第1話

文字数 2,000文字

 さわさわ---と夏の風が麻の几帳を揺らした。長慶は、じっとりと汗に濡れた額を手の甲で拭った。
 遠くで、邯鄲の鳴く声が聞こえる。
 肩でひとつふたつ、大きな息をして、身体を起こそうとするが---力が上手く入らない。
 床に伏すようになって、どれくらい経つだろう。気怠さは日増しに酷くなり、瞼を開いていても眼に映る景色は朧に霞んで、うつちのものとは思えない。

―殿、お目覚めでございますか?―
 侍女が遠慮がちに室内を覗きこむ。
―耳盥をお持ちしました。お身体をお拭きしましょ。―
―頼むわ。―
 細い途切れそうな息で、長慶は手を延べた。年若い薄紅の頬をした侍女に手を預け、身体を起こしてもらう。よく肉がついて、滑らかな肌は夏の陽を弾いて、艶めいている。
ー羨ましいのう...ー
 長慶はぽそり、と呟いた。
 がっくりと落とした長慶の肩はひどく痩せている。最近は食も喉を通らず、水を含むことも億劫だった。

―夢をな、見ていた。―
 ぽつり、と長慶の唇が呟いた。
―夢?―
―そうや。蛍の夢をな。―
 
 長慶は、阿波の生まれである。山河の美しい土地だった。吉野川という大きな緩やかな川の近くに、長慶の生まれた館はあった。
 清らかな水を満々と湛えた傍らの河原は広々として、白い玉石にはいつも光が降り注いでいた。
 周囲には花樹草木がふんだんに生い茂り、春の桜、秋の紅葉もそれは見事なものだった。
 中でも夏、露を帯びた草の上を、淡い光を放ちながら、沢山の蛍が飛び交うさまを眺めるのが好きだった。
―そりゃあ、見事なもんやで...。小さな光の粒が、そこら一面に点いたり消えたり、ふわふわ舞い踊ってな...の世のもんとは思えん眺めやった。―

 十一の歳に、被官している父に伴われて故郷を離れた。畿内の館に住み、やがて将軍の御所にも上がるようになった。公家の女官だった母に似て、長慶は品の良い見栄えのする男だった。京の都にいても、人の目を引いた。
 と同時に、長慶は自由な男でもあった。物や人が盛んに行き交い、様々な異国の新しいものが溢れる堺の街が、この上なく好きだった。
―生きておるなぁ、この町は。―
 いつしか、この町は長慶の憧れになった。この国をこういう自由な国にしたかった。
 しかし、長慶の住む武家の社会は旧弊で窮屈で、陰惨だった。父も叔父も殺され、自身も何度も生命を奪われかけた。
 将軍家を京都から追い、新しい政(まつりごと)の仕組みを作ろうとした。長慶の試みは幾度もの争いを招き、長慶はその度に刀を取らねばならなかった。
―わしは、戦は好きやない。力で治める世は殺伐としてて、嫌や。...―
 権謀術数に疲れた長慶を慰めてくれたのは、茶の湯だった。静かな茶室の侘びた空間の中で、身分も立場もなく、客と主人が心を尽くして向き合う、その自由さが好きだった。
 当代の一番の茶人に師事を乞い、妹も商人ながら、将来有望な会合衆の茶人に嫁がせた。
 千宗易というその男は、長慶の良き友でもあった。

―市中の山居、言いましてな...―
 町家の中庭にしつらえられた架空の山河は、長慶の心の内の故郷をいたく刺激した。
―帰りたいのぅ...―
 畿内の政権を確立し、天下を治める長慶に、既に自由は無かった。
 長慶は、疲れていた。愛する息子を落馬という不幸な事故で失い、頼みにしていた弟も病で逝った。
 それでも...
―殿は、天下人でございましょう。心弱いことを申されますな。私めがお側におりますゆえ...。―
 三好家の執事は、いつも慇懃な、しかし押し潰すように、そのかさつく声で窘めた。
 松永久秀というその男が、長慶は怖かった。元服してすぐに側に着くようになった父の右記(ゆうひつ)であるその男は、極めて有能だった。舌を巻くほどに頭の切れる、同時に清濁を問わない働きぶりで三好家を盛り立ててきた。
―しかし...―
 暗い、眼をしていた。
 底なしの闇をみるような恐ろしさがあった。
 久秀の視線に合うと、自分が蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように感じた。
 じわじわと絡め取られ、食らい尽くされる...そんな気がした。息子の義興が亡くなり弟が亡くなる。その度に恐怖はつのった。
―怖ゃ...―
 そう思いながら、いつも抗えなかった。孤独に震えて、笑みを浮かべ両手を拡げる久秀の手に縋った。
―私がお側におりますゆえ。―
 長慶は、もはやその視線に耐えきれなかった。
 病んで、なお心は言い様の無い恐怖に囚われていた。
―早ぅ逝きたい...―
 長慶は、ますます熱を帯びる夏の夕暮れにもがいていた。早くこの肉体を去りたい。名も無き蛍となって、故郷の山河を自由に飛びたい。

 その妄想の中に、唐突にあのかさついた声が囁いた。
―では、私が、わが籠の中にて愛でてしんぜましょう...―

 長慶は、はっ、と目を開けて、辺りを見た。
 近習が部屋の辺に座し、深々と頭を下げて、告げた。

―松永弾正さま、お見えでございます。―
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