第1話

文字数 1,921文字

おかえりなさい。部屋から私の荷物が消え、さぞ驚いているころでしょう。きっちりと二時間、毎日の散歩、どうでしたか。私は今駅に向かっているところです。携帯は切っていますので電話をしても通じません。六畳一間、バッグ一つなら大したことないだろうと踏んでいましたが、やはり重いものですね。

 昨晩、あなたはとても上機嫌でした。小説を一本仕上げたのでしょう。よほど出来が良かったのか、言わなくていいことまで言ってしまったようです。どうして、どうして今になって、あんな昔のことを言い出したのでしょうか。目の前にいたあなたが、長年連れ添ったはずの最愛のあなたが、もはや私にとっては全く関係のない、赤の他人となってしまいました。同じ部屋で同じ空気を吸っていることさえもう堪えられません。どうして嘘を付き通してくれなかったのでしょうか。それがただただ残念でならないのです。

 あなたがずっと沙樹のことを好きだったことくらい、私だって知っていました。クラスでもそれは皆の知るところでしたが、何よりも私はあなたを、あなたの視線を常に追っていたのですから。親友である沙樹は、私があなたのことを思っていることを慮って決してあなたに近付こうとはしませんでした。あなたの見え透いたアプローチにも、私のためにと彼女は無視をきめてくれていました。

 私が犯した罪、それはあなたが沙樹の下駄箱に入れた誕生日プレゼント、バスケ部の彼女のために贈ったタオルをそこから盗んだことです。私は廊下の影であなたを見ていました。タオルに添えられた手紙をその場で読み、宛先もなければ差し出し人もない、今晩七時に部室棟に来て下さいという文面に、もしそれが自分宛だったらと、沸き上がる怒りを抑えるのに必死でした。名前のない手紙で通じ合えるあなた達に嫉妬し、だったらこんなもの隠してしまおう、捨ててしまおうと、その場で自分の鞄に押し込んだのです。

 もちろん私は悩みました。他人の下駄箱から物を盗み、その恋路までも邪魔していたのですから。私は全てを白状し、謝罪しようと、あの日、家に帰ってからあなたが指定した場所に行きました。沙樹に言うことはできませんでした。彼女との関係が壊れることを恐れたのかもしれません。沙樹もあなたに気があったと思います。もし私がこの世に居なければ、あなたと沙樹はなんの問題もなく結ばれていたでしょう。自らの存在が誰かの人生を邪魔しているという事実が私を苦しめました。

 しかしあのとき、あなたはとても優しかった。私が現れ、茫然と立ち尽くしたあなたは、何が起きているのかと問い質すこともせず、ただ泣きじゃくる私の隣でじっと座っていました。返そうとする手紙とタオルを私に押し戻すと、夜道は危ないからと家まで送ってくれさえしたのです。

 それからは私にとって辛い日々でした。大学に合格した沙樹にはすぐに恋人ができました。大手商社に内定したサークルの先輩、絵に描いたような好青年でした。浪人したあなたはそこから世を捨て、書物に向かいました。受験をやめ、僅かにバイトをしながら小説を書いていると聞いたとき、私の胸は張り裂けたのです。

 大学を出た沙樹が結婚すると、あなたはこんな俺でもいいのかと私を好いてくれました。それから二十年近くもの間、私があなたを養うことができたのは、ただひたすらあなたが自分の夢に向かっていたから、ではありませんし、もちろん私があなたと沙樹の恋路を邪魔したから、でもありません。それはただ、あなたが私を愛していると心の底からそう思えたからだけなのです。男の夢など、女は最初から関心などありません。恋敵の存在も終われば過去のことです。私のことを好きでいてくれさえしたら、ただそれだけでよかったのです。

 だから、あれだけは、あのことだけは、あなたに言って欲しくなかった。あのときあなたは黙ってくれていた。あたかもあの手紙とタオルは私のためだと、黙って強く私の胸に押し返してくれた。なんで、なんで今になって、それを否定するようなことを言ったのですか。下駄箱を間違えたおかげで今がある、そんな出鱈目、一体なんのためなんでしょう。昔のことだから大丈夫だと、そんな軽口で過去も笑い飛ばせると思ったのでしょうか。でも私はそんな女ではないのです。あなたは私を買い被りました。あなたはずっと私のことだけを見ていた、沙樹ではなくこの私だけを見ていた、ただそれだけが私があなたを養う、全く働かない、働こうともしないあなたを支える一つの条件だったのです。そうではないと知った今、私はもはやあなたを養うことはできません。タオルと手紙、お返しします。もう私の物ではなくなりました。さようなら。お元気で。
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