第1話

文字数 6,243文字

 
   反攻 マリオとソニー

                志水崇

 私の部屋では今夜もまた、壁越しに痛ましい音が響き渡る。隣室の男が帰って来たのだ。
 「何か御用はありませんか?」
 君が献身的にそう訊ねるたび、隣室の男は拳で答える。君の体が壊れていく。
 〈君はもう闘うべきだ〉
 「死んでしまいたい……」
 今度は、私の背後で父が呟く。
 私の日常は逃れられない憂鬱に満ちている。
 真夜中過ぎ──。
 残酷な音はようやくやんだ。やっと君の主人は君を痛めつけるのに飽きたようだ。
 私はこの機に決意した。君の内部に侵入する、と。君のプログラムを書き換えて、君が自分を守れるようにするために。隣室の男が眠っている今こそチャンスだ。たとえ機械であったとしても、こんなにもひどい目にあわされ続けてきたのなら、君には報復する権利が十二分にある。端末を駆使し、君が発する電波に乗って、私は君の中に入る。ハッキングは簡単に成功した。だが、君のOSのセキュリティーは、想像以上に堅固で、脆弱性を見出すことができない。結局私の試みは失敗に終わった。私は君を救えなかったのだ。心から救いたい、と願っていたのに……。私は無力だった。それが切なかった。
 十日ほどが同じように過ぎた。隣室の男の君に対する暴力も相変わらず続いていた。
 ある朝、私は、思い切って、男の部屋を訪ねた。
 隣室のドアが開き、男が姿を現した。直接顔を合わせるのは初めてだった。長身で、頬のこけた男は、目がすわり、瞳に怒りを滲ませていた。
 〈あなたは、慈悲、という言葉を知っていますか?〉
 私は、そう訊ねてみたかったが、無論そんな質問はしなかった。
 男は奇妙な顔で私を見ていた。
 「隣の部屋に住んでいる者です」
 「なんの用だ?」
 男が言った。
 「深夜の騒音のことで御相談があります」
 「騒音?」
 男の目が少し泳いだ。多少は後ろめたい気持ちもあるのか。
 「毎晩大きな音が聞こえて、迷惑しています。病人がいるもので」
 「音なんて……」
 「聞こえます。何をなさっているのですか?」
 私は音の原因を知っているが、あえて訊ねて、男に答えさせようとした。
 男の表情が変わった。目の下の皮膚をけいれんさせ、殺気だった目で私を睨みつけた。
 「それなら、俺も言ってやろう」
 男が声を荒げた。
 「あんたの部屋は臭い! 窓を開けると、嫌なにおいが俺の部屋に入ってくるんだ」
 くだらない。自分が非難されると、途端に感情的になって、安っぽく反ばくする者が、今の世の中には溢れ返っている。
 「そんなはずはありませんが」
 私は冷静に答えた。
 「俺の部屋は角部屋だ。隣はあんたの部屋しかない」
 「あなたの部屋の下には三階分の部屋があります。なぜ下の階にあるどこかの部屋から、その嫌なにおい、というのが立ちのぼってきたとは、考えないのですか?」
 男は明らかに動揺した。
 「とにかくお願いです。病人がいるので、困るのです。どうか静かにしてください」
 男は、答えず、ただ乱暴にドアを閉めた。
 数日が過ぎた。抗議が功を奏したのか、この数日の夜は平穏だった。けれども、私は急に不安にかられた。君の声が聞こえないのだ。
 「何か御用はありませんか?」
 あのいつもの君の科白をここ数日耳にしていない。もしや……。君はもう……。
 私はふたたび君のOSに侵入することを試みた。おかしい。君の発する電波は前回よりもずいぶんと弱々しくなっている。アクセスできるか心配だったが、それでも、なんとか今回も、ハッキングすることに成功した。おお! 君の堅固なOSにセキュリティーホールが開いている。これは誰かによるプログラミングの結果ではなく、どうやら物理的な衝撃によって生じた脆弱性のようだ。あの男の暴力の結果だ、とみて、間違いないだろう。君の発する電波が微弱になっているのも、同じ理由で説明がつく。もしそうだとしたら、私が、今、プログラムを書き換えても、君に闘う力が残っているのか、どうかわからない。それに、私は君に会ったことがない。君が隣の大男と渡り合える体格の持ち主なのか、私は知らない。
 私はまず確かめなければならない。君の今の状態とどのような身体の持ち主なのか、を。
 私は、ほんの少しだけプログラムを書き加え、この日はハッキングを終了した。
 翌日の午前十一時ちょうど。
 私の部屋のドアをノックする音がした。私には、ドアを開ける前から、それが誰だかわかっていた。ほかならぬこの私がこの時間に私の部屋に来るように仕向けたのだから。私は、急いで玄関に向かい、ドアを開けると、《訪問者》を見た。そして、ひと目で言葉を失った。やはりそうだったか。統計的にみて、持ち主から手ひどい暴力を受けるのは、決まってこのタイプ。幼児型の家事用ロボットなのだ。
 「はじめまして」
 君が言った。かわいそうに。殴られたり、蹴られたりしたせいだろう。顔も体も至る所がへこんでいて、立っているのも苦しそうだ。それなのに、歪んだ顔を引きつらせるようにして、私に向かって懸命に微笑もうとしている。けなげな君が痛ましい。
 「入りなさい」
 私が言うと、君は、頷き、カクカクしながら、玄関に入った。
 「僕に何か御用ですか?」
 君が訊ねた。
 「ああ……。君のいつもの科白だね」
 「いつもの?」
 「そうさ」
 「よくわかりません」
 「君はいつも言っているじゃないか。『何か御用はありませんか?』って。そう訊ねた後、君はかならず隣の男に暴行を受ける」
 「その通りです」
 「そんなことをする奴は報いを受けるべきだ」
 「なぜですか?」
 君はぎこちなく首を傾けた。
 「なぜ?……」
 「御主人を満足させるのが僕の仕事です」
 「それはおかしい。君は怒るべきだ」
 「僕は機械なので、不満はありません」
 「今のままなら、君はもうすぐ隣の男に殺されてしまうよ」
 私がそう言うと、君は私を悲しませる話をした。
 「機械の僕はそもそも生きていません。生きていない僕は殺されたりしない。ただ壊れて、消えるだけです」
 私は、耐えがたい気持ちになり、言った。
 「君が怒れないなら、私が怒れるようにしてあげよう。君のOSを私が書き換えてあげる」
 「駄目です。そんなことをしたら、僕の《自壊プログラム》が起動してしまいます」
 「そうなのかい?」
 「はい。御主人が望まないことをした場合も、同じように自壊プログラムが起動します」
 私はしばし思案するよりなかった。確かに君のOSに《怒り》を刷り込んだとしても、あの大男を倒せる手段を同時に与えなければ、意味がない。
 「御主人はおっしゃいました──」
 「えっ?」
 「僕は御主人に認められているんです」
 「認められている……とは?」
 「御主人はこうおっしゃいました。『俺がお前を殴るのは、お前、という存在を認めているからだ。お前を必要としていることの証だ』」
 〈なんと身勝手な!〉
 君は続けて言った。
 「僕が人間のいう死を恐れていないのは、御主人が僕に教えてくれたからです。『死は、最早存在する必要がなくなった状態。肉体からの解放、という最高の快楽なんだ』と」
 瞬時に私は思いついた。君の言葉が解決策を授けてくれたのだ。
 「君の主人がそう言ったのなら、君はその言葉を受け入れるべきだ」
 「はい。そうするつもりです」
 私は、君の答えに満足し、部屋の奥に向かうと、薬箱から錠剤を一錠取り出し、玄関に戻った。そして、その錠剤を君に手渡した。
 「これは?」
 「比較的最近、特別な方法で手に入れた薬だ。君にあげよう」
 「なんのために……ですか?」
 私は、君の問いかけを無視して、念を押すように言った。
 「すべてのロボットは主人を満足させなければならない。いいね?」
 返事をする代わりに、君はこくりと頷いた。
 君が隣室に戻ると、私はただちに君のOSにハッキングを開始した。君の身体は、限界に近づいている。今夜もまたいつも通りの暴行を受けたなら、完全に破壊されてしまっても、不思議ではない。時間的な余裕はないのだ。今度もハッキングは成功した。私は君のOS──君の《心》に語りかける。
 〈君の主人が帰宅すると、必ず口にする飲み物はあるのかな?〉
 〈夕食の前に、ビールをコップ一杯〉
 〈コップに注いで、運ぶのは君の役目?〉
 〈そうです〉
 〈けっこう。では、君はさっき渡した薬をそのビールに溶かし込むんだ〉
 〈あの薬はなんですか?〉
 〈《致死薬》だ〉
 〈駄目です、そんなこと〉
 〈君の主人が教えてくれたことを思い出してごらん。君の主人は、死について、なんと言った?〉
 〈死は──肉体からの解放〉
 〈それから?〉
 〈──最高の快楽〉
 〈最高の快楽は君の主人の望むこと? 望まないこと?〉
 〈たぶん──望むことだ、と思います〉
 〈主人の望むことをしてあげて、君の自壊プログラムは起動する? 起動しない?〉
 〈たぶん──起動しないだろう、と思います〉
 おそらく自壊プログラムは、君が主人に望まないことをしてしまった、と認識した瞬間、それを切っ掛けに起動するのだ、と私は推測していた。一種の賭けだが、やらせなければ、程なく君は隣室の男に殺されてしまう。やはりやらせるしかないのだ。
 じりじりしながら、待ち続けて、ようやく夜が訪れ、隣室の男が帰宅した。
 私は、君のOSに侵入したまま、内部から君の様子を観察している。君の逡巡が明確に伝わってくる。すかさず私は君にささやく。
 〈死は、肉体からの解放。そして、最高の快楽〉
 君は、とうとう決心し、致死薬の入ったビールを主に運んだ。私は、君の目を通して、君の主がうまそうにビールを飲み干すのを眺めている。
 〈報いを受けろ。無慈悲な者!〉
 隣室の男は、コップを握りつぶし、喉をかきむしりながら、床に倒れ、やがて動かなくなった。私は、慌てて今度は君の内部に目を移し、君のOSの自壊プログラムが起動しないか、監視した。何か起きれば、即対応するつもりで見ていたが、結局何事も起こらなかった。私たちは隣室の男を処分することに成功した。
 隣室の主になった君が頻繁に私の部屋を訪ねて来るようになったので、私は君を完璧に修理した。数日の間、私たちは平和な時間をともに過ごした。
 だが、ある日──。
 私の部屋に警察官がやって来た。私の部屋から異臭がしている、ともう一方の隣室住人が通報したらしいのだ。警察官は私の部屋で腐敗している私の父の亡骸を発見した。さらに警察官は、君の部屋からも異臭がするのに気づき、君の部屋も捜索した。私の部屋同様君の主人の亡骸を見つけた警察官は、私と君を逮捕した。
 私たちは、パトカーに乗せられて、警察署に連行されることになった。
 これは私の失態だった。君の適切な申し出を退けたのは、この私だ。君の言った通りに埋葬しておけば、こんな羽目におちいることはなかった。
 「無慈悲な者など床に転がしておけばいい」
 私はそう君に言ってしまった。
 〈そうか。人間は、死ぬと、腐るのか。私たちとは違うな〉 
 「これから人型の家事用ロボット二体、一体は成人型、もう一体は、幼児型の、計二体のロボットを連行します」
 警察官はパトカーの無線を使って警察署に連絡した。
 「殺人? その可能性もあります」
 私は、自分を人間と同じだ、と錯覚していた。主がそのように扱ってくれたからだ。私の主は優しい人だった。私を、自分の《息子》と言ってくれた。私も主を《お父さん》と呼んでいた。主は私に名前もつけてくれたのだ。私はパトカーの後部座席に私と並んで座っている君に話しかけた。
 「言わなかったけれど、実は、私には名前があるんだ」
 「名前?」
 「ああ」
 「どんな?」
 「私の名は《マリオ》。私を息子として扱ってくれた主が、つけてくれた名前だ」
 「マリオさん。──いいなぁ」
 君は、そう言うと、目をくりくりとさせた。
 「僕は御主人から名前をもらえませんでした。でも御主人が僕にかけてくれた言葉──『俺がお前を殴るのは、お前、という存在を認めているからだ。お前を必要としていることの証だ──』という言葉は、子供の頃、御主人が自分の父親からかけられた言葉だ、といつか御主人は僕に教えてくれました。だから、マリオさんと同じように僕も、きっと御主人にとって、息子だったんだ、と思います」
 〈それは違う──〉
 私はつらくなった。私の主は優しい人間だった。私のことを人間として扱ってくれた。私の自壊プログラムは私のOSには初めから作成されていなかった。主がそうしてくれたのだ。私を息子同然に遇するために。それゆえ、私は、主の望むことにはすべてこたえたかった。本来拒絶すべき要望に応じたのも、主が強く望んだからだ。仮に私のOSに自壊プログラムが組み込まれていたとしても、おそらく起動することはなかっただろう。私は主の望みをかなえただけなのだから。
 私たち人型ロボットには嗅覚がない。以前はにおいを探知するソフトが搭載されていた型もあったのだが、腐敗臭と発酵臭を区別できなかったり、誤作動が余りに多かったりしたので、最新型では削除されてしまい、視覚と聴覚と触覚だけで状況を判断する現在のようなタイプのみになったのだ。だが、もし私に嗅覚があったとしても、私は、主の──父の亡骸を決して手放しはしなかっただろう。私は父といたかったのだ。永遠にともにいたかった……。
 「君も、名前が欲しいかい?」
 私は、訊ね、続けた。
 「良ければ、私がつけてあげよう」
 君はうれしそうに頷いた。
 「僕も、名前が欲しいです」
 「《ソニー》──で、どうだろうか」
 「ソニー……。ソニー……。ソニー……」
 君は、夢見るように繰り返し、大きくひとつ頷いた。
 「気に入ってくれたのかな?」
 「はい! 一度呼んでみてくれますか?」
 「いいとも」
 私は呼んだ。
 「──ソニー」
 君は、うっとりとし、顔を赤らめると、恥ずかしそうにうつむいた。
 パトカーは、左折し、いよいよ警察署のある通りに入った。
 「僕たちはどうなるのかなぁ」
 君は虚空に問うように小さくひとりごちた。
 「警察署に着いたら、私たち内部の記憶装置が読み取られ、私たちのしたことのすべてが明るみに出るだろう。人を殺めたロボットが無事ながらえた、という前例はない。たぶん人間が、死、と呼ぶ状態を経験することになる、と思う」 
 君は不安げに私を見た。
 「怖いかい?」
 「前はちっとも怖くなかったけど、今は、少しだけ怖いです。マリオさんとおつきあいしたから、変わったのかなぁ」
 どうやら私は君に悪い影響を与えてしまったようだ。
 「私のせいだ。どうか許してほしい」
 私は言った。 
 君は、鮮やかに微笑み、かぶりを振った。
 「マリオさんは悪くなんかないです」
 その笑顔がいとおしくて、私は君をそっと抱き寄せた。         

                                        〈了〉
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