第1話
文字数 1,911文字
「起きろ、この怠け者!!」
そんな怒声と共にわき腹に鋭い痛みが走る。
目を開けると、頭にタオルをかぶった一美が呆れたように俺を見下ろしていた。
わき腹に残る鈍い痛みは、一美が俺を蹴りつけたことを示していた。いつものことだが。
「もっと優しく起こしてくれりゃいいものを」
小声で呟きつつ上半身を起こす。時計を見ると、一時前だった。もちろん午後の。
「優しさは有限です」
「限りある資源を恋人に」
俺の言葉に、一美は思い切り嫌そうに顔をしかめた。
何も言わずキッチンへと移動した一美は、何事もなかったように冷蔵庫を開けた。
もちろん俺は何か断りを受けた覚えはない。
「チッ、ビール一本しかないのか」
挙句に舌打ちときた。
かしゅっと心地よい音。それからごくごくと美味そうに喉を鳴らす音がした。
「飲むんかい」
「ビールがあって、飲まない理由がどこに? 雨に濡れた恋人に昼酒を飲むなと?」
なんてまっすぐな目だ。俺は雨に濡れた恋人と昼酒がつながらなくて沈黙した。
というか、雨が降っているのか。一美がタオルをかぶっていたのは、濡れた髪を拭いていたんだな。
缶ビール片手に部屋に戻ってきた一美は、布団の上に平然と腰を下ろした。
一美と俺は付き合って三年ほどになる。かつて、僕は小説家を目指し、彼女は劇団員として舞台に打ち込んでいた。一年前に僕は夢を諦め、サラリーマンとして働き始めた。一美はまだ劇団員として頑張っている。少しずつでも名前は売れてきているらしい。あくまで彼女の談だが。
彼女は相変わらずかつかつの生活を送っているが、僕の生活は安定した。あの時の選択を間違っていなかった、と僕は思っている。
「なぁ?」
顔を洗い終え、タオルで顔を拭いていた俺に一美が呼びかけてくる。
「何?」
「最近さ、小説書いてないの?」
「書いてないよ」
「書かないの?」
「忙しいからなぁ」
「……そう」
ふう、と小さくため息。それから一美は窓の外へと視線を逸らした。つられてみた先には濡れたガラス窓と鉛色の空が見えた。
「あのさ……」
不意に一美が口を開いた。
「ん?」
「つまみ無いの」
「無いなぁ」
「ふぅん」
一美がビールを飲む音が聞こえる。
まるで夜の暗さ。ふと、今と言うものが分からないような錯覚を覚えた。
沈黙が永遠のように思いかけたその時、パキリとアルミ缶がへこむ音が部屋に響いた。
缶ビールを飲み終わった時に、一美がやるクセだ。
「私、上京するわ」
一美は少し力を込めた声でそう言った。
「上京?」
「そう、東京に行くの」
「なんで? 知名度出てきたんじゃなかったのか?」
正直な疑問。いつの間にか俺と一美は見つめあっていた。
「そうなんだけどさ……このままじゃ頭打ちだねって話になってね……」
「東京に行けば上手く行くって?」
「さあね。でも、いろいろ考えたの。でもやっぱり諦めたくないなって」
「……そうか」
「だからまあ、今日でお別れかな」
「そっか……そうだな」
これ以外に言葉が見つからなかった。
「あんたの書く小説、好きだったけどね……」
一美はそう言って笑った。
「ありがとう。今更だけど」
俺も笑うしかなかった。
一美は立ち上がる。玄関に向かう一美の背中を見ながら、俺も立ち上がった。
玄関のドアノブに手をかけ、彼女はゆっくりとそれを押してドアを開けた。
湿気の匂いと、重たい空気と、雨の音が部屋の中に流れ込んできた。
「一美」
俺は振り返って、ドアの向こうに行こうとしていた一美の背中に呼びかける。
「ん?」
足を止め、一美は顔だけで振り返った。
「傘、差していけよ」
「いいよ、返せないし」
「やるよ、餞別だ」
言いながら、俺は玄関に近づき脇に立ててあった傘を手にとって一美のほうに差し出した。
少し迷うような顔をして、それから一美は笑って傘を持つ手を押し戻した。
「やっぱいい」
だろうな、と思いつつ、俺は素直にその手を引っ込めた。
「じゃあね」
その言葉を最後に、一美は今度こそドアの向こうへと出て行った。ドアが閉まると、雨音も急に小さくなる。一美の足音ももう聞こえない。
俺は傘立てに傘を戻し、それからため息を一つついた。
それは安どのため息だ。
夢を追いかけ続ける彼女に大して抱いていた黒い感情。
嫉妬だとか、劣等感だとか、その他もろもろいろんなものが俺の心にはいた。
それを一美にぶつけることが間違いだと言うのはわかっている。だからしなかった。
だが、一人で抱えきれる重さでもなくなっていて、俺自身いつか押しつぶされるのではないかと恐れていたのだ。
久し振りにゆっくり眠れるような気がして、俺は改めて布団の中に潜り込んだ。
きっとすぐに眠れる。夢もきっと見ないだろう。
そんな怒声と共にわき腹に鋭い痛みが走る。
目を開けると、頭にタオルをかぶった一美が呆れたように俺を見下ろしていた。
わき腹に残る鈍い痛みは、一美が俺を蹴りつけたことを示していた。いつものことだが。
「もっと優しく起こしてくれりゃいいものを」
小声で呟きつつ上半身を起こす。時計を見ると、一時前だった。もちろん午後の。
「優しさは有限です」
「限りある資源を恋人に」
俺の言葉に、一美は思い切り嫌そうに顔をしかめた。
何も言わずキッチンへと移動した一美は、何事もなかったように冷蔵庫を開けた。
もちろん俺は何か断りを受けた覚えはない。
「チッ、ビール一本しかないのか」
挙句に舌打ちときた。
かしゅっと心地よい音。それからごくごくと美味そうに喉を鳴らす音がした。
「飲むんかい」
「ビールがあって、飲まない理由がどこに? 雨に濡れた恋人に昼酒を飲むなと?」
なんてまっすぐな目だ。俺は雨に濡れた恋人と昼酒がつながらなくて沈黙した。
というか、雨が降っているのか。一美がタオルをかぶっていたのは、濡れた髪を拭いていたんだな。
缶ビール片手に部屋に戻ってきた一美は、布団の上に平然と腰を下ろした。
一美と俺は付き合って三年ほどになる。かつて、僕は小説家を目指し、彼女は劇団員として舞台に打ち込んでいた。一年前に僕は夢を諦め、サラリーマンとして働き始めた。一美はまだ劇団員として頑張っている。少しずつでも名前は売れてきているらしい。あくまで彼女の談だが。
彼女は相変わらずかつかつの生活を送っているが、僕の生活は安定した。あの時の選択を間違っていなかった、と僕は思っている。
「なぁ?」
顔を洗い終え、タオルで顔を拭いていた俺に一美が呼びかけてくる。
「何?」
「最近さ、小説書いてないの?」
「書いてないよ」
「書かないの?」
「忙しいからなぁ」
「……そう」
ふう、と小さくため息。それから一美は窓の外へと視線を逸らした。つられてみた先には濡れたガラス窓と鉛色の空が見えた。
「あのさ……」
不意に一美が口を開いた。
「ん?」
「つまみ無いの」
「無いなぁ」
「ふぅん」
一美がビールを飲む音が聞こえる。
まるで夜の暗さ。ふと、今と言うものが分からないような錯覚を覚えた。
沈黙が永遠のように思いかけたその時、パキリとアルミ缶がへこむ音が部屋に響いた。
缶ビールを飲み終わった時に、一美がやるクセだ。
「私、上京するわ」
一美は少し力を込めた声でそう言った。
「上京?」
「そう、東京に行くの」
「なんで? 知名度出てきたんじゃなかったのか?」
正直な疑問。いつの間にか俺と一美は見つめあっていた。
「そうなんだけどさ……このままじゃ頭打ちだねって話になってね……」
「東京に行けば上手く行くって?」
「さあね。でも、いろいろ考えたの。でもやっぱり諦めたくないなって」
「……そうか」
「だからまあ、今日でお別れかな」
「そっか……そうだな」
これ以外に言葉が見つからなかった。
「あんたの書く小説、好きだったけどね……」
一美はそう言って笑った。
「ありがとう。今更だけど」
俺も笑うしかなかった。
一美は立ち上がる。玄関に向かう一美の背中を見ながら、俺も立ち上がった。
玄関のドアノブに手をかけ、彼女はゆっくりとそれを押してドアを開けた。
湿気の匂いと、重たい空気と、雨の音が部屋の中に流れ込んできた。
「一美」
俺は振り返って、ドアの向こうに行こうとしていた一美の背中に呼びかける。
「ん?」
足を止め、一美は顔だけで振り返った。
「傘、差していけよ」
「いいよ、返せないし」
「やるよ、餞別だ」
言いながら、俺は玄関に近づき脇に立ててあった傘を手にとって一美のほうに差し出した。
少し迷うような顔をして、それから一美は笑って傘を持つ手を押し戻した。
「やっぱいい」
だろうな、と思いつつ、俺は素直にその手を引っ込めた。
「じゃあね」
その言葉を最後に、一美は今度こそドアの向こうへと出て行った。ドアが閉まると、雨音も急に小さくなる。一美の足音ももう聞こえない。
俺は傘立てに傘を戻し、それからため息を一つついた。
それは安どのため息だ。
夢を追いかけ続ける彼女に大して抱いていた黒い感情。
嫉妬だとか、劣等感だとか、その他もろもろいろんなものが俺の心にはいた。
それを一美にぶつけることが間違いだと言うのはわかっている。だからしなかった。
だが、一人で抱えきれる重さでもなくなっていて、俺自身いつか押しつぶされるのではないかと恐れていたのだ。
久し振りにゆっくり眠れるような気がして、俺は改めて布団の中に潜り込んだ。
きっとすぐに眠れる。夢もきっと見ないだろう。