日を記す

文字数 1,984文字

「ねぇねぇ、知ってる?」
「なになに?」
「近頃、都で流行っている日記なるもの!」
「日記?」
「そう、日記。聞いたところによると、宮中のお偉方が始めたものらしいの。それも男性が書いているものを真似たそうなのよ」
「えぇ?それって・・・漢文ってことよね?難しいのではないの?」
「ところが!そうでもないのよ!漢字は一切使わず、かな文字を使って書くの」
「へぇ・・・かな文字ねぇ・・・」
「?」
「・・・私、かな文字は少し苦手なのよね」
「あぁ、それなら、心配はいらないわ!日記は、絵で記してもいいそうなのよ!」
「へぇ!それなら、私でも簡単にできそう!」
「でしょう。それにね、書くのは何でもいいのですって。その日、一日にあったことを残すから日を記すで日記なのですって」
「へぇ、なんだか風流でいいわね―――」

 土佐守の任期を終了間近に控え、そろそろ都へ帰る準備をしていたところ。障子の向こうから聞こえてきた侍女達の楽しげな会話に興味を惹かれた。少し都を離れている間に、どうやら、物語や歌とは別のものが流行りだしたようだ。しかも、なにやら漢字ばかりの男が書くものとは異なるという。
 かな文字で書く日記だと?
 そういうもの、

 たいそう、面白そうではないか!

 かな文字は、漢字ほど複雑で格好いいものではないが、一つの文字の基となった漢字がいくつもあり、場面や風景、思ったことや感じたことなどで使い分けるという。見た目は同じ文字であっても、意味が異なるというのは実に趣深く、柔らかな女性らしさを表せているといえるだろう。
 そのかな文字を使っての書きものだと。
 そのような面白きことを男がしてはならぬということはあるまい。

「・・・よし、私もやってみよう」

 これから都へと帰る道すがらに記そうとしていた報告用のまっさらな手記を取り出す。報告用は報告用でまた別に作ればよいだろう。
 さて、折角書くのだから、名を付けておくのも良いかも知れない。報告用の手記でも提出時にはどこそこのと記すのだから。
 うぅむ、何にしようか。
 ただ単に自らの名を付けるわけにはいかない。
 それでは捻りがなく、面白味もない。
 それに、かなを使った日記は、女性がするものであるというから、男の私の名をそのまま使うわけにはいかない。古今和歌集の編纂に携わってから、私が記すものは何でも注目されるようになってしまった。万が一この日記が人目に触れるというようなこととなれば・・・。
 折角の流行りに水を差すような無粋な真似はしたくない。
 ならばどうしようか・・・。

「---よう?」

 思い悩んでいたら、先ほどわいわいと話していた侍女達が戻ってきたようだ。何かを相談しているらしい。
 もしかしたら、彼女達から何か得られるかも知れない。
 障子の向こう側に気付かれないよう、そっと息を潜め、耳を大きくした。

「そうねぇ・・・まぁ、日記など人に見せるものではないのだから、好きに付けていいと思うわ」
「そうなると・・・親しみのあるものとか、好きなものの名前とかでもいいのかしら」
「いいと思うわ!それなら、私は、白檀のお香が好きだから、白檀日記と名付けようかしら」
「まぁ、素敵!では私は―――」

 どうやら日記の名付けのようだ。
 なるほど、誰に見せるものでもないからこそ好きなものの名前を付ける、か。良い案だ。それならば、おいそれと私とわかることはないだろう。
 短い間ではあったが、この土佐の土地はとても居心地が良く素晴らしかった。もうすぐこの地を離れなければならないというのは心苦しい。なら、せめて。
 この土佐の地から都へと戻る旅路を綴る手記には土佐の名を入れよう。だが、入れてしまうと私だとばれてしまうだろう。そうだ、土佐ではなく土左にするのはどうだろうか。
 手記の表紙に『土左日記』と記した。

 「・・・うん、なかなか風流だ」

 ぺら、と表紙をめくる。
 かな文字を使うのだから、女性に扮するのは当然だが、完全に女性に扮することは難しい。けれど、女性の立場としてならば書けるだろう。男性としては書き記せないようなことも書き手が女性なのだと思わせられるのならば。どんなことでも書けるような気がした。
 これは、報告書ではなく、日記なのだ。今まで、自分の思うように書くことができなかった分、思いっきり好きなように書いていこう。
 さて、なんて書こうか。どんなものであれ、書き始めが大事だ。

「近頃、流行りの日記といふものを―――」

 いや、何か違う。
 まだ少し言葉が堅い気がする。
 書き手が女性であるということを最初に印象付けてしまいたい。
 そういえば、漢字は取り入れても良いものなのだろうか。あぁ、でも、さっきの侍女達は宮中のお偉方が始めたと言っていた。ならば、少しくらい漢字を入れても構わないだろうか。

「男もすなる日記といふものを、女の私もしてみむとてするなり―――」



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