女装レイヤーの災難

文字数 10,241文字

 七月一日。夜。
 都内某所のファミリーレストラン。
 二人の男が「待ち合わせ」をしていた。
 その中の一人。中肉中背の「21歳の青年」は特徴的なピンクの髪をしていた。
 恐ろしく丁寧に髭が処理されていた。
 女性のようにスキンケアしているのか、肌がきれいに見える。
 白い肌は手の色から判断する限り地の色。
 だが手すらやけてないあたり女性並みの日焼け対策をしていのは想像に難くない。
 顔立ち自体が丸顔でなおさら女性的だ。






「急に呼び出してなんだい? 矢作(やはぎ)
 見た目よりはるかに低い声で尋ねる。
「おう。すまないな。阿礼(あれい)。とりあえず話を聞いてくれ」
 矢作と呼ばれたメガネの男が、貧相といわれる顔に笑顔を浮かべる。
 フルネームは矢作 駿太郎。。
「いいけどお前らもコミセの準備があるんじゃねーの?」
 コミックセントラルとは同人誌即売会。
「セントラル(中央)」というだけに、日本最大規模の同人誌即売会だ。
 略してコミセ。さらに開催時期の季節をつけて夏コミ。冬コミと称される。
「入稿ならすんだ。会場直搬だから本とはスペースでご対面だ」
「ふうん」
「オレがしたいのは別の準備でな」
 いうなり矢作はタブレットと小瓶を取り出す。
 タブレットはなんの変哲もないもので、別に珍しい物でない。
 問題なのは小瓶のほう。
 錠剤と思しきものが入ってる。
 それがコーティングされているのはわかる。
 カラーリングが問題だ。
 半分赤で半分青なのだ。

「なんだこりゃ? 薬か? そーだとしたら毒々しい色だが」
「間違えたら困るからな。このくらい派手にしとかないと」
「何の薬……いや、まさか毒じゃないだろうな?」
 自分を殺害する気なら見せるハズもないが、あまりに毒々しくて思わず尋ねてしまった。

「実はこれ、女になれる薬なんだよ」
 声をひそめて矢作がいう。



「……おちょくってんのか?」
 女顔に不似合いなドスの利いた声。怒気を含んでいるのでさらに迫力がある。
「そう言うと思った。だからこれを見てもらうが」
 彼はタブレットを操作して画像を見せる。
「動画か。えっ?」
 映っていたのは矢作。なんと下着一枚だけだ。
「なんだよこれ? 変なもの見せるな」
 男としては無理のない反応の阿礼 弥太郎。
「証拠映像だ。黙って見ておけ」
 言われて阿礼は画面に目を戻した。
 そして目を離せなくなる。
「ウソだろ?」

 動画の中の矢作はあばらの浮いた貧弱な肉体をしていた。
 それが見る見るうちにふっくらとしていく。
 目に見えて肌の色が白く変わる。
 胸が膨らみお尻が大きくなる。
 顔だちも優し気に変わる。
 貧弱とはいえ男の腕が、本当に女の細腕に変わる。
 髪の長さや色は変わらないがしなやかな女性の物へと変わったのは動画でもわかる。
 身長が縮んだのも見て取れた。

 約三十分で変身が完了した。
『はい。出来上がりました』
 声まで変わっている。いわゆるアニメ声。まぎれもない女の声だ。

 全部見終わって阿礼は開口一番「CGか?」と尋ねた。
「だからこの薬を試してみろよ。それで気に入ったらもっとあげるから、うちのサークルの売り子を頼む」
 それが本題かと理解した。
 この流れだ。女になっての売り子であろう。
「看板娘」というわけだ。
「なるほどなぁ。本当の女の子になればいつもはできない格好も行けるな」
 阿礼弥太郎は女装レイヤーだった。
 ちなみにコスプレネームは夜美(やみ)。
 本名の「弥太郎」から転じている。

 女装はどうしても「隠す」方向に行くのもあり、露出の高い衣装は不向きだった。
 ラバースーツも試したかったが体形までは変えられない。
 中途半端な気がしたのと、単純に高価なので手を出さなかった。
 夏場では熱の逃げ場がないラバースーツでは、冷房のない場所では無理というのもある。。

「そうだな。例えばビキニスタイルとかな。まぁ胸はなんにせよ隠すわけだが、ヘソくらいなら出せるだろ?」
「簡単に言うなよ。けど……悪くないな。くびれだけでもかなり違う」
 弥太郎はだいぶ前向きになってきた。
「ああ。実際になってみて分かったが肌がすべすべで男とは全然違うんだ」
「……そんなにか?」
 肌の質はどうしても男女で埋められない。
「俺は女装しないからメイク道具も持ってなくて、化粧の具合は試せなかったがな」
 言外に「自分て試してみろ」と告げている。
「面白そうだな」
 すっかりやる気の弥太郎。

「しかしこんなもの、どこから手に入れたんだ?」
 当然の疑問を弥太郎はぶつける。
「実はうちの大学にいる天才科学者が作り出してな。試作品をあちこちにばらまいている」
 これで完全に話が理解できた。
「なるほど。実験素材か」
「言葉は悪いがそういうことだ。オレも『臨床実験』に参加したわけでな」
「お前の大学そんなことしているのか?」
 東北出身の弥太郎と矢作は高校時代の友人。
 だが進学先は別々だった。
「被験者は多いほどいいという。オレは好奇心と金で参加したが、お前にはいいんじゃないかと思ってな」
「……そりゃ姉貴にコスプレ沼に引きずり込まれて、高校の時にはもう女装コスプレしていたからな」
「だからうってつけだと思って連絡したんだ」

「それにしても一時的に女になる薬か。どんな目的で作ったんだか」
「作った奴に言わせると失敗作らしい」
「そんな物を飲ませんのか?」
「見解の相違でな。実は作った奴は『体は男で心は女』って奴でな」
 動機としては説得力がある。ウソとは思えない。
「そのまま女に固定されるように仕向けたらしいが、こいつは何もしなくても元に戻ってしまう」
「解毒剤もいらないのか?」
「なんでも人間自身の復元能力が働いて薬が切れると元に戻るらしい」
 作成者自らの体で立証されている。

「そういうことか。むしろ戻れなかったら困るぜ」
「さっきの動画見たろ。夜の八時に実験開始して翌朝九時から戻り始めた」
 むろん個人差もあるだろう。さらに眠ったのも無関係ではないかもしれない。
「そうか。戻れるのか。だったら」
 元に戻れるのであれば女装の延長線上。
 むしろ「グレードアップ」だ。
「交換条件の一つが薬のレポだが、それでいいなら頼めるか?」
 弥太郎は留依の手をがっしりと握る。
「任せろ。詳細なレポを書いてやる」

 薬を受け取り帰宅した弥太郎。
 彼も一人暮らしだ。つまり女に変身するところを目撃されずに済む。
「さぁて、それじゃさっそく」
 日付変わって午前一時。
 彼は指定された一錠を水で流し込む。
 動画で見た矢作は事前に飲んでいたと説明していた。
 効果が出てくるまで約一時間。
 それから三十分かけて変化していく。

「すげえ……本当に変わった」
 美少女に変身した弥太郎が目を大きく見開いていた。
 体積というか質量はどうなっているのか10センチは背が縮んだ。
 ウエストも細くなったのが裸なのでよくわかる。
「亀が甲羅に首を引っ込める」ように男のシンボルが体内に引っ込むのは見た目も実感も気持ち悪く感じた。
 背丈とウエストの肉がかき集められたかと思うほど胸が大きくなった。
 もし献血のポスターに起用されたら、服を着ていても「環境型セクハラ!」と「アナザーフェミ」から難癖付けられるのが容易に想像できる胸の大きさだ。
 それを素手でわしづかみにする。
 手のひらには弾力が。胸元からは電気を感じた。
「……うわ。女は全身性感帯というのは本当らしいな……」
 独り言でもう一つ気がいた。
「声も可愛いぞ。例えるなら隅田川に生息する人魚? 生真面目で突っ込み気質な生徒会の副会長? あるいは高校生にして売れっ子占い師? そんな感じの声だ。今ならロシア語もしゃぺれそうだな」
 女装コスプレの時は持ち前の低い声を出さないようにしていたが、この声なら女の子らしさをアピールできる。
 しかし彼。この時点では彼女……女性の時は便宜上コスプレネームである「夜美(やみ)」と呼ぶ。
 夜美が重要視したのは声よりもスリーサイズ。
 それを知らないと衣装が作れないし、購入もできない。
 その測定にかかった。

 計った結果Eカップ相当と判明。
 身長は測れないが勝手知ったる自宅。
 普段との差から推測するに150センチ台の半ば。
 身長がやや低くて胸が大きい。
 そんなアニメキャラは珍しくもない。
 そして矢作たちが作っている二次創作作品のキャラにもいる。
 夜美は作る服の方向性を大体だが定めた。
(後はまた矢作に聞いてみないとな。それまでは何もできないし。なら先に「内側」も体験してみようかな)
 夜美は両手で裸の胸を揉み始めた。

 生まれて初めて「女の子の快感」を味わった夜美は「女になって本当によかった」と心の底から思った。

 しかし午後一時から徐々に戻り始め、二時前には男に戻ったときは安どした弥太郎。
 マスターベーションが原因で戻れなくなったらと後から思ったのだ。
(確か昨夜の一時に飲んで二時くらいから変わり始めて完全に女なったのが二時半)
 弥太郎は時計を見た。午後一時四十三分。
(やはり十一時間ちょいか。薬飲むタイミングも考えないとな)

 いろいろと考えることが多かったが、少しずつクリアして衣装も間に合わせた。
 そして当日。合流地点の駅のホーム。
「おっはよー。矢作くん」
 朗らかな女声で呼びかけられて矢作は驚いた。
 スライブのノースリーブのブラウスでミニスカート。
 そしてきちんと化粧した夜美だった。
 特徴的なピンクの髪と、左目の泣きほくろと上唇の右にあるホクロが弥太郎の名残だ。

 会場最寄り駅につく電車ではなく、その前なので日曜日の早朝もあり車内はガラガラだ。
「しかし化けたもんだなぁ」
 感心半分。あきれ半分で矢作が言う。
「化粧ならいつもしているから」
 さすがはレイヤーである。
 男でありながら女性的に見せるメイクをしていたのだ。
 本物の女の肌で化粧するので研究しなおしであったが、それも修正済み。
 立ち居振る舞いも女性の身体ゆえのものにしていた。

 女性としてイベントに参加するのもあり、予行練習の一環として女性化してから外出もしていた。
 街を女性として歩くといつもと違った景色に見えたし、また自身が見られているのも感じ取れた。
 当然だがトイレにもゆくが、最初のうちはいくら女の姿でも戸惑った。
 コスプレイベントでは女装していても男性用を使うのだ。
 それで女子トイレにはしり込みしていたがそれも慣れてきた。

 言葉遣いも女性的に気を付けているが、今は事情を知るものだけなので素を見せている。







「それに男の姿で向かうと会場で女になる。一時とは言えノーブラとはいかなかったしな」
 揺れるだけで痛いのはよくわかっていた。
「だから家から(女に)なってきた。そのついでに化粧もな。もっともコスプレしたらコスプレ用のメイクするが」
「だけどそうすると会場で元に戻らないか?」
「えーと、六時くらいに(女に)なったから11時間ちょいなら単純計算で五時過ぎだから大丈夫。逆に会場からの移動中に男になるから帰りは男物に着替えて化粧落として出てくる」
「戻るところも見られたくないな。ネットカフェの個室なら人目につかなくていいが、豊洲も新橋も満杯だしな」
 現地に着く路線の両端である。
 ちなみに終了後は新橋の焼肉屋で打ち上げ予定。
「防災公園なんてどうです?」
 矢作のもう一人の同行者。島野が提案する。
 レイヤーに解放されているので仮に女装でも大して注目されない。
 ましてや男物を着た女子など女装男子と違い街中にもいる。
 注目もされない。
「ああ。時間潰してりゃ電車もすくかな」
「カラオケの部屋も意外に行けるぞ。俺も女の声で歌って見たくて出向いたら中で戻っちゃって。別人になったから店員には怪しまれたが、男に戻るところは見られずに済んだし」
 ひそひそ声で「相談」は続く。

 乗り換えるとさすがに混雑してきたが大した問題はなく会場最寄り駅に到着した。
「悪い。ちょっとトイレ行くわ」
 可愛い声で夜美が告げるとトイレの方にかけていく。
 しかし男子トイレに向かったので仰天した矢作が思わず「そっちじゃない」と叫ぶが夜美は構わず飛び込んで……飛び出してきた。
 男子トイレから怒声が聞こえるので何があったか察しは付く。
「いっけねー。今は女だった」
 女装時も男子トイレを使っているので化粧したりスカート着用でも習性になっていた。
 騒がれて追い出されたらしい。
 改めて女子トイレに向かう。

「お前予行練習で街でもトイレ使ったんだろ?」
 出てきた夜美に尋ねる。
「そうなんだけど今は尿意の方に意識行ってて忘れていた」
 可愛らしい顔と声で言われた矢作たちはもう追及する気が失せてしまった。
「行くぞ」
 改札に向かう。

 会場に到着し、連絡通路を通って東側のエリアにあるスペースにもついた。
「なんだよ。冷房は利いてないのか」
 つい素の男言葉で漏らす夜美。
 朝のうちだしまた閑散としているからさほど暑くはないものの涼しくもなかった。
「たぶん開始してからだろう。一般(参加者)が入れば一気に温度上がるが今のうちはな」
 矢作は上方をさし夜美はそちらを見た。
 巨大なダクトがある。
「ついてるぞ。冷気の出口だ」
「ラッキー。あまり暑いとメイクが崩れるが、その心配もなくなるな」
「それじゃお前は着替えと化粧してきたら? 設営はオレ達でやっとくから」
「わかった。そうする」
 夜美は荷物を持って更衣室へと向かった。

 九時半になると一旦シャッターが閉められ、各フロアに行き来できなくなる。
 まだ夜美が戻ってこないので矢作がスマホで連絡しようとした矢先に戻ってきた。
「お待たせ」
「遅かった……な?!」
 矢作も島野も言葉を失った。
「どうかな? 決まってると思うけど?」
 夜美の口調が変っている。
 男子に対してフレンドリーな女子そのものだ。
「……先輩。まるで」
「ああ。二次元から出てきたみたいだ」
 矢作はサークルで作った本の表紙と見比べる。

 快活そうなピンクのショートカットは夜美本人の髪だ。
 小さいながらも目立つ赤いリボン型バレッタ。
 カラーコンタクトで青い瞳に変えている。
 耳たぶにはメタルのクロス。
 イヤリングではなくピアスだ。
 胸を強調したディアンドルで身を包み。
 華奢な手首にはバニー仕様。
 リボンのついた白いオーバーニーソックス。

 夜美はアイドルを題材としたテレビアニメ。
「トゥインクルスター★エンジェルズ」の人気キャラ。
『桃李 美桜』(とうり みお)を完璧に再現していた。
 私服やステージ衣装より印象に残る作中のバイト制服である。





「夜美さん……エッチですね」
 直球な感想を言う島野。
「なに言ってんだ。お前らの本に合わせてやったんだろうが」
 夜美は「新刊の見本誌」を手に取る。
 表紙はまさに今の夜美がまとっている衣装。
 ただし上気したほほにうつろな目。
 そしてスカートの下に下着はなく「入っていた」という絵。
 言うまでもなく男性向け創作・R18だ。
「まったく……なんか俺が『やってる』みたいな感じじゃねーか」
「お前が男とはやって無いと思うが、一人エッチくらいは試さなかったのか?」
「う!?」
 矢作がいうと夜美は乱れた夜を思い出した。
 化粧してもほほの赤みがわかるほど赤面していた。白状したも同然だ。
「もう。知らないッ」
 なりきってか女言葉で言うと後ろを向くと、耳たぶまで赤かった。

 約180センチの「幅」がある長机。
 それを隣のサークルと二等分。
 貸し出される椅子も二脚。
 対して三人で来ていた。
 交代して一人が抜けることになっている。
 一番手は島野。次が矢作。
 夜美は同人誌には興味がない。
 だから最後に出てコスプレ広場に。
 そのまま着替えにも行く。
 それまでは「看板娘」としてスぺースにいる。

 午前十時を腕時計などで知った参加者がフライングで拍手をする。
 ほんの少しの差で正式に「ただいまよりコミックセントラル94 3日目開催を宣言します」
 そうアナウンスされると今度は一斉に割れんばかりの拍手がサークル。一般参加両方から起きる。
 矢作も島野も。そして夜美も手を叩いている。
「それじゃ行ってくるッス」
 島野が目当てのところへと駆け出していくのと同時にシャッターが開き始める。
 そして一斉に参加者がそれぞれの目的地に向かう。

「大手」というわけではない矢作たち。正確には彼らのいる大学の漫研のサークルはさほど知名度はない。
 しかしこの日このエリアは「男性向け創作」の為にあ。
 矢作たちの周囲は「トゥインクルスター★エンジェルズ」の二次創作が集中していた。
 本来のターゲットは小学生女児のアニメだが「大きなお友達」も多数いた。
 大多数は矢作たちのサークルはノーマークだった。
 それだけに「二次元から飛び出してきた少女」の姿はインパクト絶大。
 ポスター以上に目を引いた。
 それゆえ目的のサークルで買った一般参加者が矢作たちのサークルにも来る。

「どうぞ見て行ってくださぁい」
 夜美に微笑んで可愛く優しい声で言われて思わず見本誌を手にしたひとりの一般参加。
 知名度こそないが実力はある。
 確かな画力で描かれる「美桜の乱れた姿」に「立体の美少女」がオーバーラップする。
 夜美はにこやかな笑顔は保ちつつも
(あー。頭ン中で俺のこと押し倒してるんだろうなー)と冷めた感情で分析していた。
 何しろ真っ先に自分がやった。
 男の心理が読めるだけにここでいたずら心が出た。
 うまい具合に買ってくれた。それもつり銭のいる状況だ。
「はい。四百円のお返しになります」
 本を手にしていない右手を夜美はとその柔らかい手で取り、もう片方の手で百円玉四枚をまるで握手するように渡す。
「あひゃ?」
 美少女の手の感触が不意打ちで。
「ありがとうございました」
 耳に心地よい女の子の声がむしろ心を乱す。
「あひゃひゃひゃーっ」
 その参加者は奇声をあげながら逃げるように去っていく。
 夜美は腰を降ろすとこらえきれず笑いだす。

「おい。見たか。矢作。ありゃ絶対女に縁がねーぞ。女いたらエロ本を買いに来ないよな」
 笑顔で矢作に同意を求めるが、矢作の方は渋い表情だ。
「そいつは偏見だろう。それと多少なら小悪魔キャラでいいが、それでも若干キャラ崩壊気味だぞ。ほどほどにしとけよ」
「わかってるよ」
 いうと夜美は荷物からスポーツドリンクを出して飲む。
「それにしてもほんとに冷房は利いてんのかよ? 暑くてたまんねーぜ」
 そしてまた一口飲む。
「のどが渇くのはわかるが少し飲みすぎじゃないか?」
 10時半の時点で既に500ミリペットボトル三本目だ。
「飲まないと熱中症になっちまうよ。この暑さじゃ汗になるし。それにここはトイレに近い」
「オレ達にとって幸いなことにここのは男子トイレのままだしな」
 男女でトイレに要する時間は違う。
 女子の方が時間を要するうえに個室でするからその面積との関係でどうしても数を作れない。
 だから長蛇の列になる。
 その解消のために一部の男子トイレを女子トイレとし開放している。
 だが矢作たちのサークル近くの男子トイレはそのままだ。
 近くにある元々の女子トイレはやはり長蛇の列だ。
(更衣室から戻るときにもトイレに寄ったががら空きだっだなー。あれは一般参加者いなかった時間だからな。まぁ俺はどっちでもいいしな)
「過去の経験」からたかをくくっていた。

 最初の相手で味をしめた夜美は段々エスカレートしていく。
 胸の谷間を強調したり、わざとスカートの中身が見えるように荷物をとったり。
 本物の女性なら危機感故にそこまで挑発的にはしない。
 しかし夜美は「非実在青少年」だった。
 夕方になれば男に戻っている。
 後から襲われる心配もしていなかったのでやりたい放題。
 またそれが文字通り客寄せになっている。
 同意とは言え性転換させて売り子を頼んでいる矢作にしたら強く言いにくい。

 夜美は男たちの視線だけでなく女たちのやや嫉妬混じりの視線を浴び続けるうちに、だんだんそれが快感になり恍惚とした表情を浮かべだす。
 そして精神の高揚で疲れも空腹も、そして尿意も忘れていた。
 空腹に関しては頻繁にとる水分で紛れていたのもある。
 そして盛んに「冷房利いているのか」と文句を言っていたが、きっちり冷やされていたのである。
 ましてや日常さらさない足をさらしているので実際にはかなり冷えていた。

 だがそれも午後二時ごろになりだいぶ人の行き来も少なくなったころに認識した。
 なにより尿意がいきなり来た。
「ちょっと……お花を摘みに」
 まだこの時点では余裕があった。

 元々の習性なのと切羽詰まっていたのもあり、空いている男子トイレに飛び込んだ。
 厳密にいうと列はあるが、経験からそれが個室用というのはわかっていた。
 小用なら回転は速い。列にまではならない。

「男子トイレに女の子」と騒がれはしなかった。
 何しろばっちり化粧した「魔法少女」や「セーラー服の女子」がスカートをまくり上げて立って用を足している。
 だから夜美もそんな一人かと思われた。
 胸の谷間は実物だが「よくできてるな」程度にしか思われなかったし、そもそも凝視できない部位。
 小柄だがそんな男子は皆無でもない。
 夜美自身も何度もスカート姿で男子トイレを利用している。
 それで平然と小便器に立ち、スカートを捲し上げ少しだけ下着を下ろす。
 ところがいくら探しても指に引っかからない。
 何回かトライしてやっと「今はなくなっている」ことに気が付いた。

 ならばと個室に入ろうとするが長蛇の列。
「げっ。空いてねーじゃん」
 思わず声が出た。その可愛らしい女の子の声が。
 こればかしは男に出せない。女とばれた。
 非難というより自分が狼の群れに飛び込んだヒツジのように感じて、自分から出て行った。

 改めて女子トイレに向かうが長蛇の列にめまいを起こした。
 見えているだけで二〇人はいる。
 それでも現在は女の子で男子トイレに入れないから並ぶしかなかった。

 数分待つが遅々として進まない。
 予行練習は街中。
 こんな長蛇の列はなかった。

 我慢はもう限界だった。
(こうなったら男子トイレの小便器でなんとか用を足す)
 切羽詰まってそれを選択した。
 そして意を決して列を離れた時に通行人とぶつかった。
 それが「堤防決壊」を引き起こした。

 多数の目の前で、薄絹越しに「黄金の聖水」を盛大にぶちまけてしまった。

「わあっ。汚いっ」とよけるものはまだいい。
 即座にスマホや携帯。中には一眼レフをたまたま持っていたものが無遠慮に撮影する。
「あ、ああ」
 まさに人間としての尊厳を喪失した夜美は茫然としていたが、コスプレ被写体として慣れ親しんだカメラのシャッター音で我に返る。

「み、見るな。撮るな!」
 しかし心無いシャッター音が響く。
 いずれはSNSに「おもらし女」としてさらされると思った夜美。
「わあああああんっ」
 泣きながらスペースに戻り、自分の荷物をわしづかみにすると、逃げ込むように女子更衣室へと向かい、メイクを落とし着替えると一目散に会場から逃げてしまった。


 その後、危惧した通りSNSで盛大にさらされてしまった。
 目線こそ入れているがピンクの髪があまりに目立つ。




 一か月後、矢作は音信不通だった弥太郎と再会して驚いた。
 髪をバッサリ切りしかも黒く染めている。
 白かった肌も夏とはいえ見事に焼けていた。
「まぁ、わかるけどな」
 痕跡を消したことを理解した矢作。
「あんなことして、もう二度と女装コスプレなんてできねーよ」
 厭世的な雰囲気すら漂わせる阿礼 弥太郎。
 二人は気まずくて無言で別れた。

 だが秋のある日。
 弥太郎は再び女になっていた。
(コスプレは出来ないがもういい。こうして街中を女として堂々と出歩けるからな)
 女体化の方にすっかりはまり休日の度に女として街を出歩いていた。

Fin
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