯の光。
「誰かいるの? 出して!」
華世子が大声を上げて壁を叩くと、外からガチャリという音がして重い扉が開いた。
「君たち! 一体こんな時間まで何をしていたんだ?」
 蒼人も華世子も黙る。警備員に助けられたふたりは、暗い中教室へカバンを取りに行く。教師たちには明日詳しく話をすることで勘弁してもらうことになった。
 帰り道、華世子は自嘲しながら蒼人に向けてつぶやいた。
「バカね、私。親に怒られるために、助けを求めるなんて」
 華世子はぱたぱたと走りながら去って行く。蒼人はそのうしろ姿を見て、涙する。死ぬために生きる。生を手に入れる。だとしたら彼女は、本当に死ぬべき存在なのかもしれない。蒼人自身はこのとき、生を手に入れることを諦める決心をした。自分のためではない。幸福
な華世子のために。

 迷っている暇などなく、あっという間に決行日は訪れた。今日は土曜日だ。華世子から、彼女の両親の都合は聞いている。どうやら昼は家にいるようだが、夜はクラシックのコンサートに行くらしい。蒼人の母と男は、昨晩遅かったため、夕方まできっと眠ったままだ。そして適当に起きたら、部屋にいる蒼人に食事を作らせ、また仕事や遊びに行くはずだ。
 朝、蒼人は公園で華世子と打ち合わせをしていた。昼の時間帯、彼女は蒼人の母と男を殺す。蒼人はその間、アリバイ作りとしてゲームセンターへ向かう。夜は逆だ。蒼人が華世子の両親を殺す。華世子は塾へ行きアリバイ作りだ。
「アオ、とうとうこの日が来たね」
 華世子はずっと聖母のような笑みを浮かべている。蒼人は灰色のパーカーに着いたフードをかぶって、ポケットに手を突っ込んでいる。彼女の顔を見ることができなかった。彼女の笑みが、自分の気持ちをずたずたにする。華世子は何も知らないだけだ。気づいていないだけだ。
 自分たちはみんな、灰色なのだ。きれいな青でもない。真っ黒な闇でもない。つらいことも幸せなことも、幸も不幸も感じるせいで、ひとつの色になり切れない人間。蒼人は、自分で得た回答を、華世子に伝えるつもりはなかった。彼女は幸せになるべきだ。だから――
 華世子はうつむいていた蒼人の顔を両手で包むと、初めて唇にキスをした。蒼人は彼女の思いを素直に受け入れる。口づけの位置で、相手の心情がわかると昔読んだ小説にあったことを思い出す。首筋は執着。母親はどんな男にでも執着していた。だから息子の首筋にも痣をつけていた。今、華世子が口づけた位置。唇は……『愛情』。この二文字が頭に浮かぶと、真っ赤になる。今更すぎる。蒼人はもう覚悟を決めていた。なのに、華世子は。
「正午になったら、あなたの家に行く。あとは任せて。あなたは……」
「わかってる。アリバイを作っておくよ」
「じゃ、すべてが終わったら、この公園で。またね、アオ」
 華世子は何も言わずに立ち去る。行ってしまったか。ベンチに座ってうなだれる蒼人。『アオ』と自分を呼んでくれる人間は、この先一生いないだろう。頭の中にこだまする華世子の声。何度も何度も自分を呼ぶ。『アオ』と。
 今日の空は曇っている。自分の好きな空なのに、今日だけは青空でいてほしかったと、蒼人は思っていた。

 正午。時間だ。蒼人は量販店で包丁を買うと、それをパーカーのポケットに忍ばせる。人を刺したことがないから、うまく使えるかはわからない。それでも自分が使えそうな武器は、これくらいだ。家の方向へ歩いて行くと、どんどん人が増えていく。カンカンという騒がしいサイレンが耳を劈く。カメラを持って走る人。逆に逃げてくる人も。焦げ臭いにおいもする。空を見上げた。
――赤い。赤い空だ。今まで見たこともない、夕日とは違う空の色。大嫌いな青と対比的な赤。
 蒼人の住んでいたアパートは、どす黒い煙と炎に包まれていた。すでに消防車も到着していて、消火活動をしている。パチパチと火の子が飛び散る音もする。華世子の仕業だ。約束だったから。どんな殺し方をするかは、お互い言わないと。蒼人は野次馬の中から華世子を探した。メガネの少女は、じっと煙が建物を飲み込むまで見つめると、後ろを振り返る。
「……どうして? アリバイ作りは?」
「それより、母さんたちは?」
「永遠にこの煙の迷宮から出てくることはない。殺してから火をつけたから」
「そう、ありがとう。そして――」
「……え?」
 ジワリと華世子が来ていた黒い服が湿る。彼女の深くに蒼人は持っていた包丁を差し込んだ。彼女が一度で必ず死ねるように、最奥へ刃を押し込む。
「おめでとう。君は生を手に入れた。俺は、君の犯した罪とともに死んでいく」
 華世子はそのまま崩れ落ちるように前へ倒れる。そこには血だまりが。誰かの悲鳴が聞こえたような気もしたが、蒼人にはどうでもよかったことだ。
 華世子の両親は、彼女が死んだことを悲しむだろう。華世子は生を得て、安寧の死を迎えるべき少女だ。自分なんかとは違う。自分は人を殺し、『生』を手に入れることはできない。そんな権利すら与えられていない。華世子とは違う。幸福な、祝福された少女とは違うのだ。
これからも蒼人は、死んだままだ。生きることなく死んでいく。その運命を変えることはできない。どんな人間でも、自分を救うことはできない。救われたいとも望まない。
蒼人は夕方、公園で逮捕された。まぶたに焼きつけられたのは、真っ赤な空。命が燃える色の空だった――


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