第1話

文字数 2,048文字

 長い闘病生活に、重苦しい日々が続く。十年、必死でもがいて、這いつくばって生きてきた。だが、私の心は時が止まっているようだ。心身の病を患い、自由に体が動かず、じっと病床から真っ白な天井を眺める日々…。天井というスクリーンには、いつも過去ばかりが映し出された。病気になった当初は、「どうすれば、病気を避けられたのだろう」と考えては、後悔の日々が続いた。それでも、やがて三年・五年と闘病が続いていくと、健康だった幼少時代や学生時代ばかりが天井のスクリーンには眩しく映った。その時の私の意識は、もう過去に逃げ出して、現在には脱け殻しか存在していなかった。

 「全ては夢であってほしい」そう何度も思った。天井だけを見つめていれば、自分が幼少期に戻ったように思えた。このまま眠れば、起きた時には全てが長い夢として終わる。酷い悪夢を見たものだと思いながら、両親に「おはよう」と声をかけるいつもの日常が始まる…。そう願いながら眠りについた。しかし、何回起きても現実は変わらなかった。私はもう大人になっていて、病気で動けない生活を送っているのだった。

 「現実を受け入れろ」と言われても、この状態を受け入れられるほど精神は強くなかった。私は天井を見つめて過去にばかり思いを馳せるようになっていた。病床は無音の空間だ。そうした無限に続くような時間の中で、突然妻や子が呼びかける声でハッとさせられる。そうか、自分はもう夫であり父親なのだと気づかされた。しかし、現実は無情である。妻には看護されなければ生きていくことができず、子どもたちと一緒に遊んであげることもできない。この事実がまた自分を責め出す。自分の中にある夫や父親の理想像と現実が乖離し過ぎていて、どうしても受け入れることができなかった。

 ただ、そんな私でもひと時の幸せはあった。私はほとんどテレビを見ることができないが、リビングで子どもたちがテレビを見ている音が漏れてくるのだ。本当は一緒に見たいが、音だけでも子どもたちがテレビを見て無邪気に笑う時間を共有できることは宝のようだった。だが、ふと思ってしまう。子どもたちから見れば、私はずっと寝ているだけの存在だ。彼らの役に立てていないし、「妻がいれば子どもにとって私は必要ないのではないか」と、つい思ってしまうのだ。そんな孤独というか、哀しみが私の心には根深くあった。

 そんなある日、四歳の次男が酷く嘔吐したことがあった。妻がトイレで背中をさすってくれていたが、次男はトイレから「パパ―!」と助けを求めて絶叫したのだ。その叫び声は、私の心に深く刺さった。私が勝手に「必要ない」と自己卑下しているだけで、子どもたちの心には親として私はしっかり認識されていたのだ。その後、具合が良くなった次男は、すぐに私の部屋に駆け寄り、私に会いに来てくれた。私は今まで、子どもたちが私を気遣って部屋に会いに来てくれているのだと思っていた。もちろん、そういう考えも子どもながらにあるだろう。だがそれだけではなく、子どもたちは私のことが好きで、慕って部屋に来てくれていることがわかり、心底嬉しくなった。また、小学生の長男も出かける度に、「父さん、がんばってね」と声をかけてくれる。一人でいるときに追い詰められ、家族が帰ってきた時には、私が苦しんでいる光景を何度も見ているからだ。優しい長男は、私が一人でいる時に闘っていることを理解してくれ、いつも励ましてくれる。

 そんな子どもたちの思いが届いたのか、私の心に少しだけ変化が起こった。いつも過去ばかり映し出されていた天井のスクリーンに、僅かだが未来が映るようになってきたのだ。私が今よりも動く姿が映ったり、大きくなった立派な子どもたちが映るようになった。以前ならこういう思いが映っても、すぐに消えていた。今もそう長くは映らないが、それでも以前はできなかった未来への願いが天井に映し出されるようになったのだ。

 あれから二年が経ち闘病十二年となった今年、少しずつ積み重ねたイメージングの日々によって、ようやく私は前を向こうとしている。止まっていた時間が、少しずつ動き始めた。今では具合の良い日は、子どもの宿題の音読や計算を聞いたりするようになった。ずっと支えられてきたから、少しでも家族の役に立てること自体が嬉しかった。もちろん、未だ闘病生活は苦しい。心が制御できずに突然感情がブレたり、体の痛みもいつ襲ってくるかはわからない恐怖心は常にある。だが、今や支えてくれるのは妻だけではない。私が激痛で過呼吸となると、最初は「もうパパは終わりだ…」と立ち尽くしていた子どもたちが、今では私の手をさすって懸命に「がんばれ!」と言ってくれるようになったのだ。

 私は、孤独じゃない。私を家族として受け入れ、運命を共にしてくれる妻子がいる。だから、闘病の日々に負けないで、天井に夢の未来を映しながら、これからも前を向いて家族と共に闘ってゆきたい。そして、いつの日か復活することを心の底から願っている。

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