第1話  出会い

文字数 8,291文字

日本国憲法
第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

上記の記載された一文によって、生まれながらに理不尽を被る人達がいた。
そしてこの理を覆すのは並大抵のことではなく不可能とさえ言われている。









「おい。何だこの書類は、不備だらけじゃないか」静けきったオフイス内に怒号が響きわった。
ハゲ散らかした男は青筋を立てて書類をデスクに叩きつける。
そしてデスクの対面にいる若い男に続けて怒鳴りちらした。見せしめのつもりなのだろう、喉がはち切れそうなほどでかい声で罵った。
すると予想通りオフィスの群衆の視線は、まるでパフォーマンスでも見るかのように一点に注がれていく。

「大変申し訳ございませんでした」
怒鳴られた男は耳鳴りがするのを必死に堪え深々と頭を下げた。

「お前もう何年目だ。ろくな仕事もできない穀潰しだな」

島田直也は今、上司からパワハラまがいの叱責を受けていた。

だが周りの反応は冷ややかで傍観者が大半で、中にはクスクスと笑い娯楽として楽しんでる様相だった。直也が気にかけている女性社員も蔑むように目でこちらを見つめ隣の者とヒソヒソと話し合っていた。

味方は誰一人いない。完全に社内のお荷物状態だった。
この上なく惨めだった。
いつからこうなったのだろう。直也はこうべを垂れながらしみじみ思う。

大学を出て上京した時は、新たなる門出ともに、希望と期待に満ち溢れていたんだ。
散々たる現状が哀れな思いとなって忽忽と胸の中から湧き上がってくる。

だが彼にも言い分はあった。今まですべて鬱憤を飲み込んできたのだ。
今日だってそうである。上司が取引先の契約書類の作成を大至急よこせと、正午過ぎに独断専行な命令をしてきた。溜まっていた仕事はまだあったが、上司の命令ならとその手を止め後回しにして、命令を随行した。

だが取り急いでやったものだから、ちょっとした確認漏れでミスが出た。
そして散々な結果となった。だがと思う。
念入りに時間をかけて作ればこんなことにはならなかった。
不甲斐ない結果になったのは煽られて急かされたからだ。部長という肩書きを持ってるくせに状況把握のできない奴のせいだ。

直也は徐々に憤りが溢れ出していくのを自覚した。

俺には能力がある。なのに恵まれない上司のせいで煮え湯を飲まされ続けている。

会社に入ってからこんなことばっかりだ。己のちからが試せたことが一度もない。
もっと俺はやれるはずなのに。ここでは理不尽に怒られてばかりだ。
上のやつらが慧眼の目を持っていれば、俺は今頃同期で一番の出世頭になっていただろう。
直也は両手を力強く握った。ふつふつと怒りが込み上がってきた。

もっと自分を評価してくれる場所はあるはず。
選民思想の強大な男は意中を決っした。

そうと決まれば、こんな非合理な場所にいるのは時間の無駄だと悟った。

「おい、なんか言ったらどうなんだ?お前がミスした言い訳を
聞いてやるって言ってんだ」

部長の嫌味ったらしい言葉に、ついに直也の堪忍袋の緒が切れた。

「うるせえ。もうお前に使われるのはうんざりなんだよ」

オフィス内は水を打ったように静まり返った。
時が止まったかのように微動だにしない面々を尻目に直也は自分のデスクに戻って、
筆をとった。デスク上に置いてあったA4の紙と封筒に荒々しく書き込んだ。そして封筒に紙を入れてそれを携えて戻ってきた。
皆がその間の動向に口を出せずにいた。というより関わらない方がいいという判断だろう。


直也は戻るやいなや辞職願を提出した。叩きつけたといっていいだろう。
部長のデスクに叩きつけた時、上司は目を丸くしたがあっさりと受理した。
この会社に入社して5年経つが悔いはなかった。


今に見ていろ。もっとビックに見返してやる。闘志を燃やして、心中で叫んだ。
彼は蔑んだ奴らを一瞥すると、颯爽と会社をでていった。







無職になった彼はオフィス街を抜け目的もなく街を彷徨っていた。
転職先を探そうにも、自分が何が向いているのかすらもわからなかった。

指針を決めようにも材料がない。
ふと立ち止まって、周りを観察してみた。

俺以外にも上京したやつは、ごまんといるはずだ。みんなこんな社会でうまいことやっているのだろか?俺だけが穴に落ちたような思いもあり、他人の生き様が気になった。
それに何か得られるかという淡い期待もご多分にあった。

行き交う人たちは常に早歩きで切羽詰まった表情をしている。信号で足止めを食らうと、腕時計を確認して苛立った様子だ。

「そんな時間に追われて楽しいのかね」
いっときではあるが、時間の軸から外れた彼は、俯瞰で見た様子を嫌味で放った。
幸せそうじゃない労働者を見て彼はほんの少し安堵した。
次の職は余裕のある日程で伸びやかに業績を出したいな。と思った時であった。

「何だあれ」
駅前に人だかりができている。なんだか騒がしい。

不思議に思い雑踏をかき分けて進むと、大衆の面前で演説している者がいた。
スーツケースほどの小さな台座の上に立ち、何かを伝えようと必死な様子だ。
片手にマイクを持ち、その声は付近にある巨大な岩ほどのスピーカーによって排出されている。

そして道を塞ぐほどいる見物人に、仲間なのどろうか
「ご協力お願いします」とチラシを配っている者が数人いた。


何かの善意活動をしているようだったが、そこに興味は惹かれなかった。
直也は元々その系統に携わるタイプではなかったし、こんなもんは自己満足のための偽善だと決めつけ、関わるのを避けていた部類だ。

だが彼は足をとめた。知的好奇心がこの場に止まらせたのだ。

まず気になったのは活動者の装いだった。
見た目とは真逆の服装を身に纏っている。
端的に言えば男の見た目なのに女性の格好をしていた。
マイクをもって演説している男に、注視すると思わず目を見張った。彼は筋骨隆々のガタイをしておきながら、ミニスカートを履いている。髪は方にかかるかほどで長くはないが、遠目からでも艶がでているのがはっきりとわかる。余程念入りに手入れをしているのだろう。

顔の方は、真っ赤な口紅もそうだが全体的にメイクをしているというより、塗りまくってるという印象だった。テレビのコント番組で客を笑かすために女装して化粧をした芸人の姿が脳裏に浮かんだ。
その芸人はお金をもらっているプロとはいえ少し抵抗感が透けていたのを覚えている。
その格好で笑かしているというよりかは笑われているという印象だった。
蔑ませることによって羞恥心が芽生えたのだと想像した。

だが彼らはどうだろう。恥ずかしげもなく、むしろ威風堂々としている。
なんなんだこの人たちは。素直にそう思った。

そういう人たちに偏見を持っていないと自負していたが、いざ目の当たりにすると
好奇な目線になってしまう。

直也の足は釘助となっていた。
自然と人だかりと同化していき、気づけば最前列までやってきてしまった。

「お兄さんもよかったら、協力お願いしますね」
恰幅のいい男性がタイトなワンピースを着てチラシを渡してきた。
薄化粧をしているが、髪は短髪で整えている。

直也はそのアンバランスな見た目を凝視しつつ、ああと生返事をして受け取った。
「あらお兄さんいい男ね、ちょっとタイプかも」
ワンピース姿の男がゾッとするような事を囁いてきたので聞こえないふりをして、
急いで視線を紙に移した。するとそこには馴染みのない語彙が書いてあった。

「同性パートナーズシップ制度?」
思わず声を出してしまった。
「そうなの私たちの活動はねこの制度を日本中に普及させる事なのよ」
直也の独り言を聞いてかワンピースの男が反応した。
「お兄さんも協力してくださるかしら、名前と住所を書いてもらうだけでいいの」
そういって男はさっきとのとは違う用紙を見せてきた。空欄の多いさから署名用の紙のようだった。そしてその紙を片手に上目遣いで見つめてくる。連動して腰をくねらせてるのが、子供がおねだりしている様だった。

嫌悪感を覚えたが直也には聞きたいことがあった。

「そのパートナーズシップ制度ってなんですか?」

男の瞳孔がパッと開いた。
「あらご存じないのね。最近はテレビでも取り上げられて、知名度は上がってるもんだと思ったのに。どうやら私たちは自惚れていたようね」
男は分かりやすくがっくしと頭が下がった。

「まぁそんなきにしないでくださいよ。俺が仕事ばっかで世情に疎かっただけかもしれませんから」
直也は取り繕うように言った。

「あら、こんなオカマをフォローしてくれて。お兄さん優しいわね。
そんな貴方になら私たちのこと理解してくれるかもしれないわ。
ぜひ私たちLGBTの事を知って頂戴。私が老婆心ながらに教鞭を振るってあげるんだから。
ささ。ついてきて、あっちでしゃべりましょ」

ワンピースの男は直也の腕を掴んでその場から連れ出した。
多勢にみられて気恥ずかしさがあったがたいした抵抗はせずに、身を任せた。

直也は興味が湧いたら、納得いくまで調べないと気が済まない性分なのである。
もう彼の知的好奇心は奮い立っていた。

付近に簡易な集会用のテントが設置されており、そこへ通されると、
置いてあった長机を挟む形でパイプ椅子に座るように促された。

「あら、いけない。私ったら飲み物も準備してなかったわ、喉乾いてるわよね」

「いえ、おかまいなく」
「あら、それは私を見てかけてるつもりなの?」

微笑みかけて問うてきたが、もちろん直也は上手いことを言った自覚はないので、苦笑して応えた。
短髪男は近くに置いてあったクーラーボックスを開け、お茶のペットボトルを二つ取り出し、直也の前に一つ差し出した。

「まだ自己紹介してなかったわね。長谷部 正明です。よかったら、まあちゃんって呼んでちょうだい」

「島田直也です。よろしく、まあちゃん」
言われた通りに呼ぶと、まあちゃんは頬を緩ませて嬉しそうだ。

「ところで直也くんは私たちみたいな人は初めて見る感じ?」

「うんそうだな。テレビでは見たことあるけど実物は初めてみた。
別に偏見とかもってないから安心してよ」
彼は自信満々の顔で胸を叩いた。
その光景をまあちゃんはジッと見据えて続けた。

「じゃあ私たちの名称であるLGBTって言葉は知っているかしら?」

「それはなんか聞いたことあるな。あれだろ、レズとゲイとバイと・・・あとなんだっけ」

「あらよくご存知ね。三つまでは正解よ」両手を小刻みに叩いて、まあちゃんは続けた。
「残り一つはトランスジェンダーっていうの。これは前の三つとは根本的に違うんだけど、
どういった理由だと思う?」

直也は腕組みをしてうねった。

「レズ、ゲイ、は同性が好きでバイは両性いけるってことだろ。
じゃあジェンダーは家族とか親族に性欲が湧くってことか?」


「残念不正解」指でバッテンを作った。唇も尖らせている。
「前の三つは性的嗜好につけられた名義なんだけど、
トランスジェンダーっていうのは、身体的に対する事柄なのよ」

「どういうことだ」
説明する彼を食い入るように見つめた。直也の脳細胞は活性化してきている。

「じゃあ一つ貴方に聞きたいんだけど、物心ついた時に、自分は男である事に違和感を覚えなかった?」

「まったくないな」
記憶を振り返るでもなく平然と答えた。


「それは性自認してるって事なの。当たり前の感情よね。
でも一方で自分の体に違和感を持つ人たちもいるの。男の体に生まれたけど心は女。
体は女の子なのに、意識は男の子だったりね。
つまり性の不一致が起きてる人たちのことをトランスジェンダーって総称してるのよ。
ちなみに言うまでもなく私もね」

そういって彼は徐にお茶を口に含んだ。

「まあ格好を見たら薄々気付いていたけど・・
まあちゃんの中身は女の子って認識したらいいわけね」

「そうしてくれたら助かるけど、人間なかなかできないものなのよね」
彼は辛辣な表情をした。そして小さな声で、これは私たちLGBTにとっての課題でもあるんだけどね。と付け加えた。

「てことはジェンダーは心の性別が違うから、同性が好きってことではないってことなのか」
直也は閃いたように言った。

「そう言うことではないわ。性的嗜好と性自認の話であって、また別の話なのよ」
ピシャリと言いった。

「例えば体は男なんだけど、中身は女性のジェンダーの方がいたとするでしょ、でもその人がどの性別を好きになるかわジェンダーの要素に含まれていないの。だからその人は女性がすきでも全然いいわけ。その場合はレズビアンのトランスジェンダーというわけね」


「両方あるのか。ちょっと頭がこんがらがってきた」

深刻な表情で頭をおさえている彼を見てまあちゃんは微笑む。
「LGBTには、こんな風にいろんな組み合わせがあるわけ。
だから安易に一緒くたにしないでほしいのよ」

「多種多様なんだな。それでまあちゃんは俺に何の署名をしてほしいんだ?」
そうだった、と言い、まあちゃんは忘れていたかのように署名の紙を取り出した。

「私たちってのは残念な話なんだけど法的には結婚できないのよ。
いくら愛し合っていてもね」
そういった彼の目に辛辣な色が浮かんだ。

「どういうこったよ。一から説明してくれ」

様子が急変した相手に訝しげに疑問を投げかけた。

「同性婚って聞いたことあるでしょ。海外では徐々に認められているんだけど、
日本では、まだ当分先というかほぼ不可能に近いのよね」

直也は眉を顰めた。そして納得したように息を吐いて頷いた。
「そうなのか、だからこうやって署名活動してるんだな。いいぜ強力するよ。
紙を貸しな」

「先走しった解釈をしないで頂戴。事はそんな簡単な話じゃないのよ」

寄り添った発言だったが冷淡に返されてムッとした表情になった。

「何だよ。署名してやるって言ってんだろ」

「署名如きでこんな難事が解決するわけないでしょ。いい、これはもっと根深い事なのよ。いわば国家の根幹を覆さなきゃ到底解決できない不変なの」

「そんな大袈裟な。叡智に溢れる政治家さんたちが日夜、法律を改変してるんだから、
世間の声を反映してくれるんじゃねえの」

直也はそう言いながらも政治関係の知識が乏しいのでどこか他人事のような口調だった。

「そこらの法律ならとっくに変わってるわ。もっと上の縛りの強いルールよ」

「もしかして憲法でさだめられてるのか?」
直也は目をしばかせて聞いた。

「ご名答」男はウインクをした。
「憲法第24条にはっきりとかいてあるのよ。両性じゃないと婚姻できないってね。
ひと昔前に作られた物なんだろうけど、残念な事にその時代には私たちみたいなのは黙殺されていたのか、お偉いさん方に認知すらされてなかったみたいね」

直也はおし黙ってしまった。憲法を改正するのはとてつもなく難しい事を、授業で習ったことがあるからだ。
大学時代での講義での話。その時の議題は憲法第9条、戦争の放棄についてだった。講師から9条の改正は与党の悲願だと言うのを散々聞かされた。そして憲法改正がどれほど難解であるかを脳内に刻み込まれていた。


パイプ椅子に深々と座り直したまあちゃんは、こちらに視線はむけているが
何かを遠くを見るような目をしていた。少しの沈黙をおいて思い詰めた面で話を続けた。

「だから私たちは生まれながらにして結婚という人生の大事な行事が
取り上げられたのよ。法によって虐げられてるといっても過言ではないわね」

「でも結婚だけが全てじゃない。たとえ婚姻できなくても二人が愛し合っていれば、それでもいいじゃないか」
精一杯の慰めの言葉だったが効果は皆無だったようだ。眉ひとつ動かさず毅然と反駁に転じられた。

「結婚がただの名義だけのものならね。でもそうじゃないの。
法律上の夫婦関係じゃないと認められないものがいっぱいあるのよ。
例えばお金関係でいうと、税金関係で控除の対象にならないし、自分が亡くなった時、パートナーに遺産を相続させることができないのよ。他にも数多のしがらみがあるわ。ねえ、かわいそうだと思わない?」

段々と悲痛な面持ちとなってく彼に、直也は静かに首肯した。
率直に理不尽に苛まれているなと感じてしまったからだ。

「そしてこれが少しでも私たちが生きやすくするための望みなのよ」

まあちゃんは紙の端を持ってヒラヒラさせた。

「パートナーズシップとか言ってたっけ。それにはどんな効力があるんだ」

「まあ絶大な効果をもたらす程でもないけど、かといって気休め程度でもないわ。
この制度は各地の自治体が認証している物なの。
このパートナーズシップ制度が導入された自治体の、主に民間企業から同性愛による弊害を緩和してくれるのよ」

へえと頷き直也はお茶を口に含んだ。テントの中とはいえ外幕がないから外気の暑さで
汗が噴き出ていく。彼も額にポツリと水滴が現れたが、気にせず話を続けた。

「例えば愛する人が病気や事故で瀕死の状態になったとするじゃない。
不安と混乱を抱いて急いで病院に着いたけど、私たちみたいなのは逢わせてもらえないのよ。
なぜかと問い詰めたら病院のルールで家族以外は面会謝絶と言われてね。何度も何度も懇願したんだけど、聞く耳をもってもらえなかった。絶望に震えるわよね。
結局逢えたのは彼が死んでからだった。私たちみたいなのは死に目にも遭わせてもらえないのよ」

風貌からは想像できぬほどに、哀愁がただよっている。
目には溢れんばかりに涙が溜まっており。唇は血色が悪くなるほど噛みこんでいた。

悔しそうな表情から自分の体験談なのはみてとれた。

「ひどい話だな。生まれながらの差別といっても過言ではないな」
素直な感想だった。この長谷部の話をきいて、
真の強い男だと思い尊敬の念を抱いた。そして自分がいかに恵まれた環境で育ったのかがひしひしと伝わった。この世には生を受けた瞬間から理不尽な処遇を為される人たちがいるのを初めて知った。


「ながれで暗い話をしちゃったけど、別に同情して欲しかったわけじゃないのよ。
ただ現状をちょっとでも明るい方向にしたくてね。この街にはまだ導入されてないみたいだから、私たちが普及させようと活動しているの」

そういうと澱んでいた表情は晴れやかになっていた。

「まあちゃんたちは、そうやって各地をまわっているのか」

「今は都市部を重点的に回ってる最中ね。まだ地方は理解が得られなくて苦戦している感じね。
でも長年の地道な活動のおかげで徐々に雪解けしている感覚はあるわ」

彼は隆々な胸板を張ってみせた。

「それに最近ウチの団体の旗頭が代替わりしたんだけど、その人が弁に秀でた優秀な人でね。
どんどん改革を起こして、私たちLGBTの存在が世間に浸透していってるのよ。
まさに追い風が吹いているといいていいわね」

その目が恍惚感にあふれていたことから、よっぽどの信頼を得ているのだろうと察した。

「へえ。そんなすごい人がいるんだ。あってみたいな」

「いいわ。あわせたげる」認めている人が褒められて嬉しかったのか、くしゃっとした
笑顔で言った。
「ほら、あそこで演説しているのがウチのリーダーよ」

まあちゃんは演説台でスピーチしている男を指を差した。
指差す方角に視線を走らせると、台の上には先ほどのミニスカートの男がいて変わらずマイク片手に熱弁していた。
直也が説明を受けているあいだ、あの男は長い時間灼熱の下で演説していたはずなのに、疲れをみせるどころか声高々に熱を増していた。傍聴者も熱心に傾聴していて、その場の空気を支配していた。

圧巻すると同時になぜかもう一つの感情が生まれた。違和感だ。
あの熱のこもった声色に既視感をおぼえる。

どこかできいたような。直近とかではなくどこか馴染みのある声。
直也の脳内に刻々とモヤがかかった。どす黒くてねちっこく、吹いても消えそうにない。

演説台にいる男を目を細めてまじまじと凝視した。
女性用のスーツからでもわかる鍛え抜かれた胸板と腕の筋肉に不思議と面影を感じる。
顔に目を向けると、うっすら化粧をして柔和なイメージを意識しているのだろうが、眼光の鋭さが異彩を放っている。

演説の男がこちらに視線を向けた。

「えっ」
彼を真正面に見たとき、落雷が落ちたかのように衝撃が走った。
くすんでいたモヤは徐々に晴れていき、
次第に一筋のある答えが浮かんだ。
いやでも。否定しようにも、昔からあの目で何度睨めれたことか、忘れるはずがない。

何度も思い違いだと心で叫んでも、右脳が拒絶する。それほど記憶に結びついている。
いくら仮説を立てても、けして立証しない実験のようだ。

やがて諦めたかのように確信にかわってしまった。
そして一言。

「兄貴じゃないか」
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