第1話

文字数 3,233文字

 渡り廊下という言葉が、ぴったりとくる。
 高層ビルの地下出入り口からエスカレーターを乗りつぎ、最後にらせん階段をあがっていくと、吹き抜けの三階に細長いフロアがある。
 上階のオフィスから降りてくる会社員や、交差する空中舗道でつながったほかのビル群へと抜けていく人たちが、行ったり来たりしている。片側が全面ガラス窓なので、光が燦々とふりそそぎ、昼休みには一階のレストランからフォークやスプーンの擦れあう音がして、それはまるで薄い膜のむこうから聞こえてくるみたいだ。
 ひと月のあいだ、ここで写真展「When You Call Us ぼくらの名前を呼んでください」*を開催する機会が与えられた。
〈笹子トンネル事故犠牲者の写真展〉
〈息子の生きた証―母が企画〉
 新聞に掲げられた文言は、いつも太いゴチック体の文字で目に飛びこんでくる。
 それはそうにちがいない。
 生前の息子が旅をして撮影してきたチベット・モロッコ・ネパール・カンボジアの風景と人々の写真が、2012年12月の事故から7年の歳月を経て、母親の手によって披露される。
 通信社のギャラリーというこの場所を授かったのも、そんなわけ。ぜんぶあっているけれど、でも全然ちがう、という気もしている。

 最初の印象深い来場者は、下町から来たおじさんだった。
 小さな工務店の経営者で、チベットの黒々とした石がころがる写真の前で立ち止まり、いまにも表面をなでるようにしながら、話しだす。
「これは四方石といってね、地球のマグマから噴き出る天然の石なんですよ」
 長方形に伐りだされた建築用の資材に見えていたけれど、どこか力強い感じがするのは、そういうことなのか、と思った。
 この人は、何を見にきたのだろう。
 帰りの地下道まで見送りがてら一緒に歩いていると、回転扉の前でとつぜん意を決したように、胸のポケットから15センチくらいの銀色の棒を取りだして、すすっと伸ばす。
 足元の床をこんこんと叩く。
 建造物の打音検査に使うハンマーらしい。家から持ってきたのか。
「これでやるんです。これで。人間が五感をもちいて」
 トンネルの老朽化を察知できなかったあの事故のことは、一度も口にしない。
「それをやめてしまったら、この先たいへんなことになる」
 ぼそっと、そうつぶやくと、おじさんは深々と一礼して去っていった。

〈あの日、あの30分前に、トンネルを通り抜けました。〉
 ギャラリーに置いた自由帳の紙面いっぱいに、乱れた筆跡でつづられた文章を見つけた。匿名の男性だった。
 唾をごくりと呑みこむような緊張のあと、不思議とわたしにもう怖れは迫ってこない。そういうこともあるよな、と何かを反芻しつつ、その男性がここへ足を運んでくれたことに感謝していた。
 時間て何だろう。
 モロッコの染物工場を見下ろす迷路の手すりに、一匹の蝸牛が止まっている。この子は一瞬カメラにおさまったのち、いったいどこへ歩みを進めていったんだろう、と、つまらないことが妙に気にかかる。
 サン゠テグジュペリの小さな王子さまは、渇きをいやす丸薬を売る商人に、こう言う。(一粒飲むと、週に53分の節約になるという丸薬だ。)
〈ぼくだったら〉
〈もし53分の使える時間があれば、泉に向かってゆっくりと歩いてゆくのになあ〉
 写真展主催の挨拶を書くにあたって、何も思い浮かばなかったので、わたしは息子の好んだこの物語の抜粋を、ただ提示した。
 展示写真のなかの者たちが、子どもも羊飼いも動物も、みなそんなふうに砂漠のどこかに隠されている泉を目指して、とぼとぼと歩いているように見えてしかたなかったからだ。

 何人かの写真家の友人たちが、右も左もわからない素人の計画したこの写真展の、実質的にはほとんどの部分を支えてくれた。
 なかで、世界中の都市を撮影している由良環さんは、自身の作品を撮るためにネパールのカトマンズへ赴いた折り、そこからジープを駆って息子が滞在したマイディ村を訪ね、彼がたどった同じ道、同じ丘、同じ家屋の柱や納屋をカメラに収めて帰ってきた。
 この村は、彼が出かけた年の五年後、そして他界した年の三年後 (2015年) に起きたネパール大地震の震源地に近く、甚大な被害を蒙ったそうだ。
 ホームステイした家と、お世話になったおじいさん、おばあさんは幸運にも健在だったが、由良さんの撮影してきた村は、畦のうねりも泥濘の道も、老人たちの皺寄った顔も、すべてが息子の写し得なかった深い憂愁にくまどられていた。
 もう一人、ある高名な写真家が、思いがけなくもギャラリーを訪問してくださった。それはなぜかと言えば、話は2013年・年明けのある出来事にさかのぼる。
 師走に起きた衝撃の事故をめぐる様々な用件に追われ、東京へ出かけたわたしが、恵比寿駅の地下街で目にしたのは『いつか見た風景』―北井一夫写真展のポスターだった。北国の汽車の座席にすわる男の子のすがたに引き寄せられるようにして、即座に会場へ作品を見に行き、それが記憶の底に灼きついた。
 何のことはない。子どもを亡くしたばかりの母親が、その写真にわが子の幼時の面影を重ねているだけだった。けれどあの時の、悲しみさえまだ訪れてきていない、夢の膜と疲労の極に閉じこめられた世界で、わたしに視線を送ってきたあの子は、たしかに息子だったとも思える。
 いや、それともあの子はいったい誰だったのだろう。いまに思えば、五能線の座席で一瞬の過去を刻まれた少年が、見知らぬ母のなかで永遠の生を取り戻したのだと言えるだろうか。
 さらに、写真が運ぶ巡り合わせは続いた。時を隔てて、ある機縁からその話を耳にした北井一夫氏が、名もない青年の遺した写真たちを見にきてくださったのである。

 友人の息子のそうたろうくんに、最終日の搬出の手伝いを頼んだ。
 彼は中学の途中から学校へ行っていない。写真を見にいきたいけど、外出がうまくできるかわからないという。だいぶおくれて、どうにかギャラリーに到着した。
「何が好きなの? 学校の科目でなく、どういうものが好き?」
 そう聞いてみると、
「シンプルじゃなくていい。だけどナチュラルなもの」
 と、すんなり答える。
「たとえば森とか。森にはいろんな木が茂っているし、生き物たちもいます」
 展示写真のなかでは、カンボジアの密林の奥の廃墟が好きだと指差した。「覆い尽くしている苔が、なんだか呼吸してるみたいだから」。
「つぎは、始まりから手伝って」
 と声をかけると、そうたろうくんは小さくうなずいた。
 光速は一秒間に30万キロ、地球を七周半する。
 その光が一年通過して、一光年。何億光年もの宇宙から見たら、人の一生なんて針で突いた点にも満たない。わたしたちの生が一瞬でもずれていたら、この渡り廊下を歩く人たちとも会うことはなかった。
“他者のなかに在る人間”ということに、思いを馳せる。動き、生活し、行なっていることの一つ一つが、最近、別の人の出来事のように感じられている。若いころからそれはあったし、誰にもあることなのだろうが、その時間が途切れることなく続くのは、自分にはここ数年のことだ。
 その奇妙な感覚を、“喜び”と名づけてみる。
 他者のなかで、たがいに未来の一部となって生きつづけることが “喜び” でなくて何だろう、とふと思うのだ。
 五月いっぱい続いた展示が、もうすぐ終わろうとしている。
 いつまでもあかるい渡り廊下で、写真の前に立つ人たちは、肩の力をそっとおろしていた。鞄を床に置いて佇む、通りすがりのビジネスマン。どうしていいか途方に暮れ、ぽろぽろと泣いていた若い女性。そして、そうたろうくんも。
 最後は、みんな笑ってくれた。


*上田達写真展 「When You Call Us ぼくらの名前を呼んでください」2019/4.27~5.30 
ニュースアートギャラリーウオーク 汐留メディアタワー(共同通信本社ビル)にて開催。
 
 
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