第1話
文字数 1,576文字
犬の尻尾を膝に抱え、息を白くして、如月は土手にすわって街明かりを見ていた。傍らには、飲みかけの菊水が寒風にさらされて、自販機から転げ出た瞬間よりも冷え切っていた。
如月は、犬の妖怪だったが、心は人間のそれだった。いや、そうじゃない。多くの犬がそうであるように、人間と同じ心を持っていた。だから、寒い夜の街明かりが、遠くの世界の星空のように見えるのだ。
カサッ…。
如月の耳が、枯れ草を分ける足音を聞いた。振り返ると、ビニール袋を両手で下げた小さな影が…。
「忍び寄るのはやめろって」
如月は不機嫌に言いつつ、気づかれないようにしながら、膝に抱えた尻尾を手放した。
目が慣れて見えてきたのは、十かそこらの年端の妖狐、鈴音だった。同じ街に暮らす、長い付き合いの妖怪だ。少しダボッとしたセーラー服を着て突っ立ち、対岸の明かりに白い息を吐く。
「いつまでも呑みに来ないから」
鈴音は、注意深く見れば…程度に心配顔で言った。
如月は返した。
「あたしだってたまには、呑みたくない日がある」
眉間にしわを寄せる。
鈴音は、突っ立ったまま、如月の脇に置かれたものを見た。
飲みかけの菊水。
如月は口をとがらせると缶を取り、証拠隠滅とばかり、残りを一気に喉に流し込んだ。
ゴクッ、ゴクッ…
ブルルッ!
「ひやぁ…!」
身震いと同時に、思わず声が漏れる。冷え切った菊水が胸の芯に突き立つ。
「やせ我慢なんて、柄じゃないんじゃないの?」
鈴音は苦笑いをしたようだった。
如月はそっぽを向くと、缶を握りつぶしてメダルのようにし、ズボンのポケットに突っ込んだ。それを見て、鈴音が言った。
「不満があるんだね」
「なににだよ」
「寒い夜に」
ますます不愉快になる。
そっぽを向くと、鈴音が隣に腰を下ろしてきた。長いスカートの裾を直しながら、膝にビニール袋を上げる。
「如月は最近、いいことがなかったよね。ちがう?」
鈴音は遠慮を知らない。如月は目をそらした。
鈴音は静かに、けれどはっきりと逆なですることを言った。
「だからって、無理して冷や酒飲んでるのなんてさ、みっともない」
「あたしは! 冷やが好きなんだよ!」
「知ってるよ。長い付き合いだから」
鈴音は淡々と言って、ビニール袋から何かを出した。薄い金色をした、菊水の缶だった。
「はい、おかわり」
それを、有無を言わさない勢いで突き出す。
「……わかってんじゃねぇか」
如月は溜飲を下す。…が、その缶を受け取って絶叫した。
「熱いッ! テメェ、コイツを熱燗にしたのかよ!」
「熱燗にしちゃダメって、誰が決めた?」
鈴音は目を合わせようとしないで、さらに袋から、自分用のワンカップ甘酒を取り出すと、カパッと蓋を抜いて、緩く立ち上る湯気を見つめた。
「あたしにはいいことがあった。だから、お裾分けに来た」
「………」
「乾杯」
鈴音は言ってから如月を振り向いた。そして、目を丸くした如月の菊水に甘酒のコップを当て、向こう岸の街明かりに目を戻すと甘酒にくちびるをつけた。
それきり、言葉を口にしようとしない鈴音に、如月は手の中の菊水を見た。熱い缶を、思わず握りしめてしまっていた。
「……クソ。しもやけになっちまうじゃねぇか」
如月は雑言を言いながらプルタブを引き、いつもとは違う匂いが立ち上るのを見つめてから、そっと口をつけた。
………。
ズッ…。
ズズッ。
喉を下っていく、灼けた水…。
如月は喉がひねり上げられて息が詰まるのを覚えた。
苦しさにまぶたが震える。熱い水があふれてくる。
そのとき、鈴音が淡々と言った。
「たまには、熱燗でもいいと思った。
それだけだよ」
冷たい言い方までもが熱い。
だから。
だったら。
今夜くらいは。
………。
「この…妖狐め」
如月はため息をつくと鼻をすすり、信念を曲げる自分に悲しくなりながら、今夜は甘い酒を体に入れた。
終
如月は、犬の妖怪だったが、心は人間のそれだった。いや、そうじゃない。多くの犬がそうであるように、人間と同じ心を持っていた。だから、寒い夜の街明かりが、遠くの世界の星空のように見えるのだ。
カサッ…。
如月の耳が、枯れ草を分ける足音を聞いた。振り返ると、ビニール袋を両手で下げた小さな影が…。
「忍び寄るのはやめろって」
如月は不機嫌に言いつつ、気づかれないようにしながら、膝に抱えた尻尾を手放した。
目が慣れて見えてきたのは、十かそこらの年端の妖狐、鈴音だった。同じ街に暮らす、長い付き合いの妖怪だ。少しダボッとしたセーラー服を着て突っ立ち、対岸の明かりに白い息を吐く。
「いつまでも呑みに来ないから」
鈴音は、注意深く見れば…程度に心配顔で言った。
如月は返した。
「あたしだってたまには、呑みたくない日がある」
眉間にしわを寄せる。
鈴音は、突っ立ったまま、如月の脇に置かれたものを見た。
飲みかけの菊水。
如月は口をとがらせると缶を取り、証拠隠滅とばかり、残りを一気に喉に流し込んだ。
ゴクッ、ゴクッ…
ブルルッ!
「ひやぁ…!」
身震いと同時に、思わず声が漏れる。冷え切った菊水が胸の芯に突き立つ。
「やせ我慢なんて、柄じゃないんじゃないの?」
鈴音は苦笑いをしたようだった。
如月はそっぽを向くと、缶を握りつぶしてメダルのようにし、ズボンのポケットに突っ込んだ。それを見て、鈴音が言った。
「不満があるんだね」
「なににだよ」
「寒い夜に」
ますます不愉快になる。
そっぽを向くと、鈴音が隣に腰を下ろしてきた。長いスカートの裾を直しながら、膝にビニール袋を上げる。
「如月は最近、いいことがなかったよね。ちがう?」
鈴音は遠慮を知らない。如月は目をそらした。
鈴音は静かに、けれどはっきりと逆なですることを言った。
「だからって、無理して冷や酒飲んでるのなんてさ、みっともない」
「あたしは! 冷やが好きなんだよ!」
「知ってるよ。長い付き合いだから」
鈴音は淡々と言って、ビニール袋から何かを出した。薄い金色をした、菊水の缶だった。
「はい、おかわり」
それを、有無を言わさない勢いで突き出す。
「……わかってんじゃねぇか」
如月は溜飲を下す。…が、その缶を受け取って絶叫した。
「熱いッ! テメェ、コイツを熱燗にしたのかよ!」
「熱燗にしちゃダメって、誰が決めた?」
鈴音は目を合わせようとしないで、さらに袋から、自分用のワンカップ甘酒を取り出すと、カパッと蓋を抜いて、緩く立ち上る湯気を見つめた。
「あたしにはいいことがあった。だから、お裾分けに来た」
「………」
「乾杯」
鈴音は言ってから如月を振り向いた。そして、目を丸くした如月の菊水に甘酒のコップを当て、向こう岸の街明かりに目を戻すと甘酒にくちびるをつけた。
それきり、言葉を口にしようとしない鈴音に、如月は手の中の菊水を見た。熱い缶を、思わず握りしめてしまっていた。
「……クソ。しもやけになっちまうじゃねぇか」
如月は雑言を言いながらプルタブを引き、いつもとは違う匂いが立ち上るのを見つめてから、そっと口をつけた。
………。
ズッ…。
ズズッ。
喉を下っていく、灼けた水…。
如月は喉がひねり上げられて息が詰まるのを覚えた。
苦しさにまぶたが震える。熱い水があふれてくる。
そのとき、鈴音が淡々と言った。
「たまには、熱燗でもいいと思った。
それだけだよ」
冷たい言い方までもが熱い。
だから。
だったら。
今夜くらいは。
………。
「この…妖狐め」
如月はため息をつくと鼻をすすり、信念を曲げる自分に悲しくなりながら、今夜は甘い酒を体に入れた。
終