第1話

文字数 2,000文字

永禄11年 陸奥国糠部 三戸


 男は農夫だった。南部氏のおひざ元、三戸城の近くにある半反ほどの小さな田畑を耕して暮らしていた。
 小作ではないが身代は小さく、刀も差せぬほど身分の低い地下者だ。妻には先立たれ、娘を養うために朝から晩まで人の倍ほどにも働き、周囲から揶揄されても頑として己の生きようを変えぬ硬骨であった。
 そんな男の元に生まれた娘は、頑固な親とはまったく似ず人当たり良く、父と同様によく働きながら、おしゃべりが好きで、人の世話も親身になって行う器量よしの娘に育った。彼女の周りには笑いが絶えず、友人も多かった。
 そして時々ずいぶんないたずらをする女であった。

 その日は田植えの日であった。早乙女として参加していた娘が、帰ってくるなり三戸城の御屋形様――南部晴政に召し出されたと言い出したのだ。
「いったい何をやったのだ?」
「殿様にもお祝いに泥を擦りつけたの」
 豊作を願って田に入り、お互いに泥を擦りつけるのは田植えの風物詩だ。だが、それをよりにもよって鳥狩りのためにそばを通った御屋形様にやったのだという。
 そして、なぜか娘を気に入った御屋形様は娘を召し出すという。
「なぜそんなことをした」
 と娘に問えば、
「お祝い事なら誰にでもするべきでしょう? 御屋形様でも下人でも」
 娘は笑った。娘は本気でそう思っていた。

 男の生活は激変した。
 娘が城に召されると共に、男は帯刀を許され、三上の苗字を名乗るよう命じられた。男は武士となった。
(いやだ)
 身分の低い農夫の中年男が腰に刀を差し、こぎれいな裃を着ても、滑稽極まりない。武家のしきたりなど知る由もなく、いつ恥をかくものか気が気ではない。昔の同輩からは「三上様三上様」とへりくだった態度を取られるようになる。バカにしているのが丸わかりだ。侍たちからは「にわか侍」と陰口を叩かれているのも知っていた。
 娘と言えば、三戸の城中で見事に振る舞っているようだった。城勤めの侍や下人たちにも隔てなく接し、さらには五人いる晴政の娘たちと特に仲良くなり、贈り物を贈りあったり、武家の習いを教えてもらったりしているようだ。
 元々人好きな娘だったが、気位の高い武家の女子たちに軽んじられることなく虜にしてしまった。娘は身分違いの場でも、立場をやんわりと手に入れる才を持っていたのだろう。
 翻って自分はどうか。
 土をいじるしかとりえがない自分に、武士として生きる意味はあるのか。
 いや、と男は思った。
 娘に会い、男は言った。
「御屋形様に会いたい。口添えしてくれ」

「申したき儀があるとの事だが、なんであろうか」
 三戸南部家の当主、南部晴政は男を見下ろした。
 髪に白いものが混じる、男よりも年上の、だが武士らしい骨ばった強さがある男だ。その目には警戒の光がにじんでいる。
 側室の親類であることを盾に権を振るおうとしている――そう思われているのだと男は気づいた。
 だが違うのだ、言いたいことは。
「御屋形様、俺はにわか侍と揶揄されております。だが、その言葉はもっともなこと。俺の本分は元より農夫だ。このような格好をしていることがおかしい」
「ほほう、御身を侍にしたのは間違っていると?」
「ああ、大間違いです」
 堂々と言いきられ、近習たちが息を呑んだ。
 男は気後れなく言い放つ。何をされても覚悟を決めていた。
「御屋形様、俺は数十年、身代が小さくとも農夫として恥ずかしくない生き方をしてきたつもりだ。米を少しでも多く実らせようと休まず田畑を耕し、娘を育て、冷害にあっても滞りなく年貢を納めてきた。それは俺の誇りだ。だというのに、娘が御屋形様の側仕えとして取り立てられたというだけで、俺は武士などにさせられた。
 横暴ではないか。いかな御屋形様とて、俺の生きようを取り上げるいわれはなかろう」
「……三上殿は、武家になるのがお嫌だったのか?」
「ああ、嫌じゃ」
 男は武家が嫌いだった。野蛮で、自分たちがお前らを守ってやっているのだと横柄な態度を取り、こちらが精魂込めて作った米を、当たり前のように持っていく。その上大事に育てた娘まで奪っていく。
「娘には娘の生き方があろうが、俺には俺の生き方がある。御屋形様はそれを分かっておられぬ。
 俺は、田に生きたい」
 臆することなく晴政へ言葉を口にする男をしばしじっと見つめて、晴政はふう、とため息をつき、頭を下げた。
「三上殿。いや、舅殿。どうも儂は余計なことをしたようだ」
 晴政は首を振った。
「望み通り、その刀はお返しいただく。だが、せめてもの気持ちじゃ、御身の今の田畑は年貢を永代免除とさせてもらいたい」
 男は腰の刀を抜いて前に置き、返上した。
 晴政は笑った。
「娘も強ければ、父も強いな」
「お戯れを」
「仮にも屋形に泥を塗りたくる娘と、遠慮なく儂に物言いする父。これが強くなくて何と言うのだ。
 儂は良い家族を得たぞ」
 その言葉に、男は誠心から平伏した。
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