第1話
文字数 4,047文字
高田川悠次郎という男は慎重さと几帳面さを併せ持つ。性格、あるいは性質とも呼べるそれは、時に神経質とも取れる行動へと発展させ、弊害を及ぼすことすらあるが、彼は自らの性質を受け入れることで一つの強みとして昇華させることに成功している。
自覚をしたのは数年ほど前だ。周囲の人間と自分とを比較し、観察を繰り返しているうちに、彼は自らと他者との感覚のズレに気付いた。
振り返ってみると、いくつも思い当たる節があった。
おそらくは後天的なものではなく、元来からの性質なのだろうと彼は考えている。そうした考えの下で現在の高田川悠次郎という人間の人格は形成されていった。
だからこそ彼は自分というものを理解している。理解しているからこそ、有効的にコントロールする術を身に着けるに至った。
「行った……」
壁に背中を預け、息を潜めていた彼は、対象の車が走り去って行った音を聞き分けると、物陰からそっと顔を覗かせて辺りを目視した。そうして車がいないことを確認したところで息をつく。
これで邪魔者がいなくなってくれた。そう思うと口元が自然と緩んだ。
足を忍ばせ、なるべく物音を立てないように気を配りながら部屋を移る。
対象は外出してくれたが、いつ帰宅するかもわからない。仮に忘れ物でもしていようものなら、すぐにでも戻って来る可能性だってある。そうした場合に備え、外からの音を拾えるように余計な物音を殺し、ことは慎重に運ばなくてはならない。無論、自分がここにいたという痕跡を残すようなことは以ての外だ。
これが高田川悠次郎という男の思考回路によって導き出された、彼が行動するにあたっての心構えである。
■
佳乃は手早く買い物を済ませて帰宅の途についた。
彼女は日用品の買い物に出向く際には、家を出る前に予め購入する品を決め、余計な物に目移りしないよう自分に言い聞かせることを習慣としている。これは出費を抑えるための手段として行っているのではなく、効率性を求めてのことだ。
さらに、通い慣れたスーパーの展開図は頭の中にインプットされているため、購入する物を決めた段階で彼女は店内での移動ルートを思い描くことができる。
こうした蓄積されたデータと事前準備のおかげで、彼女は時間を無駄にロスすることなく、買い物という目的を果たした上で帰宅することができた。
時刻を確認すると、買い物に出発してから三十分と経っていない。我ながら上出来だ、と佳乃は思う。
この精密性、あるいは神経質とも取れるような性質は、後天的に磨かれた部分はあるものの、生来より備わっていたものだと彼女自身理解している。そして、この性質が影響を及ぼすのは、何も買い物に限った話ではない。
玄関の鍵を開け、靴を脱いで自宅に上がった佳乃は、袋詰めにされた食料品を冷蔵庫にしまうため、キッチンへと通じるドアに手を掛けようとしたところで動きを止めた。左右に動かすスライド式のドアの開閉具合を見て、彼女は外出前との違いを感じ取ったのである。
それは僅かな変化でしかないが、彼女にとってみれば確たる異変だった。
佳乃には外出前にすることとして、いくつかのルールがある。その一つとして挙げられるのが、キッチンへと通じるドアの開閉具合をセンチ単位、時にはミリ単位で調節し、記憶しておくというものだ。このルールは誰に対しても言及したことはなく、彼女自身しか知らない。
今日、外出する前に、佳乃はドアの開閉具合を1.2ミリに設定していた。これは彼女の小指の横幅の大きさと同等であり、彼女は自らの小指を利用して開閉具合を調節した。
だが今、佳乃の目の前にあるドアは、彼女が設定した開閉具合よりもミリ単位で小さく閉まっているように見える。一見すると元の状態と変化がないようにも見えるが、その極めて僅かな差異を、開き具合を調節した張本人である彼女は感じ取った。
彼女には、このドアを使用した誰かが意識的に元の状態に戻したように思えた。
試しに小指を隙間へ差し込もうとするも、外出前よりも僅かに幅が狭くなっているようで、力で押し込まない限り入らない。
結果を受け、佳乃は辺りを見回した。
当然のように誰の姿も見当たらない。さらに、物音一つしないことが、彼女を却って不審に思わせた。
「……」
一先ずドアを開いて中に入ると、購入したばかりの食料品を入れるために冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中は外出前と変わりがなかった。少なくとも、佳乃が観察した限りでは変化が見られない。キッチンへと通じるドアのように、外出前には自分だけがわかるようにプリンの向きを調節しておいたのだが、動かされた形跡は見られない。おそらくは私に勘付かれることを恐れ、未開封の物には手を着けないようにしたのだろう、と彼女は思う。
相手は事が明るみになることを避けようとしている。であれば、手を着けるとするならば痕跡が残らない物を選ぼうとするだろう。
だが、それは甘い考えだと佳乃は思う。
程度の差はあれども、物質が常に同じ状態を保っていることはない。そこに人間の手が加わったとなれば、必ずや何らかの変化をもたらしているものだ。その変容を見抜けるかどうかが、この場においてある意味勝負の鍵と言える。
そして、佳乃はその鍵をすでに掴んでいるとの自負があった。事前の準備。それこそが彼女に自信を抱かせる一つの要因となっている。
佳乃は食料品を冷蔵庫にしまいながら思考を巡らせた。
未開封の物には手を着けない。それはつまり、手を着けるのであれば開封されたもの、手を着けた痕跡が残り難い物が選ばれるということだろう。
相手にだって知恵がある。安易に悟られるようなことはしていまい。
だが、あくまで痕跡が”残り難い”だ。事を起こした前後で全く同じ状態を保っているということはあり得ない。
買って来た食料品を入れて冷蔵庫のドアを閉めると、佳乃はキッチン下の収納スペースの前に移動した。キッチンにいくつかある収納スペースのうち、引き出し式の収納扉の中には常温保存可能な食料品が納められており、その中にはいくつかの菓子類も含まれている。
佳乃は普段、菓子類を食べる機会がほとんどないものの、この中には開封済みのスナック菓子の袋があることを記憶していた。他ならぬ彼女が買い与えた物であるが、口にすることには制限を与えていた物である。
佳乃は足元を見回すと、身を屈め、床に落ちていた微細な塵を人差し指に貼りつけるようにして拾った。
塵は一辺が一ミリほどの三角形をしている。キッチンペーパーの角を切断して作られた物で、切断面が綺麗な直線なのは彼女がハサミを使って切ったからに他ならない。つまり、人為的に作られた物であって偶然に形作られた物ではないということだ。それが彼女にとって自身が作成した物であることの証左となる。
自分だけにしか判別できないような些細な塵。彼女はこれを、彼女が最後にこの収納スペースを使用した際に、閉じた状態にある引き出し式の扉の上部に僅かな隙間から差し込むようにして乗せておいた。外出前に目視をした際には、まだそこにあったことを彼女は確認している。
そんな塵が床に落ちていたということは、何者かによって引き出しの開閉が行われた可能性が高いと言えるだろう。少なくとも彼女はそう考えた。
引き出しを開けて中の様子を確認する。
これと言って変わった様子はない。開封済みのポテトチップスの袋の位置に特段と変化は見られない。だが、佳乃はそこに神経質な人間による意思を感じずにはいられなかった。
袋を取り出し、開封口に留めていたクリップを外し、中身を確認する。
袋の中がカラということはなく、ポテトチップスは一定の量を保っていた。しかし、彼女の目だけでは正確な増減を把握することはできない。そうした絶妙な量を攻めたようにも思える。
さすがの彼女といえども、ポテトチップスの残りの枚数までは把握していなかった。相手はそこを突いてきたのかもしれない。
だが、彼女は残りの枚数こそ数えていなかったが、事前に量りを使って重さを計測してはいたので、改めて重さを量ることで重量の増減を確かめることはできる。それにより、彼女は袋の中から十五グラム相当のポテトチップスが失われていることを知った。袋に入れた状態の物が時間の経過と共に自然と減ったというにはかなり無理のある数値だろう。
確定だ。
人為的な介入を確信した彼女は、迷いのない足取りで家の中を移動し、ある一室のドアをノックもせずに開けた。すると、中にいた住人が驚いた顔を彼女へと向ける。椅子に座り、机に向かっていたようだが、それは佳乃が現れることを予期して執っていたポーズのようにも見えた。
「どうかした?」
高田川悠次郎は取り繕った顔で言った。
「どうしたもこうしたもない。わかってるんだから」
佳乃は遠慮なく部屋に入ると、机の上に置かれた一枚のプリントを取り上げる。そこには勉強の最中に使用したのであろう消しゴムのカスと、僅かな油汚れが付着していた。
慎重を期してことに及んだつもりなのだろうが、まだまだ甘いな。と佳乃は思う。
「焦っていたのね。手も洗わずに……。私の帰りはもっと遅いと思ってた?」
「そ、それは……」
高田川悠次郎は答えに窮する。だが、その様子だけでも佳乃にとっては十分回答に値した。何しろ彼女には誰よりも高田川悠次郎という男を見てきたという自負がある。
「ご飯の前にお菓子を食べちゃだめだってあれほど言ったでしょ!」
佳乃が叱責すると、高田川悠次郎はしおらしく下を向いてしまった。
今年だけでもだいぶ身長が伸び、少し大人びてきてはいるが、こうして見るとまだまだ子供で、叱りつけながらも佳乃は微笑ましく思った。
「ゴ、ゴメンなさい……。お母さん」
自覚をしたのは数年ほど前だ。周囲の人間と自分とを比較し、観察を繰り返しているうちに、彼は自らと他者との感覚のズレに気付いた。
振り返ってみると、いくつも思い当たる節があった。
おそらくは後天的なものではなく、元来からの性質なのだろうと彼は考えている。そうした考えの下で現在の高田川悠次郎という人間の人格は形成されていった。
だからこそ彼は自分というものを理解している。理解しているからこそ、有効的にコントロールする術を身に着けるに至った。
「行った……」
壁に背中を預け、息を潜めていた彼は、対象の車が走り去って行った音を聞き分けると、物陰からそっと顔を覗かせて辺りを目視した。そうして車がいないことを確認したところで息をつく。
これで邪魔者がいなくなってくれた。そう思うと口元が自然と緩んだ。
足を忍ばせ、なるべく物音を立てないように気を配りながら部屋を移る。
対象は外出してくれたが、いつ帰宅するかもわからない。仮に忘れ物でもしていようものなら、すぐにでも戻って来る可能性だってある。そうした場合に備え、外からの音を拾えるように余計な物音を殺し、ことは慎重に運ばなくてはならない。無論、自分がここにいたという痕跡を残すようなことは以ての外だ。
これが高田川悠次郎という男の思考回路によって導き出された、彼が行動するにあたっての心構えである。
■
佳乃は手早く買い物を済ませて帰宅の途についた。
彼女は日用品の買い物に出向く際には、家を出る前に予め購入する品を決め、余計な物に目移りしないよう自分に言い聞かせることを習慣としている。これは出費を抑えるための手段として行っているのではなく、効率性を求めてのことだ。
さらに、通い慣れたスーパーの展開図は頭の中にインプットされているため、購入する物を決めた段階で彼女は店内での移動ルートを思い描くことができる。
こうした蓄積されたデータと事前準備のおかげで、彼女は時間を無駄にロスすることなく、買い物という目的を果たした上で帰宅することができた。
時刻を確認すると、買い物に出発してから三十分と経っていない。我ながら上出来だ、と佳乃は思う。
この精密性、あるいは神経質とも取れるような性質は、後天的に磨かれた部分はあるものの、生来より備わっていたものだと彼女自身理解している。そして、この性質が影響を及ぼすのは、何も買い物に限った話ではない。
玄関の鍵を開け、靴を脱いで自宅に上がった佳乃は、袋詰めにされた食料品を冷蔵庫にしまうため、キッチンへと通じるドアに手を掛けようとしたところで動きを止めた。左右に動かすスライド式のドアの開閉具合を見て、彼女は外出前との違いを感じ取ったのである。
それは僅かな変化でしかないが、彼女にとってみれば確たる異変だった。
佳乃には外出前にすることとして、いくつかのルールがある。その一つとして挙げられるのが、キッチンへと通じるドアの開閉具合をセンチ単位、時にはミリ単位で調節し、記憶しておくというものだ。このルールは誰に対しても言及したことはなく、彼女自身しか知らない。
今日、外出する前に、佳乃はドアの開閉具合を1.2ミリに設定していた。これは彼女の小指の横幅の大きさと同等であり、彼女は自らの小指を利用して開閉具合を調節した。
だが今、佳乃の目の前にあるドアは、彼女が設定した開閉具合よりもミリ単位で小さく閉まっているように見える。一見すると元の状態と変化がないようにも見えるが、その極めて僅かな差異を、開き具合を調節した張本人である彼女は感じ取った。
彼女には、このドアを使用した誰かが意識的に元の状態に戻したように思えた。
試しに小指を隙間へ差し込もうとするも、外出前よりも僅かに幅が狭くなっているようで、力で押し込まない限り入らない。
結果を受け、佳乃は辺りを見回した。
当然のように誰の姿も見当たらない。さらに、物音一つしないことが、彼女を却って不審に思わせた。
「……」
一先ずドアを開いて中に入ると、購入したばかりの食料品を入れるために冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中は外出前と変わりがなかった。少なくとも、佳乃が観察した限りでは変化が見られない。キッチンへと通じるドアのように、外出前には自分だけがわかるようにプリンの向きを調節しておいたのだが、動かされた形跡は見られない。おそらくは私に勘付かれることを恐れ、未開封の物には手を着けないようにしたのだろう、と彼女は思う。
相手は事が明るみになることを避けようとしている。であれば、手を着けるとするならば痕跡が残らない物を選ぼうとするだろう。
だが、それは甘い考えだと佳乃は思う。
程度の差はあれども、物質が常に同じ状態を保っていることはない。そこに人間の手が加わったとなれば、必ずや何らかの変化をもたらしているものだ。その変容を見抜けるかどうかが、この場においてある意味勝負の鍵と言える。
そして、佳乃はその鍵をすでに掴んでいるとの自負があった。事前の準備。それこそが彼女に自信を抱かせる一つの要因となっている。
佳乃は食料品を冷蔵庫にしまいながら思考を巡らせた。
未開封の物には手を着けない。それはつまり、手を着けるのであれば開封されたもの、手を着けた痕跡が残り難い物が選ばれるということだろう。
相手にだって知恵がある。安易に悟られるようなことはしていまい。
だが、あくまで痕跡が”残り難い”だ。事を起こした前後で全く同じ状態を保っているということはあり得ない。
買って来た食料品を入れて冷蔵庫のドアを閉めると、佳乃はキッチン下の収納スペースの前に移動した。キッチンにいくつかある収納スペースのうち、引き出し式の収納扉の中には常温保存可能な食料品が納められており、その中にはいくつかの菓子類も含まれている。
佳乃は普段、菓子類を食べる機会がほとんどないものの、この中には開封済みのスナック菓子の袋があることを記憶していた。他ならぬ彼女が買い与えた物であるが、口にすることには制限を与えていた物である。
佳乃は足元を見回すと、身を屈め、床に落ちていた微細な塵を人差し指に貼りつけるようにして拾った。
塵は一辺が一ミリほどの三角形をしている。キッチンペーパーの角を切断して作られた物で、切断面が綺麗な直線なのは彼女がハサミを使って切ったからに他ならない。つまり、人為的に作られた物であって偶然に形作られた物ではないということだ。それが彼女にとって自身が作成した物であることの証左となる。
自分だけにしか判別できないような些細な塵。彼女はこれを、彼女が最後にこの収納スペースを使用した際に、閉じた状態にある引き出し式の扉の上部に僅かな隙間から差し込むようにして乗せておいた。外出前に目視をした際には、まだそこにあったことを彼女は確認している。
そんな塵が床に落ちていたということは、何者かによって引き出しの開閉が行われた可能性が高いと言えるだろう。少なくとも彼女はそう考えた。
引き出しを開けて中の様子を確認する。
これと言って変わった様子はない。開封済みのポテトチップスの袋の位置に特段と変化は見られない。だが、佳乃はそこに神経質な人間による意思を感じずにはいられなかった。
袋を取り出し、開封口に留めていたクリップを外し、中身を確認する。
袋の中がカラということはなく、ポテトチップスは一定の量を保っていた。しかし、彼女の目だけでは正確な増減を把握することはできない。そうした絶妙な量を攻めたようにも思える。
さすがの彼女といえども、ポテトチップスの残りの枚数までは把握していなかった。相手はそこを突いてきたのかもしれない。
だが、彼女は残りの枚数こそ数えていなかったが、事前に量りを使って重さを計測してはいたので、改めて重さを量ることで重量の増減を確かめることはできる。それにより、彼女は袋の中から十五グラム相当のポテトチップスが失われていることを知った。袋に入れた状態の物が時間の経過と共に自然と減ったというにはかなり無理のある数値だろう。
確定だ。
人為的な介入を確信した彼女は、迷いのない足取りで家の中を移動し、ある一室のドアをノックもせずに開けた。すると、中にいた住人が驚いた顔を彼女へと向ける。椅子に座り、机に向かっていたようだが、それは佳乃が現れることを予期して執っていたポーズのようにも見えた。
「どうかした?」
高田川悠次郎は取り繕った顔で言った。
「どうしたもこうしたもない。わかってるんだから」
佳乃は遠慮なく部屋に入ると、机の上に置かれた一枚のプリントを取り上げる。そこには勉強の最中に使用したのであろう消しゴムのカスと、僅かな油汚れが付着していた。
慎重を期してことに及んだつもりなのだろうが、まだまだ甘いな。と佳乃は思う。
「焦っていたのね。手も洗わずに……。私の帰りはもっと遅いと思ってた?」
「そ、それは……」
高田川悠次郎は答えに窮する。だが、その様子だけでも佳乃にとっては十分回答に値した。何しろ彼女には誰よりも高田川悠次郎という男を見てきたという自負がある。
「ご飯の前にお菓子を食べちゃだめだってあれほど言ったでしょ!」
佳乃が叱責すると、高田川悠次郎はしおらしく下を向いてしまった。
今年だけでもだいぶ身長が伸び、少し大人びてきてはいるが、こうして見るとまだまだ子供で、叱りつけながらも佳乃は微笑ましく思った。
「ゴ、ゴメンなさい……。お母さん」