第1話

文字数 2,857文字

 海岸まで続く黒く湿ったアスファルトの道。濃霧で視界がさえぎられる早朝、はやる気持ちとスピードを抑えながら、楓人(ふうと)は車を走らせていた。
(間に合うか…。)
 3度目の信号待ちで背後を振り返ると、今来た道がセンターラインごとすっぽり霧に飲まれていた。霧の中に、黄色い行灯(あんどん)のような頼りない光が揺れている。古びた軽トラックがぬっと姿を現して曲がり角へ消え去った。楓人は不安な気持ちになり、背筋がすっと寒くなった。
 時刻は6時3分。黒松の巨木が並ぶ町役場の庁舎を通過すると、ナビゲーションの画面が到着まで3分と告げている。前方の煙幕に赤色がにじんだが、楓人の気持ちにゆとりができた。信号の向こうには、海岸沿いの堤防が見えるのだ。
(間に合った!)
 広い駐車場へ車を滑り込ませ、エンジンを停止させた楓人は、堤防へのスロープを駆け上がった。霧に沈んだ無風の砂浜の果てには、平たく凪いだ海原が横たわる。楓人は波打ち際まで走り続けた。 
 霧の壁で仕切られ、広い海原は細長い箱庭になっていた。わずか5mほど先は海と霧と空が溶け合って視界がさえぎられている。すでに水平線を上がっているはずの太陽が、白い空のどこに潜んでいるのかわからない。波はきめ細かな泡に縁取られ、一枚板の砂浜をこもった音でなでている。
 波打ち際に立ち、楓人はポケットからスマートフォンを取り出した。そして、スクリーンショットされた字面と、目の前の光景を交互に食い入るように見つめた。
(気温、風、波の高さと音、それと陽光…あいつが言ってた条件、全部揃ってるじゃないか…奇跡だ…。)
 楓人は、ぶるりと身を震わせた。願いが叶えられる期待、それを裏切られたらと思う不安、それらが撹拌されて膨張し、胸の奥から溢れ出しそうだった。
 ぬれた砂浜にどっかりあぐらをかく楓人を、いぶかしげに見る人の姿もない。楓人は目を閉じた。まぶたの奥に、11年色褪せず浮かび上がる妻・桃香(ももか)。妻に抱かれた愛犬チェロの茶色い毛。いつもにじみ出る涙が、今日は乾いていた。その代わり鼓動がまぶたまで打ち鳴らす。
 どのくらい目をつむっていたのかわからない。まぶたの裏でいつになく生き生き動く桃香とチェロを、楓人は飽かず眺めていた。庭に様々な植物を育てる桃香が、植木におしっこをかけるチェロを笑いながらたしなめる。咲いたばかりの福寿草の黄色がまぶしい。11年前の今日、津波の濁流に連れ去られた家族たちと我が家が、鮮やかな色彩を増やしながら蘇る。
 その時、柔らかな弾力の物体が膝に触れ、楓人は現実へ引き戻された。目を開けると、ミルク色のいびつな球体が右膝に当っていた。手に取ろうとすると、楓人の目の前で球体ははじけた。弾力がある膜が宙へ消失すると、霧の海を背に、小柄な女性が笑顔で立っている。楓人ははじかれた様に立ち上がった。
「桃香?ほ、本当に桃香か!」
笑顔のまま声は発せず、桃香は楓人の冷え切った両手を握った。そして背後の海を振り返る。霧が漂う凪いだ波の上を、球体がもう一つころころ転がり来る。夫婦はその頼りない動きの球体をそっとキャッチした。
「チェロも!!来てくれたのか!」
チェロは、跳ねるように楓人と桃香の間へ飛び込んだ。楓人は、あまりの嬉しさでよろけ、波が押し寄せる水際に尻をついた。
「ほんとに、ほんとなんだな!会えたんだな!」
波の中で座り込む楓人へ、腕を伸ばす笑顔の桃香と、はしゃいで足にまといつくチェロは、やはり声を発しなかった。楓人は、涙を流しながら何度もうなづいた。
「いいんだ、話せなくたってこうして目の前で会えるだけで。俺、モモの話、信じて待ってよかった…。」

 この海岸で交わした会話を、楓人は11年大切に抱えてきた。
―フウ知ってる?「霧たまろび」伝承。霧の条件がすべて整った命日限定で、この月貝(つきかい)海岸で起きる奇跡なんだって。
―知らないよ、昔話なんて興味ないし…。
―あの世にいってしまった、会いたい魂をまぶたに思い浮かべる…そうすると、霧の卵から魂がまろび出てくるの!素敵だよね、フウがおじいさんになってあたしを残して旅立っちゃったら、あたし、毎年ぴったり条件がかなう霧の日を待ってあげるね!
―ゲ…新婚だってのに、もうじいさんになる話かよ!それに、そんな話信じるなんて、やっぱりモモはお嬢だな…残念ながら、俺はそういうファンタジー苦手だし、年一回だけのチャンスをずっと待つなんて無理。
―ひどいわね、うそでも、待つよって言ってくれればいいのに!ねえ、チェロ…。
 
家族を両腕に抱きよせ、楓人は11年分の涙を流し続けた。11年探し続け、一片の遺骨も拾えなかった愛する命が目の前にいる。毎年独りでこの海岸を訪れた楓人の失望は、今日、霧散した。
 不意に、楓人の涙に濡れた頬が白々と照らされた。霧の壁から太陽が顔を出そうとしている。楓人は顔を上げて空へ叫ぶ。
「まだ出ないでくれ!頼むから!」
桃香とチェロの輪郭がぼやける。楓人は両腕で必死に抱き締めた。
「11年振りなんだ!もう少し待ってくれたっていいじゃないか!」
けれど、太陽は容赦なく白銀の光を増し、ついに、閃光が霧を破って波打ち際を照らした。湯気が上がるように霧が空へ引き上げて行く。その中に桃香とチェロも吸い上げられていく。
「待ってくれ!」
宙に浮かんだ桃香はチェロを抱き、楓人を見下ろしている。大きく口を開閉して何かを伝えたのを最後に、笑顔のまますいっと白い光に消えた。
「モモ!チェロ…。」
今、海原は箱庭から開放され、真上の空には青空が広がり始めた。霧は緩やかに上昇して宙を煙らせながら太陽に吸い込まれていく。
 
 楓人は水際に手をついたまま、海と空の中間を見ていた。霧が連れて来て連れ去った魂を見送っていた。砂浜に散歩をする老人が現れ、午前7時を報せるチャイムが海辺のスピーカーで鳴ると、ようやく立ち上がった。海水をどっしり含んだ衣服が重く、来る時は走ってきた堤防までの距離が、とてつもなく遠く感じた。一足運ぶごとにジリジリ強くなる太陽に背を押され、楓人は時折足を止めた。振り返ると、海はまったく様相を変えている。漁船が白波を立て、沖へ出て行くところだった。
(夢見てたんじゃないか、俺。)
堤防へ上がるスロープを歩みながらため息をつくと、不意に声が聞こえた。
―またね!
「え?」
楓人はすばやく振り返った。聞き間違えるはずがない、懐かしい桃香の声だ。
白くまぶしい浜を見渡したが、楓人の近くに人の姿はなかった。しばらくぼんやり周りを見渡していた楓人は、はっとした。桃香が空に溶けながら伝えようとした言葉が浮かんだ。
(またねって言ったのか、モモ。)
楓人は自分の頬をぱしっとたたき、顔をあげた。そして、大きく息を吸って海へ叫んだ。
「わかったよ、また会えるな!今度いつかはわからないけど…俺がじいさんになって、お前たちがいる空に行く時かもしれないけどな!」
無風だった砂浜に、海風が急に吹き始め、ぬれた衣服と重い足取りがふいっと軽くなった。楓人は、海を背に駐車場へ走り出した。

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