トマトとベーコンのパニーニ

文字数 1,564文字

スカスカになった本棚の一段にボディクリームのボトルひとつだけ。
それだけでようやく大人になれつつある気がする。

というのもやはり、これまで本棚に対して本を置くこと以外の役割を認めていなかったからで、どうにか工夫して多すぎる書籍を詰め込んでしまおうとか、この本棚を埋めるだけの本を買い集めてやろう、とか、とにかく埋めることに躍起になっていた。
蒐集家の性なのか男性性の衝動にまつわるものなのかは分からないが、いずれにせよ埋めようとする行為に余裕がないことは確かだ。余裕を奪う行為には余裕がない。

いま役割の窮屈から解放され、白いクリームと対をなすブラウンの地肌を見せている本棚の姿はとても清々しく魅力的で、願わくば新居でもこれくらいの密度でいさせてあげたいと思う。

ほらまた、今度は「これくらいの密度」を要求している。「いさせてあげたい」とか言っている。難しい。そもそも本棚は紛うことなき俺の所有物なので、人の倫理を持ち込むとわけの分からないことになるけど…。

こうであれと押し付けるのはよくない、逆になんでもかんでも受け入れるのも違う。バランスに注意してうまく折り合いをつけながら、ちょうどいい密度を見つけるのが大事だ。
そういうことが思い浮かぶようになっただけで、これから少しは人間関係がうまくいく気がする。


こうでないといけない、こうすべきだ、そんな思い込みから脱することは難しいけど、改革はしょうもないところから始めたっていい。いきなり丸ごと変える必要はない。現代のいろんなことは劇的な効果を急ぎすぎている。


しょうもないところでの、思い込みからの脱却。例えば昨夜思ったこと。
「引っ越し前最後の日曜日は、近所の商店街にある行きつけの店で食事をするべきだ」
しょうもない…。「最後の晩餐は、実家でおかんの味噌汁を飲みたい」のグレードダウン&押し付け版だ。

商店街を散歩しながら思い出をくすぐられたり、行きそびれたことを後悔している店があるならいいが、気分じゃないのに理屈が先行して店に入ったり「ところで俺にとって行きつけとは何回目からだ…?」と迷路に入り始めたら最悪だ。

「すべきだ」に縛られて思い出を捻り出すことはしたくない。そもそも2年住んだ建物すら未だに自分の部屋がわからなくて立ち尽くすことがある俺に行きつけなんて概念はない。


そういうわけで近所のスーパーにパンを買いに行った。
近所にあるにもかかわらず行き方がさっぱり分からず、5月末時点では2年間で2回しか目にすることのなかったスーパー。
そのスーパーを題材に日記を書いてから2週間と少し、今はもう迷うことなく一直線に向かうことができる。

えらいもので、と思う。
えらいものでこの2週間、変わり映えなさげな繰り返しの中でも、近所のスーパーまで迷わず行けるようになっている。それもなんとなく気付いたら。
「もう引っ越すのだからこの街で得た生活を大切にすべきだ」と過ごし方を決めつけてしまうのではなく、「なんとしてでも最後にひと花咲かせてやろう」と劇的な方向へ舵を切るでもなく、「今日はここを右に曲がってみよう」くらいの変化が、いつの間にか大きな進歩になっていたりする。

そしてその些細さを愛でる。バタフライエフェクトとも呼べない、近所エフェクト。



いつものないやん。なにこれ、おとうさんのひげパン?ああ、父の日か。
横断歩道で花束持ったおじさんがいたけど、その隣で腕にフクロウを乗せたおっさんが経っていて、信号が変わると同時にフクロウが地面にうんこぶちまけたもんやから、鳥がそんな低い位置でうんこをしていることに気を取られて、花束のおじさんにまで意識が行き渡らんかったな。

あったあった。トマトとベーコンのパニーニ。これだけは譲れへん。
あとやっぱり気になるから、おとうさんのひげパン。
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