第1話

文字数 2,000文字

 この裁判に何の意味が有ると言うのか。
 戦犯を裁く裁判らしいが何故朕を裁く。
 朕が戦犯だとでも言うのか。
 全く馬鹿げている。

 此処では朕は朕の事を朕と言ってはならず、
我(ウオ)、と、言わなければならないのだ。
 それに裁判官も朕の事を陛下とは呼ばない。
 愛新覚羅溥儀(アイシンギョロ・プーイー)と、朕の名を呼び捨てにするのだ。
 確かに朕は大清國の宣統帝でもなければ、最早大満洲帝國の康徳帝ですら無い。
 その事からすれば朕は朕で無いと言えよう。
 然り乍ら朕の生涯に於いて最も忠義熱き臣と、朕は約束を交したのである。
 その忠臣の曰く。

 陛下は大清の復辟を果たすべきである、と。
 諦めてはならぬ、と。
 その為には生きるべきだ、と。
 
 朕はその忠臣との約束を果たすべく、この先未来永劫皇帝で居なければならない。
 朕は朕として有らねばならんのだ。
 間もなく裁判が始まれば朕は朕で無くなる。
 然るに朕はその事を甘んじて受け入れ、何とかこの裁判を乗り切らなければならない。

 蘇聯邦(ソビエト)に抑留される前の事。
 連合軍に降伏すると大本営が決して間も無く、朕は忠臣達と共に日本への亡命を図った。
 然るにその道中奉天の飛行場に於いて、蘇聯邦軍に拘束される事となった。
 蘇聯邦軍の兵士が姿を現し、儚くも大清復辟の夢が潰えたと思ったその刹那。
 これが言葉を交わす最後の機会になるやも知れぬと思い、「朕は生きるべきであろうか?」
、と、その忠臣に問うたのである。
 漢族でも況してや満洲旗人でも無い、皮肉にも日本人であるその漢に。
 するとその漢は見事な北京語で答えた。

「臣吉岡安直謹んで申し上げます。

 皇帝陛下は何としても大清の復辟を果たさねばなりません。
 その事を諦めてはならんのであります。
 その為には生きねばならんのであります。

 これは関東軍参謀副長の言葉では無く大満洲帝國帝室御用掛としてのわたくしの、一人の臣の言葉として御汲み取り戴きますよう。
 長らくわたしくしは関東軍の意向を伝えるだけで、皇帝陛下に対し奉り何もして差し上げられませんでした。
 天に二日無しとの理があります。
 大元帥陛下の臣であるわたくしは、皇帝陛下に対し奉り御意向に添わない事もお伝えせねばなりませんでした。
 然るに大本営が連合軍に降伏すると決した今、最早わたくしが関東軍参謀副長としての職務を遂行する義務とてございません。
 その今だからこそ申し上げるのです。
 愛新覚羅家の御家門を決して絶やさぬよう、連合軍に何を言われようと、皇帝陛下はわたくしを始め日本の肩を持ってはなりません。
 関東軍に利用された、と、そう連合軍には仰って戴きますよう。  
 関東軍に責任を押し付けるのです。
 そして今度こそ大清の復辟を果たすのです。
 その為にはどんなに卑怯物と言われようと、何と罵られようと、皇帝陛下は必ず生き抜かねばなりません。
 皇帝陛下が生きていればこその大清復辟であります。
 崩御とも相成りますれば、その機会も巡っては参りません。
 故に皇帝陛下は生きるべきであります。
 それ等の言葉をわたくの皇帝陛下に尽くせる、最後の忠義と思し召し下さいますよう」

 朕は吉岡に対し、「好(ハオ)」、と、だけ返した。

 その後吉岡は背広姿のまま帝國陸軍式の最敬礼をこちらに尽くすや、朕とは別々に蘇聯邦(ソビエト)の軍隊に連行されて行った。
 思い返せば日本への亡命計画立案もそれ等の手配も、総てが吉岡の手に拠るものであった。
 吉岡とは離れ離れとなったが、あの漢は朕に取っての生涯で一番の忠臣だった。
 漢族でも況してや満洲旗人でも無い、日本人の吉岡がである。
 朕はそんな一の忠臣である吉岡との約束を、何としても守らなければならない。
 その為に朕は生き永ら得るのだ。
 たとえ浅ましいと蔑まれても、朕は生きる為に泥臭く努力をしなければならないのだ。

 蘇聯邦に抑留されていた時の事、朕は史達林(スターリン)に対して共産党への入党申込書を提出した。
 予測通り史達林は朕の入党を拒絶したが、それでも朕は生き永ら得る為に恥を忍んだのだ。
 此処での裁判でも吉岡との約束を果たす為、生き延びる為、朕は卑怯にも関東軍に責任を押し付ける。   
 また朕は朕ではなく、我として発言する。

 それは朕が生き永ら得る為。
 大清の皇帝として返り咲かんが為。
 吉岡との約束を果たす為。

 そう言えば吉岡は生きているのだろうか。
 共に生きれずとも、吉岡にだけは生きていて欲しい。
 吉岡と共に亡命を図った日本であったが、今は皮肉にも蘇聯邦軍に連行されて此処東京に居る。
 そして今被告人席に立つ朕は、極東軍事裁判と言う名のこの魔女裁判で生贄に供されようとしている。
 然し朕は何としてもこれを乗り切る。
 そして生き永ら得るのだ。
 吉岡との約束を果たす為。
 何より大清復辟の為。

 何となればそれが朕の生きる証なのだから。



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