第1話

文字数 1,605文字

 ここは妖怪たちが住む世界。彼らはときどき人間界に行っては人間たちを驚かし、毎日楽しく暮らしていた。野寺坊も、この世界に住む妖怪の一匹だ。
「おーい、のでらぼう!」
 一匹で河原を歩いていると、名前を呼ばれた気がして野寺坊は振り返った。後方から、見覚えのある妖怪が手を振りながら駆けてくる。反射的に手を振り返しかけた野寺坊は、すんでのところでその手を引っ込めた。自身とその妖怪の間に立っている、もう一匹の姿に気づいたからだ。
 呼び声に応えたのは、のっぺらぼうだった。二匹の妖怪はその場で、共同で人間を驚かせる計画を話し始める。その楽しそうな姿を、野寺坊は唇を噛みしめて見つめていた。そんな野寺坊の肩越しにひょっこりと顔を覗かせたのは、化けるのが得意な狐だった。
「どうしたんだい、野寺坊さん。怖い顔しちゃって」
「あぁ、狐かい。見ただろう、今の。呼ばれるのはいつだってのっぺらぼう。名前が似ているだけで、ただ鐘をつくしか取り柄のない私のことなんか、誰も見ちゃくれない。人間なんて私の名前も知らないんじゃないかな」
 落ち込む野寺坊に訳知り顔で頷くと、狐はニッと笑った。
「そういうことなら野寺坊さん、良い考えがありますぜ」
 狐は戸惑う野寺坊を連れて、人間界へ向かった。やってきたのは、幽霊が出ると人間の間で噂になっている、山の古寺だ。折よく、夕日が寺を赤く染め上げて、いかにも何かが出そうな雰囲気を醸し出している。
 狐は手早く、野寺坊の顔に白いパックを貼り付けた。
「これは変身が苦手な狐のために作られた、変身パックという物でね。これを顔面に貼り付けりゃ、誰でも簡単に人間を驚かせる恐ろしい顔になれるんでさ。さぁ野寺坊さん、この姿で得意の鐘をついてみなよ」
 言われるがままに、野寺坊は古寺の鐘の前に立った。『無人の寺で寂しく鐘を鳴らす』。それだけを職能とする野寺坊の手にかかると、錆びついた鐘も味のある音を響かせる。ゴーンと尾を引く音が山いっぱいに広がった。
 何度かつく内に、人間の話し声が近づいてきた。肝試しに来た五人の若い男女が、鐘の音に導かれるようにやってきたのだった。
 背後から近づく気配に、野寺坊の心は浮き立った。しかしそんな素振りはいっさい見せず、規則正しく鐘をつき続ける。しばらく後ろでコソコソと相談していた若者たちの一人が、おっかなびっくり声をかけてきた。
「あのー、住職さん。この寺はもう誰もいないって聞いたんですが……」
 待ちわびた声に体が震えそうになるのを意思の力で押さえつけ、野寺坊はおもむろに鐘をつく手を止めた。そしてもったいぶった動きで、彼らの方を振り向いた。野寺坊の顔を見た途端、若者たちは示し合わせていたように揃って顔を引きつらせ、悲鳴を上げて逃げ出した。初めて自分に向けられた人間の悲鳴に、野寺坊は天にも昇る心地だった。人間を驚かせることが、こんなにも快感だったなんて。
 人間の姿が完全に見えなくなってから、ニヤニヤしながら狐が姿を現した。野寺坊は興奮して、狐の元に駆けつけた。
「凄いよ! こんなにも人間に驚かれたのは生まれて初めてだ! いったい何に変身させてくれたんだい?」
 野寺坊の問いに、狐はいよいよ笑みを深くしながら手鏡を取り出した。吊り上がった目や、尖った牙が見えることを予想して鏡を覗き込んだ野寺坊は、自身の顔に愕然とした。そこには目も鼻も口もない、のっぺらぼうの顔が映っていたのだ。
 脱力した野寺坊の手からサッと手鏡を奪うと、狐はケタケタ笑い出した。
「良かったね、人間に驚いてもらえて。その変身パックはプレゼントするからさ、あんた、今度からのっぺらぼうに改名した方が良いんじゃない?」
 嘲笑を残して、狐は去ってしまった。残された野寺坊は地に膝をついた。全身の力が抜けるとともに、先ほど感じたはずの幸福感も流れ去っていくような気がした。やがて訪れた夜の闇が、野寺坊を包んでいった。
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