第1話

文字数 4,231文字

 面白みのない女だ、というのは自分が一番分かっている。職場と家の往復、それが私の生活の全てだ。当然、そうなると自分のことを大事になんてしようもない。
 そんなことを、鏡に映った疲れきった女を見て思った。いっそ、怖いような気すらする疲れた顔だなぁと他人事のように感じた。歳を重ねる中で色んなものを削げ落としてきたように見える。
 もっとも、残念ながら元々の造形が整っていたわけじゃない。鏡を見て自分のことを「可愛い」と思えたことなんて一度もない。晴れの姿を見て、自分で「まだ今日はマシなんじゃないか」と思ってしまったことが可哀想を通り越していっそ一周回って面白い。可愛い瞬間なんてなかった。だとすれば、どれだけ疲れていても削げ落ちていてもさほど変わりはないんじゃないか。
「いや、でもな」
 これは酷い。と思い直す。ニキビ跡もぽつぽつと目立つし、髪もパサついている。髪って、年齢がこんなに出てしまうんなな、と泣きたくなる。三十を過ぎて、ケアをしていない女って、と思う。情けない、みっともない。これ以上考えるとどうしようもない自己嫌悪に襲われそうで、鏡を伏せた。
 
 しかし、伏せてもなお、自分の頭の中の批評は続く。顔の造形が整っていないということも、どちらかといえば言い訳じゃないか。例えば、表情筋が豊かで、愛嬌がある友人達は、顔の作りなど以上に魅力的だ。彼女達は、日々楽しいことを見つけて生きている。仕事と最低限生きていく為だけの生活を送ってる私とは大違いだ。そこまで考えて、ハタと気付いた。

 良くない。良くない、これは。

 突然芽生えたその感情は、怒りにも近いものだった。もしかしたら、生まれて初めて覚えた自己愛だったのかもしれない。このままでいいのか。こうして頭の中の批評家や、もっと曖昧なものの視線を気にして、そのくせ改善もできずただただ自分を否定する毎日を送るのか。それは、なんだか、あまりにも悔しい。

「……よし」
 美容院に行こう。まるでその結論が見えていたかのように雷に打たれるような感覚で、そう思った。そうだ、それしかない。しかも、いつものように地名と格安、と打ち込んで出てきたところに適当に向かうのではなく、だ。ちゃんとこだわって、なんならいつもはカットとブローしかしないけど、トリートメントだなんだと見慣れない横文字のメニューもつけよう。そうだ、そうしよう。

 便利な時代だから、携帯を使えばすぐに何軒かの美容院を見繕うことができた。いくつかの美容院を違うタブで開いて見比べる。美容院の説明画面にメニュー画面、施術後の写真を行ったり来たりして、唸った。そもそも、美容知識がなさすぎる私にはどれが良いのか、という良し悪しを判断する材料が少ない。好みだ、と言われてしまえばそれまでだけど、何か一つ、これが正解だという答えがあればいいのに。
 それでもなんとか、良いと思う場所を決めて更にメニューからいつもなら絶対に選ばないオプション付きを選んだ。トリートメント、とかケア、とか色々と書いてあるそれらの区別は正直ついていないけど、良さそうなやつを。
 予約日は、次の休みにした。午前中。休みの日はついつい眠って、なにもしないまま休みを溶かしてしまう自分への牽制だ。それから、少し前に友人と付き合いで入った洋服屋で買った洋服を着ようと決めた。形が可愛くて気に入ったやつ。だけど、そんな自分にとって「とびきり」の服を着る機会は普段ほとんどなくて、袖を通せたのは数えるほどだ。
 決めて、伏せた鏡を覗き込んだ。やはりそこには冴えない女がこちらを見ている。私はそれに安心させるようにぎこちない笑みで笑いかけた。大丈夫、あなたはきっと可愛くなれる。なんせ普段いかないような上等な美容院を選んだんだ。きっと、だから、大丈夫だ。


 向かった美容院は、さすがというか早いタイミングで美容師さんが私の口下手さを察してくれたらしい。時折、施術の進捗や髪のケアについて話してくれる。それ以外の「休日は何をしてるか」や「お仕事は」と言った、少し答えるのを躊躇う話題はとんでこない。いつも、そんな話題を振られるのが苦手だった。美容院へきらきらした印象があるからだろうか。ここで話すに値しないような話題しか持たない自分に惨めさをいつも感じてしまう。だけど、この美容院ではただ、黙ってシャキシャキというハサミの音が場を満たしていく。
 久しぶりに見た、身体に髪の毛が付かないように覆われたケープを纏った自分の姿。どこか間抜けにも見えるけど、それを見ているときっと、と思った。
 きっと、大丈夫。今日の私は、とびきりの服を着ている。それにきっとこの人は腕がいい美容師さんだから。数日前に見た鏡の中のさえない自分を思い出す。きっと、そんな自分と私は今日お別れするはずなのだ。

「トリートメントなんですが」
「あ、はい」
「どうされます? ご希望とかありますか」
「え、あ、いや」

 思いがけない質問につい口ごもった。トリートメントに希望とか、あるのか。そもそも、髪型すらなんとかここに来るまでの数日、ああでもないこうでもないと色んなサイトやインスタを見て決めたのだ。そんな私にトリートメントの種類など、浮かぶはずもない。じわりと焦りが胸を焦がした。
「……たぶん、痛んでると思うので。なんでもいいです」
 ギリギリ聞き取れるかどうか、というような小声になった。ああ、なんて情けないんだろう。


「お客様、たぶん、そんなに髪染めてこられなかったですよね」
「え、あ、はい」
「だからそんなに痛んでないです。もちろん、紫外線などによるダメージはありますんで、その辺はちょっと処置した方がいいかもしれないですけど」
 じゃあ、保湿メインでやっていきますね。そうなんでもないように美容師さんが言った。ぽかんと、間抜けな顔をした自分と鏡で目が合った。痛んで、ないのか。いや、多少は痛んでいるんだろうけど。
 混乱した気持ちの私に気付かないまま、美容師さんが整髪剤を髪に馴染ませていく。人の手が触れるその柔らかな感覚に、動揺した気持ちが落ち着いていく。とりあえず、大丈夫なんだろうか。美容院で施術してもらう、その一つすらドキドキとしてしまう自分が情けなくもあったけど、気にしていないような美容師さんの表情に少し、安堵した。
「いかがですか」
 鏡を片手に後ろ髪の状態も含めて見せてくれた美容師さんに頷いて見せる。つやつやと光っているように見えた。ただ無造作に伸ばしただけの髪型とは違い、ボブのふんわりとした丸みは、可愛らしく見える。少し幼くなったか、と焦らなくもないが、その分疲れたような印象は少し減ったように思えた。

「あ、はい。これで」
「ありがとうございます」

 では、取りますね。そう言った美容師さんは目に付く髪の毛をバサバサとブラシで落とすと私の身体を覆ってくれていたケープを外す。ドキドキと、胸が高鳴った。立ち上がり、鏡を見る。

(……あ)

 何を、思い違いをしていたんだろう。突然、そう目の前が真っ暗になったような気がした。美容師さんの作ってくれた髪型はバッチリだった。なんなら、モデルの子がしていた時はなんて可愛いんだろうと少しうっとりもした。服装だって、気に入って買ったもので固めてきた。それなのに。
 胸を高鳴らせて対面した鏡の中には、やっぱり冴えない女が映っていた。

「お客様?」
「……そう、ですよねえ」

 美容師さんの腕が確かでも。結局は私次第で、とどのつまりは冴えないままに決まっているんだ。何を一体、勘違いしてしまったんだろう。魔法のようなものを期待したって、現実にあるわけがないのに。
 申し訳ないと思った。きっとこの人は一生懸命、髪を切って仕事をしてくれた。なのに勝手に、夢を見た私のワガママでこの人の仕事にケチをつけるわけにはいかない。そう頭の冷静な部分は言うのに、心がついていかなかった。

「髪を切ったら魔法みたいに可愛くなれるなんて、もういい歳した女が信じるにはイタいですよね」

 ぽつんと零れた言葉の惨めさに顔をしかめるが、漏れたのはどうしようもない本心だ。
「お客様は、可愛くなりたかったんですか」
「なりたくない人って、いますか」
 疲れ切った顔をしている自分が嫌だった。自分のことを可愛いと思えたことなんて、そうないけれどそれでもと思った。儚いバカみたいな夢を見た。
「少し、こちらにおかけいただけますか」
「へ」
 すとんと先ほど立ち上がったばかりの椅子へと腰かけた。美容師さんは、近くのラックからワックスのようなものを取り出して手に伸ばす。それからふわりと髪を包み込むようにそのワックスを馴染ませてくれる。鼻先を柑橘系のような香りが漂った。
「あ、匂い、大丈夫ですか?」
「え、あ、はい」
「よかった」
 少しだけ笑った美容師さんが、そのまま全体に馴染ませるようにワックスを髪の毛に広げていく。
「今回の髪型は、髪を乾かすときに毛先に指を入れるようにして大きく空気を含ませてあげてください」
 突然の言葉にはい? と問い返す。さっきドライヤーするときもそうだったんですけど、とそんな私に構わず美容師さんは話し続けた。
「そしたら、きっと朝起きた時にふんわりとした……今みたいな感じになります」
「はい」
「それから、今付けたワックスは香り付けだけじゃもちろんなくて、艶出しの効果もあります。うちで購入いただくこともできますし、ドラッグストアなんかにも色々あるので見ていただけたら」
「……はあ」
 何が言いたいんだろうと見上げる私の視線と美容師さんの視線が鏡越し、ぱちんと合った。

「可愛いですよ」

 それは、仕事でそんなことを言わせてしまったと後悔するのも追い付かないほど真っ直ぐ、私の心に届いた。可愛いです、ともう一度美容師さんが言う。
「確かに、魔法のようなことは起きません。僕は髪を切っただけです。でも、だから余計に」
 一つ一つ、丁寧におしゃれをしたお客様は、可愛らしいと思います。
 く、と漏れそうになった嗚咽を飲み込んだ拍子に。ふわりと髪の毛から柑橘系の良い匂いが漂った。


 もう一度、鏡の中を見る。そこには、やっぱり少し疲れた顔をした女が立っていた。何度もヘアスタイルを決める時に見たきらきらと輝くようなモデルの子とは似ても似つかない。それでも、好きな服を着て精一杯お化粧をして、それからなりたい髪型になろうとした彼女は、少し、愛せるようなそんな気がした。
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