第1話

文字数 1,064文字

 久しぶりに私に出番が回って来た。
 自分で言うのは何だけど、私ってクセが強いからめったに選ばれない。
 今日は勝負の日に違いない。期待に応える自信はタップリ。
 出かける前にひと仕事。そして勝負の直前まで一休み…

 少し長めの休憩の後にお呼びがかかる。
 外に出されるとそこは電車の中。
 私、電車って嫌いなんだ。
 だって、たくさんの人の目があるから。
 目を合わせないけど、みんなコッチを見ているのがよく分かる。
 ご本人はお構いなしだけど…
 それと電車って揺れるでしょ。
 バランスとるのが難しいし、すぐに足を踏み外しそうになるんだもん。
 今日は運転手が新人かと思うくらい停車の時の揺れが激しい。
 でも弱気なことばっかりは言っていられない。
 せっかく選んでもらたっんだから精一杯の努力をしないと!
 なんたって今日は勝負の日なんだから!

 細心の注意を払って動かされる私は身を委ねるだけ。
 鏡に映る自分の描くラインに惚れ惚れする。
 でもまだお気に召さないみたい。
 そしてご本人の思いと同じだけの重みを私は加えられる。

 ガタン!

 その瞬間、電車は駅に停まるために大きく揺れた。
 アーッと思った時には遅かった…
 私は大きくコースを外し、口から頬まで一直線を描いていた。
 ご本人は何事もなかったかのようにワインレッドのラインを消す。
 そう、今日は勝負の日なんだから多少のことでめげてはいられない。
 気を取り直してリトライ開始。
 
 さっきよりもデキがよかったみたいで、今度は鏡に映るご本人もご満悦の様子! 
 どんな時でも諦めなければ必ず幸運の方からやってくる!
 ただ、人間の欲には限りがないようだ。
 ホンのちょっと、本当にちょっとだけ、上くちびるが物足りなかったらしい。
 それが悲劇を招くことに…
 上くちびるが完璧に仕上がった、正にそのとき

 ガ、ガタン!

 ひときわ大きな衝撃を受け私は目の前が暗くなった…


 「今日電車の中ですごいもの見ちゃった! キメキメのお姉さんが口紅を塗ってたんだけど、電車が停まるときにメチャクチャ揺れちゃってさ。そしたら口紅が唇からホッペタまでビーってなって、太い線が一直線! 見てないフリするのも大変だったんだよ! それから、お姉さん何食わぬ顔をして塗り直しを始めたんだけど、さっきよりもヒドい揺れがきちゃってね… 今度は口紅が鼻の穴に入ってそのままポキンと折れちゃってさ! それを取り出そうとしてたんだけど、なかなか抜けなくてね…」

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