枯れた

文字数 1,269文字

お願いだから、行かないで欲しい。
身がばらばらになってしまいそうなほどそう思ったけれど、口には出せなかった。
扉があっという間に閉まる映像がなんどもなんども思い出される。

祖師ヶ谷大蔵、成城学園前、どんどん次の駅に電車は流れていって、でも、彼がふらりと出ていくのを止めることができなかったという後悔だけが私の身に留まって動いていってくれない。
止めればよかったのだろうか。そんなことしなくても、よかったのだろうか。何かの通知がスマホを震わせて、ばっと画面を取り出すと、最近放置していたゲームの通知だった。
次で降りよう。それで、大好きなミルクティーを買おう。甘さで満たされるにはそれしかない。一呼吸して、ようやくそういう決心がついた。
ぼんやり流れていく景色を見つめている。ぜんぶぜんぶ濁った色で、誰にも見向きされない沼みたいだ。私が何を思っても、電車にいる人々の生活がいつもどおり循環していくことがたまらなく許せなかった。
頭が痛い。ようやく開いた電車をさっさと降りて、自販機へ向かう。はやく水分が欲しい。がこんと落ちてきたわたしの縋るものをすぐに手に収めて、キャップをあけて、ごくごく飲む。顔を上げた時、目に汗がはいってきて、それから涙があふれだして止まらなくなった。悔しい。なんでだろう。
彼とは、幼い恋愛をしていた。写真フォルダを開いて彼との写真をぜんぶ選択していく。こんな記憶はスマホから一刻も早く消し去るべきだ。海デート。おうちデート。はじめて出会った時にこっそり撮った彼の靴の写真。ふざけるな。ぜんぶ、ぜんぶ、……


手が止まってしまった。あーあ。これ、彼の家に行った時の、もう。
私はあの時小学生さながらに浮かれて、彼の部屋のものを逐一撮っていた。彼に諌められてやめたものの、一緒に寝て私が先に起きた時、なんとなくしあわせにまどろんで撮った一枚。
なんでこんなことしたんだろう。こんなにも悲しいのに声を抑えているのもばからしくなって声をあげて泣く。いらない理性も、私も、総てがいやだ。

疲れ切って声も枯れて、涙がぎりぎり出なくなった頃、家に着いた。この箱だけが私をくるんで頭を撫でてくれる存在だ。彼がくるとき以外は綺麗にしていない家。インテリアだって、彼にセンスがいいねと言われたくて集めて、見栄っ張りの集合体の部屋を見たら、もういちど涙が出てきた。冷えた部屋で「おもいでばこ」と書いてあるラベルの入れ物をベッドの奥から引きずりだした。
かわいいかわいい子供時代。ともだちと交換して集めた、綺麗なビー玉。お母さんに買ってもらったプラスチックの宝石のペンダント。
そして、いちばん大好きだった、母親が出産祝いにもらったというおままごとセット。

できた。こんなにもすてきなものをたいせつにして、おんなのこを大事にして育ってきたのに。
ひっくり返して、それから一つずつ拾って、おもいでばこにしまっていく。
これからどんな恋愛をしても、綺麗なわたしになっても、きっと内側は枯れた葉の、泥水を溜め込んだ池のままだ。
もういちど、箱を今度は、ずうっと奥に閉じ込めた。
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