透明人間、現れて

文字数 10,715文字

「おまえはいつも人を信用しないよなあ」
 自虐的な言葉とは裏腹に、友人はからからと笑う。薄暗い照明で客もまばらな喫茶店にはふさわしくない、気持ちのいい笑い方だった。
 埃をかぶった漫画本、一つ前の元号で止まったカレンダー、日に焼けたポスター、黒ずんだ床。そういうじめっとした性分は、僕にお似合いだった。他人を色眼鏡で見たり、根っこから疑ってみるのは得意だ。
 今もそうだ。友人が久しぶりに連絡をくれた同級生についてうれしそうに話していたのを「それ、なんかの勧誘目的だろ」と、僕はぶった切った。疎遠になったと思っていた関係を、急につなぎとめようとする理由なんてそれしかない。僕はあくまで本気なのだが、友人はきつめの冗談だとでも思っているのか気にせず笑いとばしている。
 訝しむこと。なんの自慢にもならないが、しかしその実、社交的でちやほやされるのは友人ではなく僕のほうなのだから人生は不思議だ。それも大人になればなるほど顕著になった。
 皆、社会に揉まれれば、どうしたってリアリズムになりがちだ。暗い未来を見据えて生きていくには、友人の呑気さよりも僕の冷めた視点のほうが重要になるらしい。
「うーわ、ゲッツーかよ。マジかあ」
 黴臭い内装で、テレビだけは最新の薄型だった。唐突に未来から持ちこまれたアイテムのように浮いている。そのくせ映しているのは、見慣れたナイターの光景だった。
 プロ野球の試合はいついかなるときもやっている気がする。オフシーズンなんて本当に存在するのだろうか。スポーツにまるで明るくないくせに、僕はそんなところにも懐疑的だった。
「すげえピッチャー調子いいなあ。角松かあ。あいつはやっぱいい選手だよなあ」
 友人は応援しているチーム……ではなく相手チームの投手を褒めたたえる。そういう楽観的な、こだわりのない明るさこそ大人には必要だと思うのだが、友人は薄型テレビのように常に浮いた存在で、ついでに浮いた話も一切なかった。彼を受けいれられない社会の未来はそりゃあ暗いだろう。つまりは僕の未来も暗いのだろう。どうせ皆、暗いのだ。諦観こそ実は楽観的なのだ。
「お待たせしました」
 禿げあがったマスターの頭は明るい。てかてかと輝きを放っている。友人はにこにこしながらクリームソーダを受けとったが、マスターが僕にコーヒーを置いて去ろうとすると唇をとがらせた。
「ちょっとちょっと、カフェオレは?」
「へ? あ、本当に要るんですか」
「注文したんだから当たり前じゃない。コーヒー一つ、クリームソーダ一つ、カフェオレ一つって言ったよね」
「へえ、言いましたね……そうですか、ははあ。すみません、すぐお持ちします」
「頼むよー」
 友人はへらっと笑い、つられてマスターも笑みをこぼす。この軽妙なノリのおかげで、彼はクレーマーには決してならない。どれだけへんてこな注文をつけても、だ。
「すみませんでした、カフェオレです」
「ありがとう」
 友人はきちんとお礼を言える人間だし、隣の空席にカフェオレをそっと置いたとしても、さして問題はない。きっとこいつは二杯飲んで腹をがばがばにするのだな、と目を細めて退場するマスターはそう判断しておくのが正しいだろう。
 しかし残された僕はそうはいかない。友人は空席に向かって「よかったね」「クリームソーダも一口どう?」と話しかけているのだ。テレビに向かってつぶやいていた独り言も、実はずっとなにもない空間へ同調を求めていた。角松という投手の偉大さについて。
「いい店だなあ。おまえにしては小汚いけど」
「失礼だろ」
「悪い悪い。いや、本当落ちつくよ。こじゃれた真っ白なカフェとかだったらどうしようってビビってたもん、俺。メニュー見てもフランス語ばっかで読めなかったらどうしよう、とかさ」
「どんな心配だよ」
「俺は小市民なの。いっつもラーメン屋か定食屋か安心のチェーン店しか行かないもん。ああいうわかりやすい味が好きなんだよなあ。結局それが一番美味いもんなあ?」
 友人は隣に向かって話しかける。僕はコーヒーをすすった。ふちの欠けたカップを使ってはいるが、ここのコーヒーは雑味がなくてクリアだ。美味い。そして苦い。
「……で、今日はなんの用事?」
 僕が何気ないふうを装って切りだすと、友人は急にもじもじくねくねと体をよじらせた。率直に気持ち悪い。が、これは友人の通常運転だ。感情表現が豊かすぎるのが、彼のえくぼをあばたにしている。
「いや、まあ……おまえも意地が悪いなあ」
「それはわかってる」
「じゃなくてさあ、もう言わせるなよ」
「言わなきゃわかんないけど」
「いや、わかるだろ~」
「エスパーかよ。わかんないよ」
「おまえはほんっとなあ、そういうやつだよなあ」
「どういうやつだよ」
「そういうやつだよ。わかるだろ」
 埒が明かない。この不毛なやりとりさえも、友人はずっとにたにたと笑ってうれしそうである。少しイラッとする。咳払いをしてごまかす。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ……男らしく」
 性別でくくるような言い回しは好きじゃないが、単細胞な友人には昔ながらの常套句がことさら刺さるらしい。男らしく、というワードを聞いた瞬間、軟体動物であった彼は突如背筋を伸ばし、脊椎動物としての威厳を取りもどしたようだった。差別的な表現というのは、時に魔法の言葉となる。誰かの心に深く根を張っていて、無意識のうちに自由自在に操れるのだ。
 友人もわざとらしく咳払いをした。「えー」と前置きするのも、僕らに根深い定型表現だ。なんの意味もないワンクッション。それなのに伝統のように誰もが使う。そのまま本日はお日柄もよく……なんて続けられそうなほど、友人はかしこまっている。
「彼女ができましたっ! そのご報告でありますっ!」
 鼻息荒く、顔を真っ赤にして唾を飛ばす友人は、そのまま敬礼でもしそうな勢いだ。上官か、僕は。いや、おまえの親か、僕は。
「へー。そりゃよかった」
「リアクション薄っ!」
「おめでとう」
「ありがと……くそっ、なんだよ。おまえはモテるから彼女なんて何人もいるんだろうけどよ」
「失礼だろ。彼女が途絶えたことはあんまりないけど、同時に複数と付きあったこともないよ」
「自慢かよおおお」
「とにかくおめでとう」
「ありがとおおおお。真っ先に報告したくてさあ」
「暑苦しいな」
「おまえの温度が低いんだよ!」
「で、どんな子?」
「どんな子って……そんなのここで言えないだろ」
「なんでだよ」
「いや、恥ずかしいだろ」
「ここで恥ずかしかったらどこで言うんだよ」
「彼女がいないとこでならいくらでもっ!」
 友人は破顔した。きっと彼ならばどんな場面においても、彼女を悪く言うことはないだろう。褒めちぎり、称え、崇め奉るに違いない。友人の屈託のない愛情深さはよく知っている。しかし、問題はそこじゃない。
「……今、いないから言えるだろ」
「はあ? めっちゃいるだろ。ここにいるだろ。存在感半端ないだろ。からかうなよ、頼むからあ」
 友人は再び軟体動物と化した。うねうねくにゃくにゃする様は、率直にやはり気持ち悪い。
 軽く眉間を揉んだ。僕は地方ラジオ局で営業を勤めている。ラジオは下火で、スポンサーの新規開拓どころか、ずっと付きあいのある顧客をつなぎとめるだけでも精いっぱいだ。来月から同期の女性社員が一人産休に入る。なのに欠員補充はされないまま、売上は上げろとお達しがくる。文字どおり目の回るような忙しさが続いている。
 土日もイベント業務でつぶれることが多いので、今日は本当に貴重且つ久しぶりの休日だった。そんな日に気の置けない友人と会って、馬鹿話に花を咲かせる心積もりだった。
 しかし今、僕の疲労はついにピークに達しているのかもしれない。友人の彼女が見えないなんて、疲れ目かすみ目にも程がある。そろそろ労働組合にでも入るべきなのだろうか。組合新聞を作って、デモに参加して、アンケート収集して。このうえ、そんな雑務に追われたら本末転倒な気がするが。いや、ここはそろそろ真剣に転職を考えるべきときがきたのかもしれない……。
「ま、ま、照れくさいけどさあ、見てのとおりかわいいし。俺、ショートヘア好きじゃん? で、色白ときたら、もうどストライクよ。でもこんなに細いのにスポーツ好きでさあ、このまえ一緒に野球観戦も行ったとこなんだよ。趣味が合うんだよな、趣味が」
 やっぱり僕じゃなくて、真剣に友人を心配したほうがいいのかもしれない。何度目をこすっても、何度まばたきを繰りかえしても、何度心を落ちつかせて彼を純粋に祝う気持ちに集中しても、僕の目に自慢の彼女は映らない。隣はぽっかり空席のままだ。
 友人は幸せいっぱいに、なにもない空間を神聖な領域のように称えているのだ。大事なものは目に見えない、というような名言が確かあったが、彼女は目に見えなくてはならない。絶対に。
「彼女ってさ」
 そこで僕は言葉を切った。いったい、なんと続けるのが正しいのか。
 記念日を忘れても絶対に態度に出さない。花なんて、と思っても意外にプレゼントとしてウケる。小さなおそろいなら積極的にしてみせる。疲れたは禁句。面倒くさいも禁句。家でよくない?はもっと禁句。
 恋愛におけるルールならある程度うんちくがあるのに、ピュアな友人を傷つけずに済む方法を僕は持ちあわせていない。いや、そもそもルールを守っても、どの恋愛も今日まで続いていないのだ。僕は結局、なんの正しさも携えていない。
「彼女ってさ……なんだよ~?」
 この無邪気な友人に時折腹が立つこともあるが、僕にはまぶしい存在なのだ。真っ直ぐで屈託がない。ついついからかいたくなってしまうが、誰よりも信頼できるし、ずっと付きあっていけると思っている。口には決して出さないが、僕にとっては唯一無二の親友である。
 友人はあめ玉を待ちつづける子どものように、きらきらと目を輝かせている。瞳の中の小さな宇宙は、僕を捕らえて離さない。
「……透明感あるよな」
 だから言えない。彼女ってさ、どこにいるの。彼女ってさ、本当はいないんだろ。彼女ってさ、嘘なんだよな。言えるわけがないのだ、そんな残酷なことは。正論は常に残酷だ。
 通勤に利用するバスで、必ず出会う腰の折れた婆さんがいる。その婆さんは二人掛けの座席を堂々と独占している。ボロボロの人形を隣に置いているのだ。そして愛おしそうに絶えず話しかけている。 あらあらごきげんななめ? おなかすいた? おばあちゃんにもひとつちょうだいね。
 そんな婆さんに言えるだろうか。座りたいんですけど。そこ空けてもらえませんか。それ人形ですよね。言えるわけがないのだ。もはや残酷さ以上に危険性をはらんでいるのだから。真摯な愛情は常に狂気的だ。
「さすが! わかってる! そうなんだよ、透明感。俺、阿呆だからさあ、そういううまい表現が思いつかないんだよなあ。透明感あるってよ。うれしいよなあ」
 友人はなにもない空間に笑いかけ、はしゃいでいる。便利な言葉があってよかった。透明感というパワーワードを作ってくれた先人に心よりお礼を申しあげたい。
 マスターがやってきて、グラスに水を注いでくれる。「ありがとう」とやたら陽気な友人にあてられて、マスターもなんだかにやけ顔である。一向に減らないカフェオレを見て、こいつの腹はすでにがばがばなのだ、とほくそ笑んでいるのかもしれない。
 勢いよく注がれた水が跳ねる。僕のシャツに染みをつくるが、無色透明な水滴は乾けば跡形もない。マスターはテレビを消してラジオをつけた。残念ながら選局されたのは僕の勤務先ではない。全国ネットのFM放送局だ。こっそりと唇をかむ。おしゃれなジングルが鳴りひびく。知らないスポンサーのCMがばんばか流れる。声を聴いただけで顔が浮かぶ華やかな有名人がしゃべっている。
 この店には僕の勤務先のほうが似合っていると思うのだが……というのは失礼であるし自虐的でもある。主なリスナーは高齢層。パーソナリティも高齢層。完全地元密着型。親しみがあるといえば聞こえはいいが、距離感を間違えた困ったリスナーもたくさんいる。先日もアナウンサーに文句を言うためだけに、玄関口で待ちぶせていた爺さんに手を焼かされたものだ。うっかり「どうしましたか」なんて声をかければ最後。何時間でも絡みつづけられる。
 僕は苦々しい思いで、コーヒーを一気に飲みほした。飲みほしてから、なにもない空間に向かって盛大にこぼしてやればよかった、と思いいたった。手のつけられていないカフェオレのカップを小突いてやろうか。
「実は彼女、透子っていうんだ。透明な子で透子。すっげえ偶然だよなあ。俺は透子って呼んでるよ。最初、とうちゃんにしようかって言ったけど、親父みたいに聞こえるもんなあ。発音むずいよなあ。とうちゃん。今どっちだかわかる? とうちゃん。これは? とうちゃーん。やべえ、俺もどっちだかわかんなくなってきた。とうちゃん、とうちゃーんって、ふっはははははは」
 友人は笑いを自給自足できる才能がある。僕はスローライフには程遠く、誰かに施しを受けてもくすりとも笑えないことが多い。自社制作のラジオには芸人も数多く出演しているが、どれを聴いても僕の口角が自然に上がることはなかった。腹を抱えて笑いころげるという体験に、三十年近くずっとあこがれている。
「いやー、キラキラネームならぬスケスケネームだなあ。うははははは」
 おまけに友人は時間をも止められるのだ。凍りつくくらい一つも面白くないことを友人は嬉々として話しつづけるが、僕は早々にリアクションをあきらめる。せっかくの休日なのに、結局疲れてしまっている。笑いころげるのも、上手に休むのも立派な才能だと思う。
 透明な彼女――透子がいるほうを見やる。こんな友人をどういう表情で見守っている設定なのだろうか。どこまで人格は形成されているのだろうか。友人と一緒に笑っていたりするのだろうか、腹を抱えて。
 ――今月のプッシュナンバーです! 土野小波さんで『遠目で透明』!
 地方局ではなかなかお耳にかかれない、最新且つアングラな曲を掘りおこす。これもまた全国ネットのキー局の力。甲高い声だが毒のある歌詞。軽快さに潜むベースの重低音。異様な転調。不穏な雑音。僕は自局で流せない悔しさを噛みしめながら、それでも複雑なリズムに思わず踵を鳴らしていた。油でべたつく床を何度も踏みならす。
「え、透子、この曲好きなの?」
 友人が目を丸くしている。僕も忙しなく動かしていた足を止め、なにもない空間を凝視する。
「マジでえ。俺、土野小波なんて歌手知らないわ。は? 元フルフルカラーズのボーカル? いや、まずそんなバンド聞いたことないって。透子すげえなあ。音楽詳しいんだなあ」
 僕は「フルフルカラーズ!」と思いきり叫んでしまった。友人は当然「うおうっ」と驚き、店内のまばらな客や禿げたマスターも一瞬こちらに注目する。透子はどうだかわからない。
「な、なんだよ。びっくりするだろ」
「ふ、ふ、ふ……」
「不気味な笑い方すんなよ」
「ふ、フルフルカラーズって……」
「は? なに、知ってんの?」
「知ってるもなにも! 伝説のバンドだよ! インディーズでチケットもCDも手売りだったけど即完売、アルバム出したと思ったら二枚目で即解散。地方のライブハウスしか回らないから、コアなファンしかいなかったけど、正直あのバンドを超えるバンドはまだ僕の中では現れてない……」
「めずらしいなあ、おまえが興奮するなんて。そんなすげえバンドなんだあ。俺、全然音楽聴かないからなあ」
 僕は二重の意味で興奮していた。土野小波について、フルフルカラーズについて語る機会が訪れようとは思ってもみなかったのだ。僕の周りに共通の音楽の趣味を持つ人間はいない。名前くらいなら知ってる、が関の山だ。そのレベルで弁を振るうには、僕の熱は高すぎる。
 そしてその語れるやもしれない相手が、よもや透明だとはさらに思ってもみなかった。ついさっきまで友人を警戒していた僕だったが、雲行きは変わっている。猜疑心であふれていた僕の胸に、一筋の光が差す。
 もしかして、本当に透子はいるのかもしれない。
「ふ、フルフルカラーズの一番好きな曲ってなに?」
「え? なんで俺に聞くんだよ。俺、知らないって」
「いや、彼女に聞いてみて」
「いやいや、この距離で伝言ゲームやる必要ないだろ。つーか、普通に聞こえてるし。え? 補色人生? わけわかんねえタイトルだなあ」
 補色人生! 僕は再び叫びそうになるところを、すんでのところでこらえた。
 ファーストアルバムの六曲目。アンニュイなムードがくせになる至極の一曲。フルフルカラーズの中でもチャレンジングなメロディラインで、ファンの中でも意見が真っ二つに分かれている。僕は肯定派だ。呪詛のようにつぶやきつづける歌詞もまたいい。あれを飲み会後のカラオケで歌ってやれたら、どれだけ痛快だろう。残念ながら、フルフルカラーズの曲は一つもカラオケに登録されていないけれど。
 唾をごくりと飲みこむ。この友人から、補色人生という単語が出てくるなんて想像がつかない。僕がフルフルカラーズを好きだということくらいは伝えていたかもしれないが、そこで関心を示すようなタイプではない。そしてフルフルカラーズを調べたところで、情報量は極端に少ない。そういう意味でも伝説のバンドなのだ。
「……だよ」
「え?」
「おまえはなんていう曲が好きかって、透子聞いてんじゃん。自分の世界入りこむなよなあ」
 おまえには言われたくないよ、という言葉もすんでのところでこらえた。友人の隣席を見つめ、なけなしの想像力を使って、ぼんやりとした輪郭を描いてみる。細身の華奢な女性のラインが少しだけ浮かびあがってくるようだった。
「……インビジブルーマンデー」
「はあ、またよくわかんねえタイトルだなあ。え? へー、結構な王道ロックなのかあ。おまえのイメージじゃないよなあ」
 インビジブルーマンデーが王道ロックだと知っている! 僕は叫ぶかわりにのけぞった。のち、勢いよくテーブルに肘をつき、頭を抱えた。がしゃん、とグラスやカップが揺れる。「危ねえじゃん」と、友人はあわてて隣のカフェオレを支える。「大丈夫?」という言葉も添えて。僕はさらに天を仰いだ。「落ちつけよ」と注意されたが気にしない。
 知られざるバンドだが、それでも曲名くらいは調べればヒットするかもしれない。しかし、その曲を聴くことはCDを購入した人間にしか叶わない。貴重な音源を入手したファンたちは、後生大事にそれを守りぬき、動画としてアップするなどということは断じてしない。そのくらい音楽に対して真摯さを貫く。マナーを遵守する。もちろん僕もその一人だ。フルフルカラーズのファンでいることは誇らしかった。
 僕が感慨にふけっていると、友人ののんきな声がさえぎってくる。
「じゃあ、おまえ、この土野小波って子も好きなんだ?」
 今月のプッシュナンバーが味わい深い余韻を残し、フェードアウトする。友人はほんの軽い気持ちで尋ねたであろう。しかし、もう遅い。僕の最深部で眠っていた魂に火が灯った。線香花火程度にパッパッと散らしていた花が、あちこちに飛びはねて大輪を咲かせる。
「好き……というと語弊がある。フルフルカラーズ時代のファンからすれば、アイドル路線も入っている今の彼女を受けいれられないっていう人が多数派なんだ。実際、見た目はバンドやってたころと全然違う。ビジュアル重視かよって揶揄されそうだけど、それも音楽性を位置づける一つだと僕は思ってる。だから、そういう人の気持ちも全然理解できる。理解できるよ。でも、そのうえでやっぱり気になる存在なんだ。路線は違えど、あの唯一無二の声や不可解なアレンジなんかは、もうどうしてもフルフルカラーズを彷彿とさせてるじゃん、ってなるわけですよ。特に今流れた新曲『遠目で透明』なんかまさにそうじゃん、ってなるわけですよ。もっと言えば、フルフルカラーズのときの荒削りさはないけど、より洗練されて進化しているんですよ。土野小波は時流に合った、それでいて自分の音楽を常に探求しているんです。MCをほとんどしないっていうスタンスもずっと変わってないし。変わりながらも、大事な部分は変えない。簡単なようでいて、それはすごく難しい。僕は音楽と真摯に向きあう土野小波を、表立ってじゃなくても陰ながら応援したいんです。ファンの静かな熱い思いは、きっと彼女に届くと思うから。そういう支え方を、彼女も望んでいると思うから。僕は土野小波を好き嫌いの次元じゃなく、非常に尊い存在だと思っているんです」
「……なんで敬語?」
 あっけに取られたらしい友人がしぼりだした言葉はそれだった。やはりこいつに土野小波の偉大さを語っても、一ミリも伝わっていない。僕は透子を見た。ぼやけていた輪郭が、徐々に熱を帯びていくようだった。
「透子さんは、どう思われますか」
 僕の眼光の鋭さに、友人がたじろいだ。それも仕方ないだろう。この熱量を友人に見せたのは、多分初めてだ。いや、自分自身も手綱が引けず驚いている。暴れくるう獅子のようだ。体中の血がぼこぼこと湧きたっているようだ。もう止められない。止めようとも思わない。
「いや、おまえ、ちょっと落ちつけよ。怖えよ」
「透子さんは、どう思われますか」
 なだめようとしてくる友人を、僕は全力でスルーした。こんな話ができる機会はめったにないのだ。もはや友人は邪魔でしかない。僕は、彼女の思いを、彼女の言葉で聞きたい。
 ――そうですね。今回の曲は特に、フルフルカラーズ時代と重なる部分があると思います。
 聞こえた! 透子の声が僕の鼓膜を確かに震わせた! 
 幻聴ではない。少し甲高いけど落ちついた口調。しかも僕と同じ見解を示してくれている。僕は思わず前のめりになった。視界の隅で友人が制しようとしてくるが、無視。さらに続きを促す。
――でも、それを快く思わない人もいるでしょうね。やっぱり受けとめ方は人それぞれなので。ただ、私はフルフルカラーズ時代を越えたからこその土野小波を見てほしいと思います。あくまで私の意見ですけど。変化や進化を怖がらずに、その過程を通ってきたなら、きっと新しい世界が開けると信じています。
 僕は身を乗りだして、透子に握手を求めた。「おいおいおい」と友人がさえぎってくるが、本当はかまわずハグしてやりたいくらいだ。求めていた同志が今ここにいる。しかも僕が言語化できなかった思いまで、きちんと表現してくれている。透子のトーンは落ちついてはいるが、実は熱い思いが潜んでいるのがひしひしと伝わってくる。僕にはわかる。
「透子さん、僕も同じ気持ちです。そう、そうなんですよ。皆、過去の栄光や既成概念にとらわれがちなんですよね。変化も進化も悪いことじゃない。むしろそれを続けていかないと、慣れきって刺激がなくなってしまいますよね。あらゆる新しいことを受けいれていく姿勢は、僕らファンこそ持つべきものなのかもしれない」
「おい、落ちつけって。顔怖えって」
「透子さん、僕は今感動しています。正直……この友人はバカで単純で空気も読めない」
「いや、なんで俺、急に悪口言われてんの?」
「でも透子さん、あなたのような聡明な方とお付きあいできるなんて、もしかしたらこの友人は言うほどバカじゃないのかもしれない。パートナーを見る目だけはあったのかもしれない。あなたがなぜ、この友人を選んだのかは心底謎めいてますし理解できませんが、今日あなたとお会いできて僕は本当に光栄です」
「ひたすら失礼なやつだなあ」
「むしろ……運命すら感じています」
「は?」
 僕の胸にこみあげるものがあった。熱く純粋で、ひどく懐かしい感情。恋が途切れることはなかったが、この気持ちとはずいぶんご無沙汰だった。
 僕はいつもどこか冷めていた。相手と適当な距離を保って、時には見下すような態度もとってきたかもしれない。相手にも、相手との関係にも敬意がなかった。いつもどこか他人事だった。今、心からそんな自分を恥じる。
「透子さん、あなたのことをもっと……もっと知りたいです」
「こらこらこら」
「あなたにも僕のことを知ってもらいたいです」
「なに言ってんだあ、おまえ」
 僕は友人に視線をもどす。情けない顔をした彼に一瞬だけ同情が湧く。しかし、もう引きかえせない。「ごめん」と頭を下げて、真っ直ぐに友人と対峙する。
「おまえの彼女なのに……本当にごめん。でも、自分の気持ちに嘘はつけない」
「はああ? 冗談やめてくれよ」
「申し訳ない。本当に本当にごめん」
「おまえ、どうしちゃったんだよう」
 ――嫌なことは毎日山積み。仕事に健康、人間関係。消えたいなーって思うとき、ありませんか?
 聴いたことのないスポンサーのCM。きっと大手なんだろう。全国に支社があるような。制作費用を惜しまないような。求人の理由は常に増員であるような。
 僕が足しげく通う、個人商店みたいな規模ではないのだろう。何度催促しても一向に支払いがなされないような。一円単位で交渉するような。職人気質だけはありあまっているような。
「僕は透子さんとお付きあいしたい」
「うおおい、なんでそうなるんだよ」
 ――相手の顔色うかがうまえに、誰かと諍い起こすまえに、スケルトンカンパニーのマスト・スケル! 今なら無料トライアル期間中!
「透子さん、透子さんはどう思いますか」
「おまえ、やめろよ。やめてくれって!」
 手つかずのグラスの中で、溶けかけた氷がカラン、と美しい音を立てた。

「すみません、もうおさげしてよろしいでしょうか……って、あれ、お客さん、一人でしたっけ」
 マスターが禿げ頭をかきながら、首をかしげる。ラジオからは最新のヒットナンバーが流れている。やたらと甘ったるいラブソング。まだまだこういうものが、わかりやすく流行るらしい。いや、わかりやすいものだからこそ、流行るのだろう。
「はい」
 水を飲んで喉を潤してから、そう短く答えた。
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