第1話

文字数 3,615文字

kraket


 海とは、じつはなんとも青々と輝いて、美しいものでありました。まわりをぐるりと見渡してみても、喜ぶように波うって揺れる、あかるい水平線があるのみです。そして、空のほうには雲が流れます。ちょうど、玉ねぎのポタージュに浮かんだ流し卵のようです。流し卵は、まるい空の内がわを、ゆっくりと循環します。その卵白のあいだから、まぶしい太陽がちら、ちらと差しました。ちら、ちら。太陽の身振りといっしょになって、こちらもちら、ちらと、照って踊るものがあります。それは、海一面に散らばった波の子どもたちです。波の子どもたちは、冷たいようでじわりとあたたかく、なめらかに集まっては、とけてなくなってゆきます。そうやって、小さいスィエルの体を、背中からささえているのでした。
 海のうえにひとりぼっちでなんていたら、海はいじめるから、とってもつらいことだろうと、あたしこわがっていたのに。空が幸せでいるからかしら。海ってば、ほんとうはやさしいの。スィエルは、じぶんの背中の下に集まってくる波の子どもを、ひとつつかまえてみようとしました。それはえいっと五つに分かれて、たちまち逃げていきます。うふふ、思いがけず笑ったスィエルの頬に、そのうちのひとつがちょっかいをかけます。ぴしゃり。顔にかかったのは子どもの手で、冷たくて、それでいてじわりあたたかい手でした。それが、たちまちにとけて、また海に飛びこんでゆきます。スィエルは、それをついにつかまえてみることができません。スィエルの洋服は、海藻になって水中に揺れました。おしりから首まで、そのあいだをぬるりと通りぬけて、波の子どもはやがて沈んでゆくのです。スィエルはくすぐったくなって、肩を小さくしました。思わず、肩を小さくしました。

 ほかの子どもたちが、それを見つけました。見つけると、いっせいにスィエルのまわりに集まりました。そして、瞬きのうちに、スィエルをとぷりと包んでしまいました。鱗立ったたくさんの手は、スィエルを器用にくるめとると、すぐに、海の内がわへともぐってゆきます。

 玉ねぎが好き からりと揚げたのが好き
 玉ねぎが好き とてもおいしいのが好き

ばあやといっしょに部屋にいましたとき、どこからか、いつでも聞こえてきた歌です。いつぶりでしょうか、その歌を思い出しました。





 はたしてそこにいたのは、信じられないほどに大きい、へんてこなおばけでした。おばけ。海のおばけです。おばけというくらいですから、肌は青白くにぶく光っていて、それから、またあまりの大きさに、足のほうは暗く消えてよく見えません。形もわかりません。ただ、スィエルの体のいくつぶんもあるような、大きい、無機質な目だまがついています。気がついてみればたしかに、目だまの二つついた、化け玉ねぎのようでもありました。それが、水中のかすかな波の動きに揺れながら、しずかにスィエルのほうを見つめているのです。これほど、存在の感じの力づよさを持ったおばけが、いままでにいたでしょうか。海の内がわは四方が暗くなっていて、青い絵の具をかさねすぎ、黒くなってしまった画用紙のようです。スィエルは息ができませんが、そんなことは何も関係ありません。

(あなたはおばけ)

スィエルはどうしていいものか、恐る恐る問いかけてみました。

(わたしはおばけだ)

おばけは足をもごもごさせました。低い声です。女の人の声でも、また男の人のでもありません。ただ、おばけの声というような声でした。

(わたしはおばけだぞ。おもしろい。わたしは玉ねぎの頭をした、海のおばけになったぞ。男でも女でもない。ゆかいだ、ゆかい)

おばけは海藻のような足を、ゆらゆらさせました。つられて、海の中に風が吹きます。

(あなたはいったい、おばけになったばかりなの? それにしては、とっても大きいのにね)

スィエルも体を揺らして、話しました。

(わたしは変わるのだ)

(変わる? 変身できるのね?)

(変身させられるのだ)

(変身させられるの? 誰があなたを変身させるの)

(人間は、ほとんどみんな、ああ、きまってわたしをべつの何かだと信じている。だから、人間に出会うと、いつもそれに変身させられるのだ。変わるのだ。人間がそうだと思う形に。変わるのだ、わたしが決めたわけではないのに)

おばけの揺れはだんだんと大きくなります。

(べつの何かってどんなもの?)

(言わない。言えば、おまえは信じて、わたしはまた変身させられる。玉ねぎ頭のおばけは、そうなるよりも、ずっとゆかい)

つまり、あなたが玉ねぎ頭になったのは、あたしが玉ねぎ頭を信じているからってことね。いいわ! スィエルがそう話そうと口を開いたとき。

 玉ねぎが好き からりと揚げたのが好き
 玉ねぎが好き とてもおいしいのが好き

歌が聞こえました。たくさんの若人の声です。勇んだ声。

 玉ねぎが好き からりと揚げたのが好き
 玉ねぎが好き とてもおいしいのが好き

 玉ねぎが好き からりと揚げたものが好き
 玉ねぎが好き 玉ねぎが好き





 スィエルは突然、船の甲板のうえに寝ておりました。船の上です。背中に硬い床が触れているのは、とほうもなく久しぶりのように思われます。体とはこんなにも、むだに重たいものだったでしょうか。空には雲ひとつなくて、太陽はまぶしく光ります。ゆがむような熱い光です。洋服はじっとりとちぢこまって、背中から首までに冷たくまとわりつきました。海藻のようなやわらかさは、もはやありません。すぐに、白く平らな帽子の青年が、一人二人と駆け寄ってきました。海兵のようです。
「ご無事で……ああ。プリンセス、ご無事でよかった。奇跡だ。ああ大丈夫です。あのちくしょうを、我々がここでぶちのめしてみせます。昨年の暮れには、イギリス軍を打ち破りました船です。ええと、我々は、必ず勝ちます」
白帽子うちの一人が、言葉をすこし困らせながら、必死に語りかけました。スィエルは、何が何だかわかりません。まわりを見回すと、彼らと同じく、白帽子をかぶりこんだ青年たちが、船じゅう甲板じゅうをかけまわって、あわただしく騒いでいます。導火線をよこせ。砲弾はあるだけ出して来い。弾薬庫からもだ。そんなふうにして行き交うのは、まるで、船の上に暴れ馬が放たれでもしたかのようです。船には砲台があります。そのどれか一つが使われるたび、船全体が振動するのでした。
「おぼえていらっしゃいませんか、プリンセス。あなたはご病気ため、お母様のいらっしゃいます、オスローへ向かわれていたんです。お船でした。しかし、難破された。沈んでしまいました。あのちくしょうのしわざです。それがたった先ほど、捜索隊でありましたわれら海軍は、プリンセスを発見したのです。ああ、海上の真ただ中で、意識を失われているのを発見しました。奇跡のようです、本当に。我々はすぐにお助けしました。いま、船を沈めたそのちくしょうと戦って、仕留めるところです」

「ああ、くそ。あああっ」
船が、いままででいちばん大きく揺らぎました。それとともに、若者の叫び声が上がりました。見ると、そこには、おばけがおりました。玉ねぎ頭で青白い色をした、あのおばけです。船よりも、いくらも大きいそのおばけは、足を半分船に乗り上げて、まさに若者ひとりをからめ取ってしまおうというところでした。無機質な二つの目だまは、スィエルを見つめているようでもあり、また、見えてすらいないようでもありました。水しぶきが飛び散ります。撃て! 何をもたついておるのか、撃て! 遅れて、銃声。
(いけないわ)
「見てはいけません、いけませんプリンセス」
スィエルを介抱していた青年が、白い腕でスィエルの両目を覆いました。
「あのちくしょうがそうです。クラーケンです。大西洋には、クラーケンがいると言われます。恐ろしい姿の怪物です。イカともタコとも言われますが、じっさいもっと醜悪だ。巨大で、多くの足を持っていて、船に乗っている人間を殺すのです。ちくしょうめ。やつのきたない目だまをつぶしてしまえ。ああ、われわれは勝ちます。必ず勝ちます。しかしきっと、われわれの何人かは死にます。ですから、見てはいけません」

 船が、またさらに大きく揺らぎました。すぐそばの標的に、大砲がさく裂したのです。ああ、うわあ。海兵たちのどよめきです。船は、危うく転がってしまう、というほどに傾きました。その瞬間に、スィエルはもういちど、おばけの姿をみとめることができました。いいえ、いいえおばけではありません。そこにいたのは、イカともタコともつかない、巨大で醜悪な怪物でありました。

 おれは怪物だ。ちがう。

男の声、それも低くおどろおどろしい声です。

 海のおばけだ、おばけだった。おれは多くの足で、船の人間を殺すのだ。おばけは人間を殺さない。ちがう。殺す。変わったのだ。おれは醜悪な怪物だから、殺すのだ。ふゆかいだ。ふゆかい。


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