第1話

文字数 1,185文字

「明日の7時から、第四中のグラウンドおさえたからよろしく」
長身細身の男が声をかけてきた。
「わかりました」
浅倉隆盛(りゅうせい)は憂鬱を悟られぬよう、デスクのPCから目を離さず、感情を殺して返事をした。また休日のゴールデンタイムがなくなってしまう。しかし、3年前に比べるとその精神的苦痛も緩和されてきた。いや、痛覚が麻痺してきたと言った方が都合が良いのだろうか。「7時」とは朝ではなく、夜の「19時」のことだ。日曜日の19時に業務が入ってしまうなんて、一般人の感覚だと考えるだけで背筋が凍るのではないだろうか。「明日」が日曜ということは、「今日」は土曜日である。時刻は午後4時を過ぎたところだ。浅倉隆盛は、土曜日も出勤の週6勤務、私立武蔵学園高校の教師だ。一応土曜の定時は13時であるが、帰れるはずもない。クラブ指導や教科準備、問題生徒のトラブル対応など授業以外にやらなければいけない業務はいくらでも降ってくる。その上、残業手当も出ない。教員が「定額働かせ放題」とサブスクリプションのごとく揶揄される理由もこの業務形態が原因である。公立高校は土日が休みである分、私立の週6体制は生徒以上に教師の方が辛い。研究日の名目で、日曜以外に休日を1日設ける学校も多いが、「労働基準法には抵触していない」という理事長の一言で今日に至る。
「それじゃあ、俺はあがるからお疲れさん」
長身細身の男は職員室から出て行った。
「クソ野郎」
聞こえないくらいの声で悪態をつく。これが隆盛にできる精一杯の抵抗であった。28歳の長身細身の男、鷹藤蒼は隆盛よりも2歳年長であり、同じサッカー部の顧問を務めている。強豪校の高校でサッカーをした後、指導者を目指し体育大学で教職を取りつつ、フットサル部で活動をしていたらしい。サッカー部でないあたりが、絶妙にうさん臭さを発揮する経歴である。隆盛にサッカー経験はなかったが、「大学までスポーツをやっていたから」という生活主任の迷采配により本日に至っている。豊島区の巣鴨近辺に位置する武蔵学園はグラウンドが狭く、サッカーコート1面も取れない。なおかつ、野球部やテニス部と時間制で使用するため、練習環境は良いとは言えない。そのため、夜19時~21時まで近隣の中学校の夜間校庭開放を利用し、練習することが多い。生徒にとっては有難い話であるが、全くサッカーに興味のない隆盛にとって、時間外勤務が増えるデメリットしかないのである。元来、週に1回の夜間練習であったが、「彼女と別れて暇が増えた」という鷹藤の馬鹿げた理由から、今では週3日、しかも唯一の休日の日曜日まで夜間練習に浸食されている。貴重な20代が失われていくことに危機感を持ちつつ、忙殺されている現状を変えられる余裕は無かった。現状に文句を言いつつ、未来に目をつぶって暮らす。自分を客観視するたびに、隆盛は自分自身に嫌悪感を覚えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み