開扉

文字数 10,121文字

 コンスタンティノープルは薄明(はくめい)に青く染められていた。風は強く、北東から南西へ通り過ぎていく。大砲は海峡へ向けられており、通る船は無く、対岸に(そび)える重々(おもおも)しい城壁は容易に崩せるものではなかった。
 城内は古い教会のほか、廃墟も多く、貧民は当座の生活を(しのい)いでいる。
 いっそ滅ぼしてやるのが救いか――などというのは、傲慢(ごうまん)な話か。
 彼らも、私も、我が君も土地や人、身分に(とら)われている。地上を生きる我々に選択肢というものはあるのだろうか?

「ザガノス」
 メフメト二世は呼び出した師父(ララ)が扉の側に伺候(しこう)したことに気が付いた。彼は宮廷奴隷(カプクル)である。
「先日は申し訳ありません。力及ばず、父君の復位を許してしまった」
「いや、良い。私にも落ち度がある」
 泣いた跡を見られないように、顔を横に向けたまま話した。
 少しの沈黙が流れる。
「君はヴァルナの戦いに従軍していたそうだな…… 戦場はどうだった?」
 メフメトは即位直後、ハンガリーを主力とした十字軍の侵攻や、その後の親衛隊(イェニチェリ)の反乱により父のムラト二世と変わって退位せざるを得なかった。彼がまだ幼く、軍を指揮することが(あた)わないと考えられたためである。
 平静な声でザガノスは答えた。
「戦場の様子は…… まぁ、惨憺(さんたん)たるものですよ。父君はハンガリー王を討ち取られましたが、その若さに驚いておられました」
「そうか」
 彼は椅子に腰掛けた。
「やはり、想像がつかんな。実際に軍を指揮してみないことには。私も早く軍功を上げたい」
 彼は単純な功名心で勝利を求めているのではない。それは声だけでなく沈痛な面持ちからも察することができた。
 一度退位させられたからには、父祖を上回る確かな実積を得なければならない。親衛隊(イェニチェリ)を制御できなくなる。彼らは精強な軍団ではあるが、君主の権力が絶対的でないオスマン朝ではそれゆえ増長しやすい。ゆえに、実積を持たない君主には敬意を払わないだろう。
「祖父や父が落とせなかったコンスタンティノープルを支配できれば、皆 私に従ってくれるだろうな……」
 ザガノスは意を決して口を開いた。
「お言葉ですが、軍功(それ)のみでは君主として十分とは言えません」
「何?」
 彼は俯いていた顔を上げた。師父は机の前に移る。
「君主とは軍民の(のぞ)みを叶える義務を()う者です。軍民は安寧と利益を(ほっ)する――(ゆえ)に、それらをもたらさない君主は彼らに殺されることとなるでしょう」
 ザガノスは微笑(ほほえ)んで続けた。
「コンスタンティノープルを()とすことには賛成です。しかし、その後についてはどうされるおつもりで?」
「…………」
()の地がもたらす経済や通商の利潤、地勢の重要性などを把握し、軍民にどのような恩恵を与えられるのか―― それを理解なされない限り、御身(おんみ)(ほう)じる人々は路頭(ろとう)に迷うことになります」
 自分を奉じる人々――
 メフメトの瞳が希望に揺れた。軍団の要求で退位させられたとはいえ、自分にはまだ味方がいる。
 自分は完全に無力でも、孤独でもない。
 彼は椅子から立ち上がった。
「……私はどうすれば良い? 君たちを頼っていいのか?」
 声には先ほどよりも(しん)が通っていて、明瞭(めいりょう)としており、君主の責を負う意思が含まれていた。
「勿論ですとも。手始めに、政治(まつりごと)のわかる法官(カーディー)からお連れします」
 師父は、その知性でも隠し切れない獰猛(どうもう)な笑みを浮かべた。

 子どもを戦わせる世界は残酷だ。
 五年後、父のムラト二世が崩御(ほうぎょ)し、メフメト二世が再び即位することとなった。彼は訃報(ふほう)(ひそ)かに伝えられ、マニサから首都のエディルネへ移動している。
 今頃は海路を渡っているだろうか――。
 チャンダルル・ハリル・パシャはモスクの庭で空を見上げていた。空は白く、雪が地面を(おお)っている。すぐ側には墓地があった。
 白いモスクと複合施設(キュリエ)は丘の上に建っており、周りには雪原が広がっていた。やや離れた右手に宮殿と都市、左手に多くの天幕が並んでいる。
 十字軍が迫った時、先帝を呼び寄せたのは私だ。のちにイェニチェリの騒擾(そうじょう)を暗に扇動し、先帝の復位を促して現スルタンを退位させた。そのことに後悔はない。
 コンスタンティノープル、およびビザンツ帝国にはまだ存在意義がある。スルタンはその陥落を望んでいるが、計画を吹き込んだのは側近だ。
 雪を踏む足音がした。モスクのある背後へ振り向くと、黒い外套(がいとう)のザガノス・パシャがいる。
「待ち伏せとは…… 何か御用ですか?」
 ハリルは意を決して、笑う彼を(にら)み付けた。
「貴方は、スルタンに何をさせようとしているのですか?」
 ビザンツは西洋との交易拠点だ。帝都の貿易はいまやほとんどがヴェネチアとジェノヴァの手中にある。もし帝都が本格的な危機に(さら)されたのなら、旨味のある交易拠点を失いたくない商業都市からの援軍が来る。
 その上、皇帝と一定数の貴族によってビザンツのギリシャ正教会と西洋のカトリック合同が進められており、大規模な十字軍が組織される可能性が高い。
「貴方の働きはルメリとアナドルの秩序を乱す行為だ! コンスタンティノープルの攻囲(こうい)など我々になんの益があるというのか」
 いま必要なのは国家間の融和だ。軍事行動は若いスルタンにとって重荷だろう。私は外国との交渉で賄賂(わいろ)を受け取ることもある。正当化するつもりはないが、円滑に話を進めるためには致し方ないことだ。
 しかし、(ちか)ってオスマン帝国の不利益になることはしていない。
 ザガノスは(あざけ)りを含んで苦笑した。
「別にそれは私が決めることではありません。スルタンがお決めになることです。しかし――」
 彼はハリルの隣に一足(ひとあし)で歩み寄った。
「貴方が賄賂を受け取っていることも、皇帝へこちらの動向を知らせていることもスルタンはご存知だ。これは利敵行為ではありませんか?」
 ハリル・パシャは硬直した。
「私は貴方に危害を加えるつもりはありません。許可があれば別ですがね」
 ザガノスは出口の門へ向かって歩き始めた。
「ああ、そこのお嬢さん。気配(けはい)()れていますよ」
 彼が歩みを止めず軽く目線をやると、茂みが小さく揺れた。
 完全にザガノスの姿が見えなくなったあと、ナイフを持ち、スカーフで顔を覆った少女が雪の積もった茂みから現れた。

 メフメト二世はエディルネで即位した。先帝の喪中であるため、群衆は古礼(これい)のとおり歓声を挙げずに彼を(むか)えた。

 即位後、カラマン候が領内へ侵攻したという報せが入り、メフメトはカラマン候国の首都コンヤに進軍した。
 カラマン候はオスマンの軍隊に攻められると山中へ逃げ、ハリル・パシャとの交渉によって降伏に同意した。オスマン帝国の権力が揺らいだ際を狙うのはこの君候国(くんこうこく)の常套手段だ。
 帰路、スルタンの天幕を乗せた車が隘路(あいろ)に差し掛かかったころ、ビザンツ帝国の使者がやって来た。
「今、なんと?」
 対応にあたった大宰相(だいさいしょう)のハリル・パシャは耳を疑った。
「ですから、こちらで保護しているオスマン皇族を従来のように幽閉させたければ、その費用を二倍にして頂きたいと申し上げました」
  オスマン帝国の内訌(ないこう)のおり、ビザンツ帝国は権力闘争に敗れ亡命した一人の皇族を保護した。彼が放たれることは皇位継承戦を引き起こすことに等しい。そのためオスマン側は先代から幽閉の資金を支払わされていた。
 苛立(いらだ)ったハリルは声を上げた。
「あなた方のやり口は知っている! そこまでにしておきなさい。先帝はお優しい方でしたが、今のスルタンはそのような方ではありません」
 彼の焦りはビザンツ側の行動に反映されなかった。メフメトは天幕の奥から姿を見せず、詳細は追って伝える、とだけ使者に返した。

 第二の都と言ってよいブルサに帰還すると、イェニチェリが給金の増額を要求してきた。武力を背景とした実質的な脅迫である。第三宰相にして宦官(かんがん)のシェハーベッディンは怒りに燃えた。
「イェニチェリ軍団、すべての者を滅ぼすべきかと存じます」
 メフメトは沈黙しつつも、即位直後を狙った数々の威嚇(いかく)(いきどお)りを隠せなかった。主君の怒りを察したザガノスが口を開く。
「まぁ、どうせ次の戦で死ぬ者たちですから、(かね)ぐらい与えてやっては如何(いかが)でしょう」
 気軽だが鋭い殺意の含まれた言い様に、側で聞いていたハリルは青ざめた。場が少し冷える。やや間が空いたあと、
「……そうだな、金貨をひとり十枚遣ってやれ」
 側近によって落ち着きを取り戻したメフメトは取次に指示した。

 オスマン軍はコンスタンティノープルの流通を切るため、砦の建設を計画した。担当にはハリル、サルジャ、シェハーベッディン、ザガノスら四人の宰相全員が任じられた。
 黒海沿岸にはヴェネチアとジェノヴァの植民地・交易拠点がある。彼らはそこからボスフォラス海峡を経てビザンツ最後の都市に食糧や軍船を輸送すると予想された。
 すでにアナドル――アジア側のアナトリア半島には砦があるので、ルメリ――ヨーロッパ側の半島に新しく砦を設ける。

 完成した砦ルメリ・ヒサルから望む海は青かった。山には緑が(しげ)り、快晴の空は広く、この世の出来事など些事(さじ)に過ぎないと言わんばかりの美しさ。
「あちらにヴェネチア船が居りますねぇーー。砲撃してもよろしいでしょうか?」
 アナドル州総督(ベイレルベイ)のイスハク・パシャが海峡に面した塔の上から叫んだ。塔の上には新しく鋳造された大型の大砲が据えられている。
「海峡を通行するものには既に通達が出ているのですがねぇ」
 沖では帆を畳んだ船が関税を徴収されている。徴税人たちが騒いでいるところを見ると、強引に通行したのだろう。ザガノスは苦笑していた。
 これから私は自らを戦場に投じる。その道程(どうてい)を、私は踏破(とうは)することができるのだろうか?
「スルタン」
 太刀持(シラフタール)ちのマフムートが返答を(うかが)った。
「許可する」
 轟音と共に放たれた砲弾は船体を突き破り、穴から水を吸い込んだ船を沈没させた。


 首都エディルネでの御前会議により、コンスタンティノープルへの侵攻は決議された。積極的な反対者はハリルの他にいなかった。
 ビザンツの宮廷にはハリル・パシャから攻囲開始を報せる密使が到着した。
 皇帝・コンスタンティノス十一世は(おもむろ)に古びた玉座から立ち上がり、宮殿のバルコニーへ向かった。
 北の城壁は堅固であり、この国が歩んできた歴史の重みを思わせる。とはいえ、宮殿は修復する金もなく古びて廃墟のようでさえあり、帝国の衰退を証明していた。
 ――()い、我々には用意がある。
 夕陽(ゆうひ)の中、彼は誰ともなく心の内に(つぶや)いた。

 コンスタンティノープルは十万の軍勢に囲まれた。
 白い天幕は草原を埋め突くし、赤い(しま)のある大理石と煉瓦(レンガ)の城壁は重く(そび)え立つ。
 対するビザンツ軍はその十分の一にも満たない九千人の兵士が守備を(つと)めた。部隊はヴェネチアとジェノヴァからの傭兵が大半を占めていた。
 北の対岸にある商業都市・ペラは中立を宣言した。しかし、オスマン軍に大砲用の油を売る者、ビザンツ軍に(いく)ばくかの兵士を送る者もいた。
 ペラ近辺の草原で、メフメト二世は祭壇を立て勝利を祈願した。ザガノスはそこに陣営を置き、アナドル州総督(ベイレルベイ)のイスハクは防御力の高い城壁南端の金門を、ルメリ州総督(ベイレルベイ)のカラジャ・ベイはビザンツ軍の主力が集まる中央左から北端の城壁を担当する。メフメトとハリルはその奥に本営を張った。
 城壁は外城壁と内城壁の二つに分かれており、高低差のある丘や渓谷に沿って(そび)え立っている。手前には深い堀があった。地震や老朽化で崩れた部分が修復され、北端の突出部の前へ新たに堀が作られている。
 海の城壁については大幅に修復せずとも、防衛に大きな支障はないと思われた。
 降伏を勧めた使者がビザンツ側から送り返される。オスマン軍はこれを開戦の合図とした。

 雷鳴のような、凄まじい轟音が城内まで響き渡る。
 石の砲弾が丘の上から、煙と共に地面を()うように飛び出し、城壁に激突した。
 古いひび割れに衝撃が加わり、煉瓦が崩れる。壁に人ひとり分の穴が穿(うが)たれ、鉄の鎧を着た守備兵の姿が見えた。
 砲撃は中央左――リュゴス川の渓谷に沿って下がった城壁を中心に行われた。向けられた大砲は四門。南側のイスハクの元には三門、北側のカラジャには五門の大砲があった。
 しかし砲身の破裂を防ぐ冷却のため、大砲は一日に七発しか撃てない。砲弾が地にめり込むことも多く、威力は散発的だった。
 指揮に()けたジェノヴァの傭兵隊長は、城壁の裂け目に土砂を詰めた(たる)を並べて柵を作り、城壁の防衛力を損なわなかった。
 オスマン軍はそれぞれ槍を持って刀を抜き、大挙して城壁へ走りかかる。ビザンツ軍は城壁の上から小型砲を構えた。
 小型砲から打ち出された弾丸は小さく速く、ひとりの兵士を撃ち抜き、その背後にいた鎖帷子(くさりかたびら)の兵士二人をも撃ち抜いた。密集している彼ら兵士の上には、撃たれた者に意識を割く(ひま)もなく矢が降り注いでくる。
 オスマンの兵士たちは矢や銃弾・砲弾に撃たれつつも、外城壁の前にある堀へ、あらかじめ懐に抱えていた瓦礫(がれき)を投げ入れ、陣営に戻ることを繰り返した。

 ペラ近郊、ベシクタシュにはオスマン軍の艦隊が停泊していた。数は輸送船も含めて三五〇隻。しかしコンスタンティノープルとペラの狭間の金角(きんかく)湾には、操船(そうせん)に長けたヴェネチア船が少数ながら停泊していた。手前には両岸の塔から鎖が張られており、容易な侵入は不可能だった。
 城壁に向けて本格的な攻撃が始まってから八日後、五隻のジェノヴァ船がコンスタンティノープルへ食糧を補給するため金角湾を目指した。マルマラ海を北上してきた船はたちまちオスマン軍のガレー船に取り囲まれたが、彼らの船は大型で喫水線(きっすいせん)が高いために矢弾を撃ちやすく、数は多くとも小型のオスマン軍船に有利だった。
 ジェノヴァ船は折よく吹いた追い風を受けて、五隻全て欠けることなく金角湾に入った。おそらく湾を閉鎖する鎖が一時的に外されて奥に食糧が運ばれたことだろう。

 オスマン側では御前会議が開かれた。椅子に座ったメフメトは先日、ジェノヴァ船がオスマンの包囲を抜けて通り過ぎるのを海岸から見ており、表情に怒りを(にじ)ませていた。
 海軍提督であるバルトグルは青ざめて膝を屈めている。オスマン帝国の宮廷奴隷(カプクル)は敗戦した場合、処刑されることもあり得た。
「やはりこの戦いは()めるべきです」
 ハリル・パシャは停戦を主張した。長期の包囲となれば、これから来る夏に軍内で疫病が流行りかねない。ハンガリーで十字軍が組織されたという噂もあった。
「私も……現在のところ、この包囲に勝機を見出だせません」
 サルジャは控えめに消極的な見方を示した。
「スルタン、まだ勝機はございます。ひとまずは彼の到着をお待ち下さい」
 シェハーベッディンのほかに、導師(ホジャ)学者(ウラマー)修行者(スーフィー)たちは包囲の継続を進言した。
「申し訳ありません。少々準備に手間取りました」
 軍装のザガノスが天幕に入ってきた。その場にいた全員の視線が彼に向けられる。継戦を主張する人々の中には安堵する者も多かった。
「待っていたよ。例の計画はどうかな」
 メフメトは口元を緩めた。

 バルトグルは海軍提督を罷免されたが、処刑は免れた。
 メフメトは乗馬し、護衛を連れてベシクタシュの軍港に立ち寄った。港から山の奥まで、近隣の森から運ばれた木材が一列に並べられている。木材には油が塗られていた。
「こちらから船を陸揚げして海の城壁まで運ぶ手筈になっております」
「壮観だな」
 既に三隻がころの上に引き上げられている。木が転がって擦れ合う音が大きい。船の帆は畳まれていた。
「一度小高い山を越えれば、あとは比較的緩やかな傾斜の道を進むことができるかと」
 メフメトは目の前を通り過ぎる船を陶然(とうぜん)と見つめていたが、
「この他にもまだ策があるのか」
  と珍しく目を少年のように輝かせて()うた。
 ザガノスはかつての明るかった少年の面影を思って、旧懐(きゅうかい)と共に悲愴(ひそう)の念に()られた。この少年を闘争に必ず勝たせなければならない。
「勿論。ごさいますとも」
 彼は爛々(らんらん)とした目で微笑(ほほえ)んだ。

 七二隻のガレー船は山を越え、金角湾までつつがなく輸送された。城壁の上にいたビザンツ兵は突如海に現れた軍船に驚愕(きょうがく)した。
 コンスタンティノス十一世と傭兵隊長は北端の城壁から金角湾を(にら)む。海からの攻撃が予想されるなら、これまで陸に集中できた防衛線を海の城壁まで(ひろ)げざるを得ない。
 城内における食糧の高騰には、商業国家から穀物を輸入することで対応することが可能になった折だった。

 皮の屋根付きの車が城壁の北端に走った。中には坑道を掘るために坑夫(こうふ)たちが乗っている。北端は城壁全体よりも突出しているため、防衛力が比較的弱い。
 掘った坑道の支柱に放火して、外城壁の真下に置いた火薬を爆発させ、城壁を倒壊させる作戦であった。
 兵士の注目を集めるため、車輪を付けた木塔が二基走り出し、堀の前で止まって城壁の上の兵士たちに矢を射掛けた。
 木塔に戦力が割かれる中、坑道戦の知識があった傭兵は大砲が止んだ際に耳を澄ませた。
 指揮官の一人であるビザンツの大公を呼び、掘削音から推測して斜めに小さな穴を堀ると、坑夫たちが土を掘り進んで支柱を立てている様子が(うかが)えた。大公と傭兵たちは油を彼らに注いで火をかけた。

 メフメトは北側に配備された大砲を対岸に一門、ペラの城塞よりも高い丘の上に移動させ、金角湾のヴェネチア船を狙い撃たせた。やはり命中率は悪く、一隻にしか着弾しない。
 内心に焦りが溜まってきた彼は立ち上がって手で机を退()かし、(ひさし)のある帷幕(いばく)から出た。
 太刀持(シラフタール)ちのマフムートが追ってきた。
「大丈夫?」
 彼の低く沈着な声が聞こえる。
「……やはり自分にはできないのだろうか、父祖(ふそ)を越えることなど」
 俯くメフメトに対して彼は言った。
「私が思うに、この作戦の肝は奇抜な攻撃ではなく、敵を精神的に疲弊させる心理戦なのではないかと――」
 メフメトはマフムートの気遣いに感謝した。
「いや、それは分かる。だが、重いのだ。戦場の空気が」
 怜悧(れいり)でありながら気さくな態度をとるマフムートも、メフメトの緊張した微笑(ほほえ)みを見ては沈黙せざるを得なかった。彼は内心独り()つ。
 大丈夫ですよ。これから私が強くなりますから。スルタンは気質の向いた内政に専念してくださったほうが良いかも。
「スルタン、お忘れですか? これから天体に起こることを思い出してみてください。心配などありませんよ。効果は覿面(てきめん)でしょう」

 夜、コンスタンティノープルの城壁の外には、膨大な数の天幕が並んでいるのが、暗闇に燃える(いく)つもの篝火(かがりび)からわかった。見張りの兵士たちは座り込み、疲れを見せ始めている。リュゴス川付近の塔は一つ、砲撃によって両壁もろとも崩れていた。
 耳をつんざく喚声――軍楽が聞こえる。
 トランペットに似たボルやドラム、ズルナやジルなどの吹奏楽が威圧的に奏でられる。
 オスマン軍の歌声はコンスタンティノープルを越え、ペラやアナドルの岸まで届いていた。

 疲弊からビザンツに内部分裂の兆しが(あらわ)れた。ジェノヴァの傭兵隊長と大公が小型砲の配置で争い、防衛に当たるヴェネチア人とジェノヴァ人が互いの逃亡を疑った。援軍は期待できず、城内の市民たちは神に祈った。
 包囲開始から一ヶ月半が過ぎた夕方、草原に薄く(もや)がかかる。日没後、雲の切れ目から現れた月が陰り始めた。月蝕(げっしょく)だ。コンスタンティノス十一世は剣を両手で地に刺し、城壁から月の欠ける(くも)り空を見上げていた。

 御前会議が開かれた。ハリルは包囲の中止を訴えたが、ザガノスをはじめ宮廷奴隷(カプクル)たちは総攻撃に賛成した。
 夜、メフメト二世は護衛を連れて白馬に乗り、軍内を北から南まで検分した。篝火の中、軍のラッパが鳴っている。真夜中まで対岸の船団を巡視(じゅんし)したのち、兵士たちを休息させた。

 総攻撃は三つの段階に分けて行われる。
 堀は今までの突撃によって瓦礫で埋められている。木塔で袋詰めの瓦礫を運んで撒いた効果もあった。リュゴス川付近の外城壁・内城壁は砲弾で大きく損壊(そんかい)していた。
 第一陣は異教徒の臣下、第二陣はアナドルのトルコ兵たち、第三陣は親衛隊――イェニチェリ。
 夜明け前、第一陣が埋められた堀を渡って城壁に取り付いた。梯子(はしご)鍵縄(かぎなわ)を架けようとしている。
 コンスタンティノープル市内の鐘が打ち鳴らされた。ビザンツ兵や傭兵たちの矢や砲弾のみならず、元気の残っている市民たちの石や瓦礫が城壁の上から降り注いできた。
 リュゴス川の損壊部は傭兵隊長によって巧みに守られた。並べられた三段の樽の柵に突撃すると、樽や欠けた城壁の上、瓦礫に隠れた側面から兵士が銃口や弓矢を向け、狙い撃ちにされた。
 恐怖に駆られて逃げたした者は、次陣のトルコ兵たちに切り付けられ、戦線に戻された。大砲がビザンツの防御を味方ごと打ち払う。
 第二陣が突撃した。トルコ兵たちは先の陣より士気が高かった。しかし彼らの攻撃も決定打とはならない。
 第三陣はそれぞれ銃や弓を持ち、三日月刀を抜いたイェニチェリ。メフメトは攻撃を止めて堀の前まで白馬を進め、号令を下した。精鋭のイェニチェリたちが疲弊したビザンツ軍に襲い掛かる。
 ここに来て、ジェノヴァの傭兵隊長が胸に矢、脇腹に銃弾を受けて倒れる。彼は城内へ運ばれた。傭兵たちは指揮官を失って総崩れとなった。近辺のオスマン軍は結集して柵へ向かった。
 リュゴス川付近の聖ロマノス門へ、オスマン軍に追われて退却する兵士たちが密集し、(つまづ)き転んだ幾人から将棋倒しを起こして圧死した。
 事態を察したコンスタンティノス十一世は、退却する兵士たちのために内城壁の小さな門を開いた。数の多いオスマン兵に接敵(せってき)させずに柵へ向かわせたい兵士たちもそこへ通した。
 そこを、城壁の間でビザンツ兵と戦闘していたイェニチェリの部隊が見つける。約五〇名が急いで門を抜け、北端の城壁へよじ登った。彼らは下の柵を守っているビザンツ兵たちに背後から銃弾や矢を撃ち込んだ。

 南の金門は要塞を巧みに使い、なかなか落とすことが出来なかったが、戦線の崩壊が伝わり、動揺から防御に(あら)が出た。

 海の城壁には、少数の兵士がいたが、対岸から金角湾に施設された浮き橋を騎兵が渡り、城壁の上から降り注ぐ矢弾の中を切り抜けた。
 城壁の門二つから、市内に残っていたヴェネチア人とジェノヴァ人が争って船へ乗り出している。おそらく海へ張られた鎖を解いて船を出し、母国へ向かうのだろう。小舟で対岸のペラへ行く者もいた。ザガノスと部下はガレー船の上からその様子を見ていた。
「どうしますか?」
「放っておきなさい。それよりもあれを」
 上から素早い矢が射ち出される。ザガノスは抜き身の刀で矢を斬った。部下は射線を目で辿(たど)り、城壁の上で弓を構えている男を見上げた。
「彼が亡命したオスマン皇族か……」
「そう。おや?」
 ビザンツ軍として戦ったオスマンの皇子は呪いの言葉を叫び、城壁から飛び降りて死んだ。上に登ったオスマン兵に斬られる寸前だった。ザガノスは心の内で敬意を(はら)った。
「これで、当面の不安はなくなりましたね」

 城壁の上にオスマン軍の旗が立てられる。コンスタンティノスは振り返った。前面には武装したオスマン軍が()まっている。再び背後を見ると、傷つきながらもなお立ち上がろうとする兵士たちが五人ほど残っていた。
 彼は笑った。敵に向き直り、剣を構える。
 今になってようやく、指揮官としてではなく一人の兵士として、彼らと共に戦えるのだ。
今生(こんじょう)最後の戦いだ。(みんな)、私に付いて来てくれるか?」
 ビザンツ最後の皇帝と兵士らは、武器を(たずさ)えて砂塵(さじん)の舞う戦場の中に消えていった。


 抵抗勢力が消えたコンスタンティノープルでは略奪が行われていた。
 メフメト二世は三日間の略奪を許可していたが、数時間後、早々に停止した。彼は行政を司る大臣と軍事司令官、兵士を引き連れ、大通りに繋がる門から入城した。
 緑の外套を身に付け、武装して白馬に乗る彼の後ろ姿が遠ざかる。
 本営に留まったハリル・パシャは、感動から崩れ落ちて泣いていた。

 大通りの丘から見える果樹園や畑、民家は荒れ果てている。廃墟のような宮殿や教会の扉はさらに破壊を受けていた。金品を探し、集まった人々を奴隷として略奪するためにこじ開けた跡である。辺りには死体の山が築かれていた。
 メフメトは自らがもたらした惨状に涙を流した。
 のちにコンスタンティノープルはイスタンブールと名を変え、オスマン帝国の都となる。
 この都市はメフメト二世の手腕により、陥落の二年後から二十年かけて、最盛期の栄光を取り戻すほどに復興した。


 誰かが私に言った。貴方は人に(つな)がれているのではなく、自らの手でその身を繋いでいるのだと。
 いま、私は自由だ。たとえ宮廷奴隷(カプクル)として栄光のもとに結び付けられているとしても。

 高台にある新しい宮殿から、白い柱の間に、青いボスポラス海峡とマルマラ海が見渡せる。
 泉から離れた所に、海を眺めるザガノス・パシャがいた。
「ザガノス、今回は君に助けられた。ありがとう」
 メフメトは師父に尊敬の目を向けて微笑(ほほえ)んだ。
「いえ、礼には及びませんよ」
 彼は穏やかに笑った。
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