第1話
文字数 1,999文字
「私、あなたの事が好きなの」
真っ直ぐ向けられる視線。その双眸は星空のように輝いていて、見ていると吸い込まれそうになる。
「…はいカーット!!紬ちゃん今のとこカメラ目線じゃないよー!」
「ごめんなさ〜い、監督」
カットの声が響き渡ると、カメラマンである一ノ瀬 幸路 は、金縛りから解けたかのように脱力した。NGを出したと言うのに、カメラの向こうの女優・逢坂 紬 は呑気なものだ。
「幸路くんもう一回集中してねー」
「はい」
監督に言われ息を整えていると、紬がこちらを見ている事に気付いた。
「ごめんね幸路くん。今度はちゃんとやるね」
「…うん。よろしく」
居心地の悪さを感じながら答えると、紬はにっこり微笑んだ。
確信犯なのは分かっている。先刻のシーンは、本来ならカメラの方を向かないまま演技するはずだが、敢えて紬はこちらを向いた。理由は明白だ。
彼女は幸路に好意を抱いている。
場面を撮り終え、昼休憩に入る。幸路も機材を離れようとすると、ADの梅木 彩 が近寄ってきた。
「ダメよー、関係持ったら」
「わかってますよ…」
絶賛売出中の女優に手を出すなんて、以ての外だ。そもそも幸路にその気はないのだが。
梅木は諭すように、幸路の肩を2回叩いた。
「先輩って、女優と付き合った事あるんすか?」
「あるよ」
幸路はビールを吹きそうになった。居酒屋で偶然居合わせた先輩カメラマン・渋川 直樹 に、何となく恋愛話を振った次第である。
「え、誰と?」
「それは言えねぇよ」
「バレなかったんすか?」
「バレなかったから今がある」
なるほど…、と幸路は唸った。
ベテランの渋川には、百戦錬磨という風格がある。女性関係においてもしかりであろう。
「え、どっちから?」
「あっちからだよ。やたらカメラ目線が多いと思ったら」
全く以て同じ状況だ。
「最初は鈍感装ってかわしてたよ。ほら、下手につんけんして傷付けたらいけねぇだろ」
「でも、結局付き合ったんすよね」
「そりゃあお前、据膳って言うじゃねぇか」
「おいおい…」
幸路は呆れて頭を垂れた。
「…ん?なんか思い当たるんか?」
「ああ、いや〜、…俺も女優に好かれたいなーって」
「ま、そう思うもんだよな」
でもさ、モテる男は辛いよ。
焼き鳥を頬張りながら呟く渋川に、幸路は苦笑を返すしかなかった。
そんなこんなで、幸路は紬からの熱視線を、武装した鈍感で切り抜け、映画は無事に撮了を迎えた。花束を手渡された紬の目には、涙が浮かんでいた。
最後に向けられた紬の寂しそうな目を、幸路は暫く忘れられなかった。
『一緒に行こう、ユートピアへ』
大通りを歩いていると、不意に紬の声が降ってきた。顔を上げると、街頭の大型ビジョンに、先日公開された映画『ユートピア』の予告編が流れていた。荒んだ日常をディストピアと見立て、好きな男と共にユートピアへ逃避行する青春劇は、各方面から反響を得ている。
ユートピアか。
ふと思う。一見華やかな芸能の世界は、彼女にとってユートピアなのだろうか。紬が演じたヒロインは、劇中で好きな人といるその瞬間こそがユートピアなのだと語っていた。対して、現実の彼女は違う。あんな美貌を持ってして、好きな男と付き合う事すら出来ない。果たして、そこに幸せはあるのだろうか。
逢坂紬の電撃結婚、妊娠、芸能界引退が発表されたのは、それから2週間後の事だった。
撮了が半年前、今が妊娠5ヶ月、着床するまでが約……
「何指折り数えてんだ」
飲みの席を共にする渋川は、対面する幸路を怪訝そうな目で見ている。
「これは…、脳トレです」
「居酒屋でやる事かよ」
言えない。逢坂紬が妊娠したタイミングを逆算していたなんて、言えるはずがない。
「あの、先輩って女優さんから告白されて付き合ったんすよね」
「ああ」
「もしその決定打がなかったら、どうしたんすか?」
「どうもしねぇよ。ずっと鈍感なふりしてただけだ」
「ほんとかな…」
渋川は焼き鳥の尖端を幸路に向けた。
「いいか?鈍感ってのはな、分別なんだよ。お前は大人として正しい選択をしたんだ、誇りを持て」
「え、…気付いてたんすね」
「逢坂紬だろ?バレバレだよ」
まあ、ここまでタイムリーな相談をされて、気付かないはずもないだろう。
「でもさ、そこまで考えるって事は、お前も相当好きだったんだな」
「いや、その、…本当にこれが彼女のユートピアなのかなって」
「そりゃそうだろ。でなきゃ引退なんてしねぇよ」
渋川は強く断言した。
引退してまで手に入れようとした世界。目を逸した幸路を、彼女は見限ったのだ。
「ま、お前に出来るのは、彼女の幸せを願う事だけだな」
渋川は優しい声音で言うと、二人のジョッキにビールを注ぎ足し、自分のを顔ほどの高さに掲げた。察して幸路もそれに倣う。
「逢坂紬のユートピアに、乾杯」
「はい」
「そんで、一ノ瀬幸路の、未来のユートピアにも」
「…はい」
ガラスのぶつかる音が響いた。
真っ直ぐ向けられる視線。その双眸は星空のように輝いていて、見ていると吸い込まれそうになる。
「…はいカーット!!紬ちゃん今のとこカメラ目線じゃないよー!」
「ごめんなさ〜い、監督」
カットの声が響き渡ると、カメラマンである
「幸路くんもう一回集中してねー」
「はい」
監督に言われ息を整えていると、紬がこちらを見ている事に気付いた。
「ごめんね幸路くん。今度はちゃんとやるね」
「…うん。よろしく」
居心地の悪さを感じながら答えると、紬はにっこり微笑んだ。
確信犯なのは分かっている。先刻のシーンは、本来ならカメラの方を向かないまま演技するはずだが、敢えて紬はこちらを向いた。理由は明白だ。
彼女は幸路に好意を抱いている。
場面を撮り終え、昼休憩に入る。幸路も機材を離れようとすると、ADの
「ダメよー、関係持ったら」
「わかってますよ…」
絶賛売出中の女優に手を出すなんて、以ての外だ。そもそも幸路にその気はないのだが。
梅木は諭すように、幸路の肩を2回叩いた。
「先輩って、女優と付き合った事あるんすか?」
「あるよ」
幸路はビールを吹きそうになった。居酒屋で偶然居合わせた先輩カメラマン・
「え、誰と?」
「それは言えねぇよ」
「バレなかったんすか?」
「バレなかったから今がある」
なるほど…、と幸路は唸った。
ベテランの渋川には、百戦錬磨という風格がある。女性関係においてもしかりであろう。
「え、どっちから?」
「あっちからだよ。やたらカメラ目線が多いと思ったら」
全く以て同じ状況だ。
「最初は鈍感装ってかわしてたよ。ほら、下手につんけんして傷付けたらいけねぇだろ」
「でも、結局付き合ったんすよね」
「そりゃあお前、据膳って言うじゃねぇか」
「おいおい…」
幸路は呆れて頭を垂れた。
「…ん?なんか思い当たるんか?」
「ああ、いや〜、…俺も女優に好かれたいなーって」
「ま、そう思うもんだよな」
でもさ、モテる男は辛いよ。
焼き鳥を頬張りながら呟く渋川に、幸路は苦笑を返すしかなかった。
そんなこんなで、幸路は紬からの熱視線を、武装した鈍感で切り抜け、映画は無事に撮了を迎えた。花束を手渡された紬の目には、涙が浮かんでいた。
最後に向けられた紬の寂しそうな目を、幸路は暫く忘れられなかった。
『一緒に行こう、ユートピアへ』
大通りを歩いていると、不意に紬の声が降ってきた。顔を上げると、街頭の大型ビジョンに、先日公開された映画『ユートピア』の予告編が流れていた。荒んだ日常をディストピアと見立て、好きな男と共にユートピアへ逃避行する青春劇は、各方面から反響を得ている。
ユートピアか。
ふと思う。一見華やかな芸能の世界は、彼女にとってユートピアなのだろうか。紬が演じたヒロインは、劇中で好きな人といるその瞬間こそがユートピアなのだと語っていた。対して、現実の彼女は違う。あんな美貌を持ってして、好きな男と付き合う事すら出来ない。果たして、そこに幸せはあるのだろうか。
逢坂紬の電撃結婚、妊娠、芸能界引退が発表されたのは、それから2週間後の事だった。
撮了が半年前、今が妊娠5ヶ月、着床するまでが約……
「何指折り数えてんだ」
飲みの席を共にする渋川は、対面する幸路を怪訝そうな目で見ている。
「これは…、脳トレです」
「居酒屋でやる事かよ」
言えない。逢坂紬が妊娠したタイミングを逆算していたなんて、言えるはずがない。
「あの、先輩って女優さんから告白されて付き合ったんすよね」
「ああ」
「もしその決定打がなかったら、どうしたんすか?」
「どうもしねぇよ。ずっと鈍感なふりしてただけだ」
「ほんとかな…」
渋川は焼き鳥の尖端を幸路に向けた。
「いいか?鈍感ってのはな、分別なんだよ。お前は大人として正しい選択をしたんだ、誇りを持て」
「え、…気付いてたんすね」
「逢坂紬だろ?バレバレだよ」
まあ、ここまでタイムリーな相談をされて、気付かないはずもないだろう。
「でもさ、そこまで考えるって事は、お前も相当好きだったんだな」
「いや、その、…本当にこれが彼女のユートピアなのかなって」
「そりゃそうだろ。でなきゃ引退なんてしねぇよ」
渋川は強く断言した。
引退してまで手に入れようとした世界。目を逸した幸路を、彼女は見限ったのだ。
「ま、お前に出来るのは、彼女の幸せを願う事だけだな」
渋川は優しい声音で言うと、二人のジョッキにビールを注ぎ足し、自分のを顔ほどの高さに掲げた。察して幸路もそれに倣う。
「逢坂紬のユートピアに、乾杯」
「はい」
「そんで、一ノ瀬幸路の、未来のユートピアにも」
「…はい」
ガラスのぶつかる音が響いた。