第1話

文字数 4,160文字

 雨が降りだした。
 弱い、まばらな雨だった。曇った空の色も薄い。
 景色にやわらかな湿りを与える、その様子をキッチンカーのなかに立って麻里子はひとり眺める。
 これはお客さん来ないかな、とそう思った。
 平日の昼間。片田舎の町。雨。
 タピオカミルクティーを売るには条件が良くない。
 しかし麻里子は早めに店じまいすることもなく、白いキッチンカーのなかで、ほかに何をするでもなく、客が来るのを待った。
 県道沿いにあるホームセンターの広い駐車場、その片隅に車は駐められている。昼食どきはもう過ぎた。辺りは閑散として、人けがない。店はこの県道沿いにいくらか並んでいるだけで、あと視界に入るのは田んぼと山々の緑ばかりだった。
 そんな片田舎のささやかな移動販売車も、土日はそれなりに売り上げがある。麻里子はせっせとひとりでタピオカミルクティーをつくり、売る。
 でもきょうは、閑古鳥が鳴いている。
 そう思っていたら、誰か自転車に乗った少年がひとり、県道からホームセンターの駐車場に入ってきた。店のほうではなく、こちらに向かってくる。
 そして高校生くらいの少年はキッチンカーの前で自転車からおりると、麻里子に言う。
「タピオカミルクティーください」
 物怖じしない、まっすぐな声で少年が言う。
 傘も持っていない、濃紺のウェットスーツを着た少年を麻里子は見つめ、それから、はい、と返事をして、タピオカミルクティーを用意する。
 プラスチックの容器に入ったタピオカミルクティーをカウンターに置き、代金を受け取る。
「きのうも、来てくださいましたよね?」
 おつりを渡しながら麻里子がお礼がてら軽くたずねると、
「はい。おいしかったんで、二日連続で」
 その場でストローをくわえ飲み始めながら、明るい声で少年がそうこたえる。
 きのうの昼も来て買ってくれた子だと、麻里子は少年の顔を見てすぐに気付いていた。どこにでいる平凡な高校生の顔立ちだが、客自体の数が少ないので覚えている。
 きのうは特に会話は交わさなかった。きのうはもう少し早いお昼どきで、少年以外にもほかに一人か二人、客がいたと思うし、少年も注文の品を受け取ると、タピオカミルクティー片手にストローをくわえた恰好でさっさと自転車に乗って帰っていった。きのうはウェットスーツではなく学校の夏服姿だった。
「ひとりで店やってるんですか」
 雨がぱらぱらと降るなか、それを気にした様子もなく、少年がたずねる。 
「ええ」
 きのうもきょうもひとりでキッチンカーのなかに立っているからだろう。白シャツに黒のエプロン姿の麻里子はそう思いながら少年にうなずきかえす。
 繁華な街中で営業するのならともかく、こんな田舎町ならば一人で十分にまわせる。
「今年から始めたんですか、タピオカ」
「ええ」
 去年は、凍らせたフルーツを砕いてシャーベットのようなシェイク状にしたフレッシュジュースを売っていた。タピオカのブームが去れば、また何か別の流行りのものに変えるだろう。こだわりも信念も、麻里子にはない。飽きれば別のものを売り、あるいは別の町へ移る。この車で、漂泊する。
「おねえさん、この辺のひとと違うでしょ」
「ええ、そう。地元は大阪」
「あー、やっぱり」
 少年の気さくな話し方と表情に、麻里子も少しくだけた調子でそうこたえる。相手がそれを求めているふしを認めて、彼に合わせたのかもしれなかった。
 教育実習生が受け持ちのクラスの子としゃべっているような気分だと、麻里子は思った。そしてそれから、もう教育実習生なんて若さじゃないけれど、と三十二歳の麻里子は自嘲気味にそうも考える。トシよりは若く見られることが多いけれど、自分はこの子のたぶん倍近い年齢だ。おばさんだ。
「学校は。テスト期間中?」
 まだ高校生が帰宅する時間ではないので麻里子がたずねると、太めのストローでタピオカを吸い上げながら少年がうなずきかえす。
「そのウェットスーツは?」
 海からは離れた町だった。
 部活だろうか、でもテスト期間中だし、とそう思いながらたずねる麻里子に、少年がこたえる。
「アユ、捕ってきた」
 少年の言葉に、麻里子は一瞬理解が及ばず、「あゆ」とただそれだけ口にする。
「あっちの山のほう行くと、けっこう捕れるから」
 田んぼの向こうに見える緑の山並みを目で指して少年が言う。
「雨降りそうだったからきょうは早めに切り上げてきたけど」
 ウェットスーツを着ているということは鮎釣りではなく、直に渓流などに入って捕るということだろう。麻里子は少年の自転車の荷台にクーラーボックスや何か道具が括りつけられているのを見ながらそう考えた。
「べつに、大学とか行くつもりもないし」
 きっとそれなりに技術や経験が必要だろう、渓流の鮎を捕るには。
 彼も小さいころから誰か年上の人間に教えてもらって、それができるようになったに違いない。麻里子は田舎暮らしの少年を眺めて、そう思った。
「上手いの、アユ捕るの」
「まあまあ、かな」
 それほど日焼けもしていなければ、勉強ができない野生児の雰囲気もない少年がこたえる。
「じゃ、それをまた誰かに教えてあげなきゃね。あなたが」
 この少年は自分のように一人では生活していない。これまでも、そしてきっとこれからも。家族や地域のひとたちとかかわって、それが当たり前のように暮らしていくだろう。そうやって、後の世代に鮎の捕り方が受け継がれていく。
 高校のテスト期間中に山間(やまあい)の渓流に鮎を捕りに行く。少年の行動のフラグメント、その何もかもが、夫がいたころの自分の生活とあまりにもかけ離れているのを感じて、麻里子は不思議なものを見るように目の前の少年を見つめた。
「十枚たまったら一回タダになるチケットとかないんですか」
「うん、ないの。ごめんね」
 スタンプカード的なものもない。麻里子は微笑(わら)いながら、タピオカミルクティーを飲む少年にこたえる。
 十回も買いに来てくれるつもりなのだろうか。そんなに気に入ったのか。半分素人のような自分がつくったこのタピオカミルクティーを。
 しかしこの少年がどんなに自分のタピオカミルクティーを気に入ってくれたのだとしても、彼がまたここに、このキッチンカーにタピオカミルクティーを買いに寄ることはない。この移動販売車が、自分が、この町で営業をするのはきょうが最後だからだ。
 ホームセンターの駐車場の一角を一週間だけ借りるというのは、店側と相談して最初から決めていたことだった。
 きょうの夕方には店じまいをし、タピオカミルクティーを売るキッチンカーはこの町を去る。そしてもう二度と戻ってはこない。町から町へ流れていく、そういう生活を自分は選んだのだ。夫と別れた際に。
 自分が死んで泣いてくれるのは夫だけだと、麻里子は五年の結婚生活のあいだ、ずっとそう信じていた。両親はすでに亡く、きょうだいはおらず、姑とは折り合いが悪い。子供もいない。しかし幸い、夫婦仲は悪くない。
 そう思っていた、だがその夫からある日突然、別れてほしいと切り出された。よそに女ができて、その女と一緒になりたいという話だった。一通りの、お決まりの修羅場を経て、麻里子は離婚を承諾した。
 夫から受け取った慰謝料を開業資金にして、麻里子はこのキッチンカーを手に入れた。そして三十歳まで暮らした故郷の大阪を出た。町から町へ、移動販売をして暮らす、現在の生活を始めた。
「テスト、いつまで」
「明後日」
 弱い雨が、少年の黒い髪やウェットスーツを微かに濡らす。少年はもうほとんどタピオカミルクティーを飲み終わりかけている。
「明日も飲みに来ようかなー」
 明後日からは部活があるからもう来れないけど、と少年が最後のほうのタピオカをすすりながら言う。
「うん、来れたら来て」
 お店的にはそのほうが助かるから、と麻里子は冗談半分にこたえる。
 すると少年がふいに、にやりとする。そして言う。
「大阪のひとって、行く気がないときは、行けたら行くわって言うんでしょ」
 それと同じトーンでいま言わなかったかと、べつに自分ひとりくらいが来ても来なくてもどっちでもいいんだろうと、少年のなかなか鋭い指摘に、麻里子は微笑(わら)う。笑ってごまかす。
 別れた夫への愛情などというものは、もはやない。かけらもないとまではいわないが、ないと言い切って問題ない。あるとすればそれは、ミルクティーの底に沈んだタピオカの黒いつぶのような、何がしか言葉にするのが難しい感情が(おり)のように(こご)っているだけだった。
「五回来たら一回タダにしてあげるよ」
「え、ほんと」
 あした自分はもうここにはいないということはこの子には言わないほうがいいだろうと、麻里子はそう思った。
 意地悪だろうか。ずるいだろうか。
 でもそれでいい、とそう思った。
 飲み終えた容器を、少年がごみ箱に捨てる。そして荷台にクーラーボックスを括りつけた自転車にまたがる。
「じゃあ、あしたも行けたら行く」
 笑って言う少年の言葉に、麻里子も微笑みかえす。
 タピオカミルクティー一杯を飲み終わるまでの短い会話が終わる。
「ごちそうさまでした」
 ありがとうございました、と店員の口調でそれに返し、麻里子は自転車をこいで駐車場を出て行く少年を見送る。微かな雨のカーテンが少年と麻里子の間を隔てる。
 もしあの子が水の事故で命を落としたら誰が泣いてくれるのだろう。麻里子は山間の渓流で冷たい水に全身を晒され倒れている少年を想像する。もはや息を吹き返すことのない、濡れた岩に引っかかり半ば以上水に浸かった少年の身体の脇を、鮎が素早くすり抜けていく。
 きっとたくさんのひとが泣いてくれるだろう。十代の少年の死に。
 自転車をこいで遠ざかっていく背中を、キッチンカーのなかにひとり立って麻里子は見つめる。雨はまだもうしばらく止みそうにない。
 客としばし向き合ったカウンターに背を向け、片付けを始める。
 少年が潜る清流のまぼろしを麻里子は聴く。水が綺麗でなくては、鮎は棲んでいない。

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